『答えは、まだ出さなくていい』
この物語は、「勉強が苦手だ」と感じている一人の小学六年生の心の中を描いたお話です。
主人公の裕は、将来について深く考えるのが得意ではありません。むしろ、考えること自体を「めんどくさい」と感じています。それは、今の子どもたちにとって、とても自然な気持ちではないでしょうか。
大人はよく、「勉強は将来のためだ」と言います。でも、その言葉が、子どもたちの心にそのまま届くとは限りません。遠い未来の話より、今日や明日のほうが大切に感じられるからです。
この物語では、勉強を好きになることや、立派な夢を見つけることをゴールにはしていません。ただ、「考えることをやめない」という、小さな変化を大切にしています。答えが出なくてもいい。立ち止まってもいい。そう思えることが、これから生きていく力につながるのではないかと考えています。
『答えは、まだ出さなくていい』
第一章 まだ先の話
小学六年生の美里 裕は、勉強が苦手だと思っている。
いや、正しく言うなら――「苦手だと決めている」に近いのかもしれない。
算数のテストで、八十点を取ることはある。国語だって、文章問題はまあまあできる。
だけど、クラスには九十点、百点を当たり前みたいに取るやつがいる。
そういうやつのとなりにいると、裕の点数は、なんだか小さく見えた。
黒板の前で先生が言う。
「来年は中学生だぞ。今のうちに、しっかり力をつけておけよ」
裕はノートにえんぴつを置いたまま、窓の外を見た。
校庭のすみの木が、風にゆれている。
体育の時間に走るとき、あそこを曲がる。毎日見ているのに、名前は知らない。
(木って、いいよな。テストないし)
裕は心の中でつぶやいて、ちょっとだけ笑った。
中学。
将来。
進路。
そういう言葉は、先生の口から出ると、急に重たくなる。
でも、裕の中では、まだふわふわしていた。
「このまま小学校を卒業して中学行って、将来俺は何になるのかな?」
放課後の帰り道。
ランドセルを背負ったまま、裕はとなりを歩く友だちに言った。
友だちの名前は大城 恒一。
背が高くて、走るのが速い。
サッカーのクラブに入っていて、休みの日も練習に行くらしい。
「何になるって、そりゃ……会社員とか?」
こういちは、あっさり言った。
「会社員って、なんだよ。ふわっとしすぎだろ」
「じゃあ裕は?」
聞き返されて、裕は肩をすくめた。
「ずーっと先のことさ。その時は配信とかユーチュウバーとかゲイマーになるさ」
自分で言ってみたら、気が楽になった。
未来なんて、遠すぎる。
今から考えたって、どうせ当たらない。
そう思いたかった。
でも――不安がないわけではない。
道ばたの小さな公園に、同じクラスの女子がいた。
上原 すみれだ。
いつもノートがきれいで、発表もハキハキしている。
すみれは、制服みたいな白いシャツを着ていた。
塾の帰りなのか、テキストの入ったかばんを持っている。
「裕くん、明日の小テスト、勉強した?」
すみれが聞いた。
「……小テストって、あったっけ」
裕が言うと、すみれは目を丸くした。
「国語の漢字。先生、言ってたよ。授業の最後に」
「あー……」
裕は、記憶の引き出しを必死にさがした。けど、見つからない。
こういちは笑った。
「裕、聞いてなかったんだろ」
「聞いてたって。……たぶん」
すみれは、あきれたように息をついて、でも怒った顔はしなかった。
「私、塾で同じ範囲やったから、ポイントだけ言う?」
裕は一瞬、言葉につまった。
(ポイントだけ言う?)
それって、助かる。
だけど――なんだか、悔しい。
勉強ができる人表示みたいで、こっちが「できない人」になる感じがする。
「いい、いい。大丈夫」
裕は、なるべく明るく言った。
「ユーチュウバーになるなら、漢字なんていらないだろ」
言ったあとで、自分でも「え?」と思った。
今の、うそっぽい。
すみれは、ちょっとだけ口をとがらせた。
「……裕くんって、そういう言い方するよね」
「え、何?」
「なんでもない」
すみれは歩き出した。
公園の出口のところで振り返り、
「でも、勉強できたほうが、動画の説明も上手くなるんじゃない?」
そう言って、軽く手をふって帰っていった。
こういちが、ぽつりと言った。
「すみれ、優しいのにさ。裕、もったいないぞ」
「うるさい。別に」
裕は、足元の小石をけって前に進んだ。
家までの道が、いつもより長く感じた。
夕ごはんの前、裕は自分の部屋でランドセルを床に置いた。
机の上には、宿題のプリントがある。
算数と国語。
どっちも、白いまま。
(めんどくさい)
裕はイスに座って、えんぴつを持つ。
持つだけで、手が止まる。
机の上の時計の秒針が、カチ、カチと動く音が聞こえた。
裕は、ふと思った。
(勉強って、何のためにするんだろう?)
