第二部琵琶湖決戦編百十八「義侠烈女記」
第二部琵琶湖決戦編百十八「義侠烈女記」
「邦源様、大切に育てられたお香さんが、なぜここ数年
家に戻っていなかったのですか」
恐る恐る、前から疑問に思っていたことを問う。
「うん・・・・・・」
邦源の声の響きがなんとなく寂しそうに聞こえた。
「ご無理だったら」
「いや、案ずる必要はない。わしもお香が諸国を旅して
生きるようになった理由を教えるために呼んだようなも
のだ。お香が十五歳になったとき、喜市包厳が半蔵の手
紙をもってまた訪ねてきたのだ」
「約束が違いますよね」
「そうだ。一応、会って半蔵の手紙を読んだが、お香を
娘とすることに反対した正妻が一昨年死に、服部家に戻
すための障害もなくなり、自分自身も家康公のもとで確
固たる地位を築き、伊賀者総支配として天下に名を知ら
れる存在となった。虫の良い話だが、お香を服部家から
嫁として出してやりたいという思いが日ごとにつのり、
約束を破ることは承知の上で手紙を書いた。ぜひ、この
忍者者の心を汲み取ってもらえまいか、というものだっ
た」
正英は湖面に向かいはきすてるように、
「服部様はまちがっている」
といった。
「邦源様、じつは私は、生まれたときに母が死に父も四
歳のときに。それからは養父母に育てられ、養父母を実
の父や母と思っております。それは、お香さんも同じ。
それに半蔵様は、捨てたも同然の仕打ちをしたのですよ。
よくそんなことが邦源様にいえたものですね」
正英は、怒りを覚え、あの関ヶ原のとき、たびたび家
康のもとに戦況を伝えにきた、半蔵の顔を思い出し、憎
たらしくなった。
「わしも怒ってな。喜市にお香は絶対に渡すさんと半蔵
にいえというてやった。すると喜市は伊賀を敵にまわし
たいのかというたわ・・・・・あとは「来るならこいや」
「おうそうか、吐いたツバ飲むなよ」と、もう喧嘩だ。
すでに見事なハゲになっていたが、つるつる頭から湯気
を立てて、喜市は伊賀に帰ったよ」
「まさかお香さんは、その話をきいたのですか」
「いや、お香は聞かなかったが、息子の邦長が、堅田と
伊賀の争いになることを心配したのか、その日のうちに
お香にすべてを話し、父邦源のために伊賀に戻ってくれ
ぬかと、頼んだそうだ」
「邦長さんもひどいことを」
「次の日の朝早く、邦長がわしのところに来て、悪鬼の
ようなことを愛する妹にいってしまった。あやまりたい
が、一緒についてきてほしいと情けないことをいったわ。
邦長を殴ってから、二人でお香の部屋にいくと、お香が
いない。まさかと船着き場にいくとお香が小船を出すと
ころであった」
すでに湖面からは闇が消え去り、空は薄桃色に変わり
つつある。
正英は、お香と同じ立場に置かれれば、やはり自分も
ふるさとを出て行くだろうと考えた。
実の父親は一人である。
お香にとってそれは邦源であり、半蔵ではない。
ならば堅田のため伊賀に戻るのか。
それは邦源の誇りを傷つけるものである。
娘を犠牲にしてまで生きようなどと考える父親がいる
はずがない。
ならばこのまま堅田に残るのか。
それでは、堅田全体の「父」でもある邦源に堅田を戦
乱に巻き込ませる責任を負わせることになる。
答えはひとつ。堅田をお香が出てゆくしかない。
それは情けをかけてもらった者への礼儀だし、実の父
親というべき者の危難を救うのが「義理」を果たす最善
の方法であろう。
場合によっては、己をこの世から消し去っても悔いは
ない。
「義侠とは愛着の断念である」と見田宗介氏は喝破し
たが、家族への愛着を捨て、愛する人への思いを断ち切
り、その果てには死をも辞さない激烈たる倫理性こそが、
人間を人間足らしめるのだ。
四年前にふらりと大多喜へ現れたお香がなぜ年の離れ
た自分と波長があうのか、その理由が分かったように正
英には思えた。
以下百十九に続く