第三部江湖闘魂完結編百三十「太田牛一伝」
この琵琶湖伝中には、「もっとも簡単な言葉で誰でも言
えるが、ある者の前では絶対にいってはいけない恐ろしい
言葉」がある。
賢明なる読者の皆様にはもうお分かりであろう。
それは、孫六に対する「牛」である。
この「もっとも簡単な言葉で誰でも言えるが、ある者の
前では絶対にいってはいけない恐ろしい言葉」を名に持つ
男、太田牛一とはいかなる者であるのか、簡略に述べる。
太田牛一 (おおた ぎゅういち、うしかずともいう)は、
一五二七年に尾張の国に生まれ、一六一三年に大阪で亡く
なった、当時としてはかなりの長寿を全うした人物である。
最初は柴田勝家の家臣であったが、一五六八年よりその
武術と書記官的才能をかわれ、織田信長直属の家臣となる。
太田牛一は、若きより弓術の名手として知られていたが、
信長の近江進出に伴い一五七五年ごろより、琵琶湖南西の
長等山中腹に広大な敷地を有する大津の天台寺門宗(てん
だいじもんしゅう)の総本山である三井寺(みいでら 正
式名称は長等山園城寺 (ながらさんおんじょうじ))にお
いて、伝教大師最澄様直伝の独鈷比叡剣の流れを汲む三井
園城拳の習得に励み、己の武術にさらなる磨きをかけた。
一五八二年の本能寺の変のときは、近江大津堅田近辺の
代官を勤めていた。
信長亡き後一時期仏門に入ったが、九〇年豊臣秀吉にそ
の武術の才を請われて出仕、秀吉の警護責任者的役割を果
たす。
すでに齢 (よわい)六十三であったが、その肉体は壮健に
して二十代の若者にみえたという。
同年に行われた「美里拳論会(琵琶湖決戦編八三、八四
参照)」には、老年の身ながら出場、準決勝まで勝ち進み、
古今天真拳(古今伝授 (こきんでんじゅ)継承者のみが学べる
空海ゆかりの武術)を使う細川幽斎(一五三四年に生まれ一
六一〇年に亡くなる。足利義昭の側近であったが、後に織
田信長に仕え、信長死後は豊臣秀吉、徳川家康に仕え、時
代の変転を見事に見極め生きていく。そういう戦国武将の
一面とともに当代一流の文化人でもあり、師から弟子へ口
伝される秘事としての古今和歌集の解釈の要諦(古今伝授)
を当時唯一知る人物であった。九〇年当時は丹後宮津城城
主)と対決。
太田牛一は、空中書 (書の達人でもあった空海様や最澄
様の筆法から生まれ、筆に気を込め空中に描いた文字で敵
を攻撃したり、空中に碁盤の目を描き空中碁で相手と頭脳
勝負をしたりするものである。両者の対決は数時間に及び、
美里拳論会の歴史に残る名勝負となったが、最終的には空
中碁で幽斎が、中押し勝ちをして勝敗が決した) 対決に惜
敗する。
そして一五九八年の秀吉の死後、その消息が不明となる。
一六〇三年突如大阪天満に姿を現し、晩年の十年をそこ
で過ごす。
その間に織田信長の一生を描いた「信長公記(「しんちょ
うこうき」と読む。「のぶながこうき」でも「しんちゃんうきうき」
でもないから注意したい)」を書き残す。
「信長公記」は現在においても、信長関係の資料として
は一級のものとみなされている。
以上が巷間伝えられる太田牛一についての紹介に、勝手
な解釈も付け加えたいい加減なものであるが、当然の如く
時の権力に恐れられた「信長の遺書」は歴史の闇に葬り去
られ、史料偏重の現在の歴史学会においては誰もその存在
を認めていない。
また秀吉死後からの五年間の太田牛一の足跡も分かって
いない。
この歴史の闇に光を当て、愛と正義と真実を追求するこ
とを趣旨とする「琵琶湖伝」では、正史に語られぬ部分に
あえてメスをいれるわけである。
太田牛一は、何処に・・・・・・。
では話を彦根有田屋の板間に戻すことにする。
「信長の遺書の行方を探ってもらいたい」
といわれたお香をはじめ正英、良之介、十蔵は、「信長
の遺書」という名辞に首をかしげる。
この場の雰囲気を察した孫六は、「信長の遺書」につい
ての説明をした(琵琶湖伝百二十九参照)。
当然だが孫六は、「おおたぎゅういち」と読み「おおた
うしかず」とは読まなかった。
もし「うし」と読んだら。
この世の中には、「もっとも簡単な言葉で誰でも言える
が、ある者の前では絶対にいってはいけない恐ろしい言葉」
があるのだ。
孫六が「うしかず」と読まなかったのは、幸いであった。
以下百三十一に続く
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