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琵琶湖伝  作者: touyou
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第三部百四十「頭痛肩こり 板倉勝重」

 第三部百四十「頭痛肩こり 板倉勝重」

 店を出た四人は馬に乗り、逢坂山を越え、山科か

ら京の市中を目指した。

 その馬上での高虎の話は、正英と良之介に自分た

ちの動いていた意味を教えるものであった。

 忠勝や孫六や梶金平は、「何も知らぬが身のため」

と、二人が井伊側に捕縛された時を考え、細かいと

ころまではいわなかったのであろうと、正英と良之

介は考えた。

 その高虎の話では、本多忠勝が十一月に入ると突

如、正英らに彦根潜入を命じたのは、京都所司代長

官板倉勝重からの依頼であったというのだ。

 そしてその板倉に本多忠勝を頼るように助言した

のが藤堂高虎自身であることを、高虎自らの口から

聞かされ、日吉大社で死んだ五人の件に高虎も全く

無関係とはいえないことが分かった。

 彦根の有田屋では、日吉大社に集まり金地院崇伝

の警護に向かうのは板倉勝重の要請としか聞いてい

なかっただけに、先ほどの菊料理屋で、高虎がなぜ

「自分にも責任がある」というような発言をしたの

か、奇妙の感があったが、謎が解けた気が正英と良

之介にはした。

 ただ正英と良之介には、高虎と板倉のつながりが

はっきりと分からず、二人はそのことを高虎に尋ね

ると、

「今日は何日になるかな」

 と正英に逆に聞いた。

「今日ですか。十一月十三日かな」

 自信なげに正英がいうと、梶川が、

「今日は十三日」

 と念を押した。

「忠勝様から命令を受けたのは七日でしたから、こ

の六日間って本当にいろんなことがありましたね」

 良之介は疲れ気味でいう。

 正英も、この六日間はまさに「休む暇なく」、精

神も肉体も動かし続けてきた気がしていた。

「お若いの、良之介だったかな。まだまだ疲れるの

は今からだぞ。まぁ、その疲れの原因の責任がわし

にもあるのだから、偉そうにはいえんが、おおもと

の責任者の板倉勝重がわしの屋敷に来たのは、この

月の四日のことだったよ」

 高虎は、板倉について話し始めた。

 以下はその高虎の話を踏まえて、板倉勝重の動き

を十一月前後から追っていくことにする。



 十一月四日の夜、京都所司代長官の板倉勝重が、

京の藤堂家の屋敷を訪れ、直々に高虎に面談を申し

込んだ。

 板倉はここ数日なかなか寝むれず、そのせいか頭

痛と肩こりに悩まされていた。

 その頭痛と肩こりを治すために藤堂家を訪れたの

である。

 板倉の睡眠障害の原因は、現在駿府にいる家康の

十一月中旬の上洛の件であった。

 徳川家康の源氏長者と征夷大将軍任命への動きが

活発化し、来年の初めにも詔 (みことのり)が出る可

能性があり、最後の詰めのため、現在駿府にいる家

康自らが、十一月中旬か遅くとも十二月初めまでに

天皇に内密に拝謁し、会談をすることが決定した。

 内密のため家康は、五十人ほどのわずかな手勢で

隠密裏に京に向かうことになる。

 その際の家康の通行路として、山道よりも比較的

平坦で、高齢の家康の肉体的負担も少なく、安心で

きる武将たちが揃っている、さらには天下分け目の

決戦場となった縁起の良い関ヶ原を通過する尾張、

伊勢桑名、大垣、関ヶ原、彦根、大津ルートを駿府

の本多正信が家康の意向として、十月末に京を預か

る板倉勝重に伝えてきたのである。

 すでに天下の形勢も家康にあることは誰の眼にも

明らかで、ゆっくりと関ヶ原の合戦に思いをはせな

がら、天下人になるための、帝との会談に臨むとい

う案は、今までの家康の苦労を考えれば当然の旅路

であり、ゆっくりと体を休めながら、気のおけない

友とも言える古くからの家臣たちと昔話と未来を語

るのは、悪くないし、自分も一緒にその列に加わり

たいと板倉に思わせるものだった。

 しかしながら、現実に京の最前線にいる勝重には、

駿府の案はロマンティックすぎる気がしてきたのだ。

 毛沢東は、大日本帝国陸軍との抗日戦争や蒋介石

率いる国民党軍との国共内戦において、戦争には戦

略的退却、戦略的待機(準備)そして戦略的攻勢の三

つの段階があるとして、その段階を見極め、最終的

に中国の覇者となった。

 源氏長者と征夷大将軍任命の最終条件として、帝

と家康の秘密会談を提案したのは、反徳川反武家の

首魁、関白九条兼孝である。

 板倉からすれば、九条兼孝の案は公家方の大幅譲

歩ともとれ、徳川方を安堵させるものだったが、日

を追って板倉には、この譲歩の中に何らかの九条兼

孝の思惑があるのではないかという、疑念が次第に

大きくなり、心を占めていくようになる。

 その疑念とはなにか。

 毛沢東流にいうなら、譲歩は戦略的退却であり、

その間に戦略的攻勢の準備を整えているのではない

か。

 家康を死地に追いやる作戦を、公家方は練ってい

るのではないかということである。

 以下百四十一に続く

 ヨコ書き。この下のネット投票のクリックして一票入れてください。

 情けをかけておくんなさい。


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