先生は「中学のため」と言う。
親は「将来のため」と言う。
でも、裕にはどっちも、遠い。
今の自分に関係あるようで、関係ないような。
役に立つって言うけど、明日役に立つわけじゃない。
今、役に立つのは、ゲームのコツとか、友だちとの話のほうだ。
――そのとき。
階下から、母の声がした。
「裕ー! ごはんできたよー!」
「はーい」
裕は返事をしたのに、体が動かなかった。
(……将来のこと、考えるの、めんどくさい)
そう思ってしまう自分が、少しだけ嫌だった。
でも、考えるのをやめたら楽になる気もした。
裕はえんぴつを置いて、机の引き出しからスマホを取り出した。
いつものアプリを開く。
動画の一覧が、ずらっと出てくる。
その中に、知らないチャンネルが混ざっていた。
サムネイルには、大きな文字。
「勉強って意味ある? って思う人へ」
裕の指が、止まった。
まるで、自分に言われたみたいだった。
裕は、何かに引っぱられるように、その動画をタップした。
第二章 勉強って、なんのため?
動画は、思っていたのと少しちがった。
派手な音も、早口もない。
画面に映っているのは、二十代くらいの男の人だった。
部屋もふつうで、後ろに本棚があるだけだ。
「こんにちは。今日はね、『勉強って意味あるの?』って思ったことがある人に向けて話します」
裕は、イスにもたれたまま画面を見た。
(あるある。めっちゃある)
男の人は、ゆっくり話した。
「先に言っておくけど、勉強ができなくても、生きていけます。これは本当です」
裕は、思わず画面に近づいた。
(え?)
「でもね。勉強って、仕事のためだけじゃないんです」
男の人は、少し考えるように間をあけてから言った。
「たとえば――だまされないため。
たとえば――自分で考えて、選ぶため。
たとえば――『これ、おかしくない?』って思うため」
裕の頭の中で、何かが小さく動いた。
「答えを覚えるよりも、大事なのは、考える練習です。
考えるのって、正直めんどくさい。
でも、考えないままだと、誰かの言うことを、そのまま信じるしかなくなる」
裕は、胸の奥が、少しだけチクっとした。
動画はまだ続いていたけど、母の声がして、そこで止めた。
「裕、ごはん冷めるよ」
「今行く」
スマホを置いて、裕は立ち上がった。
頭の中に、さっきの言葉が残っている。
(考える練習、か……)
でも、すぐに別の考えが出てきた。
(いやいや、そんなの大人の理屈だろ)
裕は、そのまま階段を下りた。
次の日の一時間目は、算数だった。
黒板には、分数の問題が書いてある。
「はい、じゃあこの問題。美里、やってみるか」
先生に名前を呼ばれて、裕はびくっとした。
(よりによって、俺かよ)
ゆっくり立ち上がって、黒板の前に行く。
問題は、昨日の宿題と似ていた。
(落ち着け。やり方は、わかる)
裕は計算を書いた。
途中までは合っている気がする。
でも、最後の答えを書くところで、手が止まった。
(これで、いいのか?)
