第二部琵琶湖決戦編百十二「山内記念」
山内記念は、所司代の中では、
(さえない男)
であった。
己の十手の技を同僚との練習試合などでひけらかす
でもなく、淡々と同心として犯人捕縛に勤めているだ
けである。
小悪党を捕まえるのに技をだす必要もない。
だから周囲の同心と記念の実力差など誰も気づかな
い。
所司代の評価もせいぜい「並」程度であった。
今度の暗殺隊へ呼ばれたのも、腕達者の一人くらい
で、同心の責任者役を言い付かったのも、「年長者」
だからだった。
しかし、記念自身は、やっと己の力を発揮できる場
を与えられたと思っていた。
すでに四十を越え肉体的衰えを感じつつあるこのご
ろ、少年の時からひたすら修行に明け暮れてきた十手
の技を一度も実戦で使うことなく、老いていくのかと、
「焦燥感」すら覚えていたのだ。
「新免無敵」の鉢巻きは、己の意気込みを記念なり
に象徴させたものである。
その鉢巻きをした山内記念は体の力を抜き、左右の
手に一本ずつの十手を持ち、降りしきる雨の中で、走
ってくる宮内平蔵に眼をやりながら立っていた。
突然、雨の音が遠のいた。
雨足が弱まって、ピタリと雨がやんだ。
急に水溜りを駆けてくる足音が記念の耳に飛び込み、
その刹那、宮内平蔵の裂ぱくの気合を込めた太刀が、袈
裟懸けに振り下ろされた。
記念の両腕から、キラリキラリと光が動いた。
平蔵の刃 (やいば)を右手の十手の鉤 (かぎ)の部分で
くいとめるや、そのまま己の右腕を肘を中心にしてひね
ると、平蔵の一刀は、ポキリと折れてしまう。
同時に左手に持つ十手で平蔵の右手首をしたたかに叩
く。
普通なら左手の方で頭蓋骨を叩き割るのだが、凄腕の
剣客なら折れた剣の残りの部分を体ごとぶつけて相手の
首筋を狙いかねず、まず刀を手からはなさせることに、
記念は傾注したのだ。
あまりの痛打に平蔵は、握っていた半分に折れた太刀
を地に落とした。
休まず記念は、平蔵の股間を蹴り上げる。
(蹴り上げたあたりで何やらつぶれる音がし、平蔵は鼻や
口より血を吐きながら倒れる)
はずであった。
しかし、蹴りは浅かったのである。
もちろん平蔵は、その痛みから記念に背中をみせたほ
どだが、「つぶす」までには至らなかった。
なぜか。
蹴り上げようとする記念の首筋にむかい、一条の光が
むかってきたのだ。
その光を十手で払ったぶん、深い蹴りができなかった
のである。
さらに二本の光を地に叩き落とす。
卍形の手裏剣であった。
「宮内殿、大丈夫か」
二人の男が平蔵を抱きすくめた。
「ウゥッ、すまん。不覚だ」
平蔵がかすかに声をだす。
馬に乗った男が現れ、平蔵を馬に引き上げ、そのまま
走らせ始める。
追いすがろうとする記念に、残った二人が応戦し、そ
の間に馬は去っていった。
・・・・・・。
このあとの状況を見た所司代の同僚の話によると、悪
鬼の形相で立ちつくす記念の足元に、頭を割られた者と
顔の形が無くなった者との二つの死骸があったという。
その者が恐る恐る記念に声をかけると、すぐに普段の
穏やかな顔になったそうな。
以下百十三に続く