第三部百三十四「猿飛 京への道」
後を附けられている。
猿飛佐助は、そう思った。
尾行される恐れは充分にあり、猿飛はそれなりの用心
もしていた。
高野山麓の九度山をあとにするときは、北へ向かって
すぐに大和街道に出るのが普通であるが、わざわざ遠回
りをして、西高野街道へ出ようとしていた。
それも尾行されることを、警戒してのことであった。
九度山に蟄居する真田父子の動きを、徳川方はひどく
警戒し厳しい監視下にある。
まだ時代は関ヶ原の合戦が終わって二年とわずか。
真田昌幸・幸村父子は直接、関ケ原の合戦には参戦し
ていない。
だが、昌幸・幸村父子は信州上田において、徳川秀忠
の大軍と一戦を交え、多大の損害を与えている。
第一部で述べたが、もし本多忠勝が娘の夫である真田
信幸に同調し命を賭けた訴えを家康にしなければ、真田
父子の命はなかったのである。
家康はやむを得ず生かしたのであるが、やはり真田父
子の存在が気になり始めていた。
いまのままでは、豊臣方の招きに応ずるかもしれない。
敵に回すと、厄介な真田父子である。
そうかと言って、急に赦免して、手のひらを返したよ
うにもてなして、味方につけるというわけにもいくはず
がない。
そこで家康は、和歌山を領有する大名の浅野家に、九
度山の動きを徹底的に監視するように命じたのであった。
しかしそれだけでは不安な家康は、服部半蔵配下の多
数の伊賀者も内々に置き、九度山の動静と、出入りする
者たちに目を光らせていた。
その九度山を密かに、抜け出した猿飛佐助だったのだ。
真田屋敷から逃げた忍びの者を倒し屋敷に戻った猿飛
に対し、幸村は翌朝の出立を命じた。
幸村の命で菊亭晴季の下で「信長の遺書」を探すこと
になった猿飛は、菊亭が表向きの目的である、高野山参
詣のために高野山に向かい、猿飛一人で京都の菊亭の屋
敷に行くことになったのである。
西高野街道を下り始めたとき、太陽はすでに猿飛の真
上に来ていた。
徳川方の手の者の眼をかいくぐることなど、猿飛には
たやすいことであったが、それでも用心のための西高野
街道であった。
しかしそこまでしても、後をつけてくる者がいたのだ。
背後に感じる人影は、山伏の姿をしている。
山伏は、山岳修行により宗教的な能力を身につける。
「山に伏す」ことから山伏(山臥)といわれた。
特定の霊場寺社に拠点をもちつつも、各地の霊山を渡
り歩いて修行する「旅の宗教者」でもあった。
その山伏は頭に、兜巾(ときん 修験道の山伏がかぶ
る小さな布製の頭巾)をかぶっている。
また、左手首に念珠を巻き、右手には金剛杖を持って
いた
山伏に化けている徳川方の者か、それとも高野山で修
行中の本物の山伏なのか、判断は不能であった。
判断するためには、何をしたらよいのか。
結論がでた瞬間、猿飛は走りだした。
時速四十キロ。
常人には考えられない凄まじい速さで走った。
千メートルを一気に駆けた。
次第に並足に戻していく。
やはりまだ、背後に視線を感じた。
同じ山伏が、息も切らずについてきていた。
もう遠慮はいらない。
この山伏は、明らかに忍びだ。
猿飛は足を止めた。
山伏も立ち止まる。
お互いの殺気がぶつかり、空気が波立ってきていた。
以下百三十五「空中決戦 霧隠才蔵」に続く
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