教室が静かすぎて、チョークの音がやけに大きく聞こえる。
「……えっと」
裕は、思いきって答えを書いた。
「はい、そこまで」
先生が黒板を見る。
「うん、考え方は合ってるな。でも最後、ここな」
先生は赤チョークで、裕の答えを直した。
「約分を忘れてる」
クラスのあちこちから、小さな声がした。
「あー」
「もったいない」
裕は、うなずいて席に戻った。
(まただ)
できないわけじゃない。
でも、「最後のひと手間」をよく忘れる。
席に着くと、こういちが小声で言った。
「惜しかったな」
「……別に」
本当は、少しだけ悔しかった。
できたか、できなかったか。
その差は、ほんの少しなのに、結果ははっきり分かれる。
そのとき、昨日の動画の言葉が、また浮かんだ。
(考える練習)
でも、裕はすぐに首をふった。
(考えすぎると、めんどくさくなるだけだ)
休み時間。
すみれが、ノートを持って近づいてきた。
「さっきの算数、ここで止まったでしょ」
「……見てたのかよ」
「うん。約分、忘れやすいよね」
すみれは、ノートを開いて、同じ問題を書いた。
「最後に、もう一回見直すだけでいいんだよ」
「見直すのが、めんどくさいんだって」
裕が言うと、すみれは少し笑った。
「それ、動画見る時間の半分でもやればいいのに」
「うっ」
言い返せなかった。
すみれは、少し真面目な顔になった。
「ねえ、裕くん」
「なに?」
「勉強ってさ、将来のためだけじゃないと思う」
裕は、どきっとした。
「昨日、ユーチュウバーが言ってたんだけど――」
「え?」
すみれは言葉を止めた。
「……あ、いや。なんでもない」
「なにそれ」
「そのうち、わかるかも」
そう言って、すみれは席に戻った。
裕は、なんだか置いていかれた気分になった。
その日の帰り道。
裕は、こういちと並んで歩きながら言った。
「なあ、こういち」
「ん?」
「勉強ってさ、なんのためにしてる?」
こういちは、少し考えてから答えた。
「うーん……サッカー続けるためかな」
「は?」
「成績悪いと、クラブ続けさせてもらえないんだよ」
「あー……」
なるほど、そういう理由もある。
「じゃあ、勉強がいらなくなったら、やめる?」
「たぶん。でも今は必要」
こういちは、あっさりしていた。
裕は、空を見上げた。
雲がゆっくり流れている。
(人によって、理由ちがうんだな)
その日の夜。
裕は、また昨日の動画を開いた。
続きを再生する。
「考えるのをやめると、人は楽になります。
でも、楽なままでいると、選べなくなります」
裕は、スマホを持ったまま、ため息をついた。
(選ぶって……そんな大げさな)
でも、なぜか、動画を止めることはできなかった。
考えるのは、めんどくさい。
それでも――
裕の中で、「勉強」という言葉が、少しだけ形を変えはじめていた。
第三章 正しいはずなのに、ピンとこない
夕方、台所からカチャカチャと音がしていた。
裕は、リビングのテーブルに算数のプリントを広げたまま、えんぴつをくるくる回している。
「まだ終わってないの?」
母が、冷蔵庫から顔を出して言った。
「……今やろうとしてた」
「“しようとしてた”は、まだやってないって意味だよ」
母はそう言って、ため息をついた。
「中学に行ったら、今よりもっと勉強増えるんだからね。今のうちに、ちゃんとやる習慣つけないと」
裕は、えんぴつを止めた。
「ねえ」
「なに?」
「勉強ってさ、なんのためにするの?」
母は、一瞬だけ考えてから答えた。
「将来困らないためよ」
「困らないって、どういう?」
「仕事が選べなくなったり、生活が大変になったりするでしょ」
「……ふーん」
裕は、なんとなくうなずいた。
言っていることは、わかる。
でも、頭の中に入ってきても、心の中までは届かない。
(将来、将来って言われてもな)
裕にとって「将来」は、遠くの景色みたいなものだった。
見えるけど、さわれない。
夜。
父が仕事から帰ってきて、三人でごはんを食べているときだった。
「そういえば、裕」
父が言った。
「もうすぐ卒業だな」
「うん」
「中学、楽しみか?」
裕は、少し考えた。
「……半分くらい」
「半分?」
「楽しみ半分。不安半分」
父は、にやっと笑った。
「正直でいいな」
箸を置いて、父は続けた。
「俺もな、子どものころは勉強好きじゃなかった」
「え、ほんと?」
「ほんと。テスト前だけ必死だった」
裕は、ちょっと安心した。
「でもな」
父は、声のトーンを少し変えた。
「大人になってから思うんだ。
あのとき勉強してて、よかったなって」
「なんで?」
「考えるクセがついたから」
父は、指でテーブルをトントンとたたいた。
「仕事でも、ニュースでも、人の話でも、
『これって本当か?』って考えるだろ」
「……」
「考えないと、楽だけどな。
でも、考えないままだと、流される」
