第二部琵琶湖決戦編一〇三「宮内平蔵」
大津の宿に、青葉屋という二階建てだがそう大
きくない旅籠がある。
多くの旅籠や居酒屋が立ち並ぶ宿場町の通りの
一角で昔から、細々と旅館業を営んでいた。
その青葉屋の二階の一部屋で、静かに高西暗報
の帰りを待つ男がいた。
名は宮内平蔵 (みやうち へいぞう)。
三十五歳。
長身で筋肉質だが、顔が異常に青白く陰鬱な感
じを人に与える。
右頬に傷跡があり、まだ新しいのかかなり目立
つものであった。
この男、もとは薩摩藩の人間であり、北薩摩の
東郷(東郷重位 後年示現流剣術の始祖となる)か
南薩摩の宮内かといわれた剣の達人である。
その腕を買われ、あの関ヶ原の折に、敵中突破
を成功させた島津義弘の護衛役として、一五九九
年まですごすが、その年の暮れ薩摩藩内で一大騒
動を起こす。
なんと義弘の若い側室に懸想し、手篭めにしよ
うとして失敗、側室と側室を守ろうとした二人の
藩士を殺害し、その日のうちに薩摩を逐電したの
である。
義弘の怒りはすさまじく、急ぎ討ち手を差し向
けるが、いずかた知れず、そのうちに時代は関が
原へとむかい、宮内平蔵の件はうやむやになって
しまう。
諸国を逃げ回っていた宮内平蔵は、関ヶ原で西
軍が負け、島津義弘が薩摩本国に戻ったことを知
り、島津とは逆に京都にむかった。
反徳川の中心人物関白九条兼孝が、しばしば京
の薩摩屋敷を訪れていて、義弘の護衛役であった
宮内平蔵は、なんども直接に話をしていた。
(自分の剣の腕は今の九条様には必要なはず)
という読みがあったのだ。
一六〇〇年の十月、九条兼孝の邸宅の門をたた
いた宮内平蔵は、まったく無視をされ、門番たち
に追い返される。
ただ、一人の門番から、無言で紙切れを手渡さ
れた。
その紙切れには、地図と烏丸の文字があり、九
条兼孝が薩摩屋敷に来たときに、いつも傍らにいた、
烏丸中将成幹(からすまちゅうじょうなりみき 第
一部五十三節参照)という公家の顔を、宮内平蔵は
思い出していた。
烏丸の門前に行くと、係りの者が庭に回れという。
庭に行くと、顔をべったりと白く塗った面長の男
が、御付の者もつけず一人で待っていた。
「そちが、宮内か」
少々かん高い声で宮内平蔵に声を掛けてくる。
宮内平蔵はその場に、片ひざを地につけ黙礼する。
「そなたの腕を、麿自ら試してつかわす」
そういうと成幹は、妙に細長い剣を抜き、その抜
いた右手を前に突き出し、半身の構えになった。
そして、
「どこからでも、かかっておじゃれ」
とやはり、かん高い声でいう。
宮内平蔵は、笑いをこらえながら立ち上がり、刀
を抜き青眼に構える。
(ほどよいところで負けてやろう)
くらいの気持ちで成幹にむかった。
以下一〇四に続く