裕は、昨日見た動画の言葉を思い出した。
(考えないままだと、選べなくなる)
同じようなことを言っている。
でも、父の言葉は、なぜか少し重たく感じた。
「まあ、無理に今わからなくてもいい」
父は、そう言って笑った。
「そのうち、ピンとくる」
裕は、笑えなかった。
(その“そのうち”が、よくわかんないんだよ)
次の日の学校。
社会の時間に、先生が言った。
「これからは、自分で調べて、自分の言葉でまとめる力が大事になります」
黒板には、大きく書かれている。
「考える力」
先生は続けた。
「答えを覚えるだけじゃなくて、なぜそうなるのかを考えること」
裕は、ノートにその言葉を書いた。
(また“考える”か)
昨日から、やたらと出てくる言葉だ。
授業が終わったあと、裕はこういちに聞いた。
「先生の話、どう思った?」
「ん? まあ、普通」
「普通って?」
「考えろってことだろ」
「それが、めんどくさいんだよ」
こういちは、肩をすくめた。
「俺はサッカーできればいいし」
「いいな、それ」
「裕も、やりたいこと見つければ?」
裕は、言葉につまった。
やりたいこと。
動画を見るのは好きだ。
ゲームも好きだ。
でも、それを「将来」に結びつけると、急に自信がなくなる。
(好きなだけで、いいのかな)
放課後、図書室の前で、すみれに会った。
「ねえ、裕くん」
「なに?」
「昨日の動画、続き見た?」
裕は、びくっとした。
「……なんで知ってるんだよ」
「やっぱり」
すみれは、少し照れたように笑った。
「私も、その人の動画、たまに見る」
「え、そうなの?」
「うん。勉強の話だけじゃなくて、生き方の話する人」
裕は、少しだけ距離が縮まった気がした。
「ねえ」
すみれは、真面目な顔になった。
「大人の言うことって、正しいと思う?」
「……正しいけど、ピンとこない」
思ったまま言うと、すみれはうなずいた。
「私も同じ」
「え?」
「だから、自分で考えたいんだと思う」
裕は、その言葉を聞いて、胸の奥がざわっとした。
(自分で、考える)
正しい答えがほしいわけじゃない。
ただ、納得したいだけなのかもしれない。
その夜。
裕は、また動画を開いた。
男の人は、画面の中でこう言っていた。
「大人の言うことが、全部正しいわけじゃない。 でも、全部まちがってるわけでもない」
裕は、スマホを持ったまま天井を見た。
(じゃあ、どうすればいいんだよ)
答えは、まだ出ない。
でも――
「考えなくていい」と思っていた昨日より、
少しだけ、前に進んでいる気がした。
それが、ちょっとめんどくさくて、でも、悪くない気もした。
第四章 画面の向こうの人
土曜日の朝、裕は目覚ましより先に目がさめた。
カーテンのすき間から、光が入っている。学校が休みの日は、それだけで少し気が楽
だ。
布団の中でごろっと体を転がし、スマホを手に取る。
(続き、見ようかな)
あの動画のことが、頭のすみに残ったままだった。
タップすると、前回の続きから再生された。
画面の中の男の人は、相変わらず落ち着いた声で話している。
「勉強ってね、将来の仕事のためだけだと思われがちなんだけど、本当は“今の自分”のためでもあるんです」
裕は、あくびをこらえながら聞いた。
「たとえば、ニュースを見るとき。
たとえば、ネットのうわさを見るとき。
たとえば、誰かが『これが正しい』って言ったとき」
男の人は、少し笑った。
「そのまま信じるのも、楽です。でも、
『ほんとかな?』って考えられるかどうかで、人生はけっこう変わります」
裕は、画面を見つめた。
(人生って……大げさだな)
そう思ったけど、不思議とイヤじゃなかった。
「考える力は、筋肉と同じです。使わないと、弱くなる。使えば、少しずつ強くなる」
男の人は、そう言ってから、こんなことを言った。
「だから、勉強は“答えを出すため”じゃなくて、
“考える練習”だと思ってください」
裕は、胸の奥がじんわりするのを感じた。
(考える練習……)
今まで、勉強は「正解か、不正解か」だけだった。
丸か、バツか。
できるか、できないか。
でも、「練習」なら――
下手でも、いい。
失敗しても、いい。
動画の最後に、男の人はこう言った。
「答えは、すぐ出さなくていいんです。
考え続けることが、大事なんですから」
裕は、再生が終わった画面を、しばらく見つめていた。
動画のタイトルが、目に入る。
『答えは、まだ出さなくていい』
「……それ、ずるいだろ」
裕は、小さくつぶやいた。
なんだか、自分の心をそのまま言われたみたいだった。
昼前、母に言われて、近くのスーパーまで買い物に行くことになった。
「牛乳とパン、あと卵ね」
「はいはい」
自転車に乗って、いつもの道を走る。
途中、商店街の掲示板の前で、足を止めた。
「期間限定! 半額!」
大きな文字が目に入る。
(半額って、ほんとに得なのか?)
ふと、動画の言葉がよみがえった。
(そのまま信じるか、考えるか)
裕は、近づいてよく見た。
小さな文字で、「一部商品を除く」と書いてある。
「あー……」
ちょっとだけ、わかった気がした。
考えるって、こういうことかもしれない。
スーパーの中でも、裕はいつもと少しちがった。
値段を見て、重さを見て、どっちが得か考える。
卵の数を数えて、「こっちのほうが安いな」と思ったりする。
家に帰ると、母が言った。
「ずいぶん時間かかったね」
「ちょっと考えてた」
「何を?」
「どのパンが一番安いか」
母は、少し驚いた顔をして、それから笑った。
「珍しいね」
裕は、なんだか照れくさくなった。
午後、宿題に取りかかる。
相変わらず、めんどくさい。
でも、前と少しちがう。
(答えを出すんじゃなくて、考える練習)
そう思うと、間違えても、前ほどイライラしなかった。
約分を忘れそうになって、手が止まる。
(最後に見直す……だっけ)
すみれの言葉を思い出して、もう一度見る。
「あ」
間違いに気づいた。
丸をもらえるかどうかは、まだわからない。
でも、さっきより、ちょっとだけできた気がした。
夕方。
ベランダに出ると、空がオレンジ色に染まっていた。
裕は、手すりにもたれて、空を見上げる。
(将来、何になるか)
まだ、よくわからない。
ユーチュウバーになるかもしれないし、ならないかもしれない。
でも――
(考えないよりは、考えたほうがいいのかも)
そう思った自分に、裕は少しだけ驚いた。
考えるのは、やっぱりめんどくさい。
でも、めんどくさいことの中に、大事なものがある気がした。
裕は、ポケットの中のスマホをぎゅっとにぎった。
答えは、まだ出さなくていい。
でも、考えるのをやめないでいよう。
今は、それでいい。
第五章 少しだけ、見え方が変わった
月曜日の朝、裕はいつもより少し早く家を出た。
理由は特にない。
ただ、なんとなく。
空気がひんやりしていて、朝の道は静かだった。
電線の上に止まっている鳥が、小さな声で鳴いている。
(鳥って、何考えてんだろ)
前なら、そんなこと思わなかった。
でも今は、「考える練習」という言葉が、頭のどこかに残っている。
学校に着くと、教室はまだ半分くらいしか人がいなかった。
裕は席に座って、ランドセルから教科書を出す。
そのとき、前の席のこういちが振り返った。
「今日、社会のテストあるって知ってた?」
「……え?」
「先週、言ってたぞ」
裕は、頭を抱えた。
(また聞き逃してた)
「まあ、小テストだけどな」
「小でも大でも、テストはテストだろ」
裕は、ため息をついた。
でも、不思議と前ほどあせらない。
(全部覚えてなくても、いいか)
そう思った自分に、少しびっくりした。
一時間目、社会。
テストが配られた。
問題を見て、裕は思った。
(あ、これ、動画で見たやつだ)
もちろん、ユーチュウバーの動画じゃない。
でも、「考える」ってこと。
問いは、「なぜ、この町はこの場所にできたのか」。
答えを暗記していなくても、地図を見れば、なんとなくわかる。
(川が近いから? 道が通ってるから?)
裕は、教科書の図を見ながら、ゆっくり考えた。
完ぺきじゃない。
でも、空白のまま出すよりはいい。
テストが終わると、すみれが声をかけてきた。
「どうだった?」
「まあ……考えた」
「それ、大事」
すみれは、にこっと笑った。
「前の裕くんだったら、『知らない』で終わってたかも」
「……言うなよ」
裕は、少しだけ顔が熱くなった。
昼休み。
校庭で、低学年の子がけんかをしていた。
「ずるい!」
「ちがう!」
先生が来る前に、周りの子たちが集まる。
裕は、少し離れたところから見ていた。
(どっちが正しいんだ?)
前なら、「関係ない」と思って通り過ぎたかもしれない。
でも、今日はちがった。
話をよく聞くと、どうやら順番の問題らしい。
「一回ずつ、やってたんだよな?」
裕は、思わず声をかけた。
二人とも、こくんとうなずく。
「じゃあ、次は交代じゃない?」
低学年の子は、しばらく考えてから、うなずいた。
けんかは、それで終わった。
こういちが、後ろから言った。
「裕、めずらしいな」
「……考えただけ」
その言葉が、少しだけ誇らしかった。
放課後、図書室。
すみれが、分厚い本を借りていた。
「それ、難しそう」
「でも、気になる」
「読むの、めんどくさくない?」
「めんどくさいよ。でも、知らないままよりはいい」
裕は、その言葉を聞いて、うなずいた。
(めんどくさいけど、大事)
最近、同じことを何度も思う。
家に帰ると、ニュースがテレビに流れていた。
「――値上げが続いています」
前なら、聞き流していた。
でも、今日はちがう。
(なんで上がるんだ?)
父が言った。
「いろんな理由があるんだよ。天気とか、世界のこととか」
裕は、すぐにはわからなかったけど、考えるのをやめなかった。
全部わからなくても、いい。
「考えよう」とすることが、大事なんだと、少しだけ思えた。
夜。
宿題を終えたあと、裕はスマホを手に取った。
動画の一覧に、あのユーチュウバーの新しい動画があった。
『考えるのが、めんどくさい人へ』
「……それ、俺のことじゃん」
裕は、思わず笑った。
再生は、しなかった。
今日は、もういい。
ベッドに横になって、天井を見る。
将来のことは、まだよくわからない。
でも、前より少しだけ、世界が広くなった気がした。
答えは、まだ出なくていい。
考えることを、やめなければ。
裕は、そう思いながら、目を閉じた。
第六章 めんどくさい日は、やってくる
その週の後半、裕は朝からだるかった。
目覚ましが鳴っても、体が動かない。
ベッドの中で、天井を見つめる。
(今日は、考えなくていい日にしたい)
そう思った。
昨日まで少し前向きだった気持ちが、どこかへ行ってしまった。
学校に行く準備をしながら、母が言った。
「今日、算数の宿題出す日でしょ。ちゃんとやった?」
「……うん」
うそではない。でも、完ぺきでもない。
途中で止めた問題が、まだ残っている。
(あとでやればいい)
裕は、自分にそう言い聞かせた。
学校では、いつも通りの一日が始まった。
二時間目は国語。
長い文章を読んで、感想を書く授業だ。
「自分の考えを書きましょう」
先生が言う。
裕は、えんぴつを持ったまま、止まった。
(また考えるのか)
文章は読める。
内容もわかる。
でも、「どう思ったか」と言われると、急にむずかしくなる。
(別に、なんとも思わなかった)
そう書いてしまえば、楽だ。
でも、それじゃダメな気がした。
裕は、少しだけ考えた。
主人公が迷っている場面。
(この人も、めんどくさいって思ってたな)
そう思ったら、少し書けた。
たった三行。
それでも、白紙よりはましだった。
昼休み。
こういちが、サッカーの話をしている。
「次の試合、絶対勝ちたい」
「すごいな。やりたいことがはっきりしてて」
裕が言うと、こういちは首をかしげた。
「はっきりしてるかな。でも、考えるのは楽しいぞ」
「考えるのが、めんどくさいこともあるだろ」
「ある。でも、考えないと、うまくならない」
裕は、何も言えなかった。
それは、勉強にも当てはまる気がしたからだ。
放課後。
家に帰ると、机の上にテストが置いてあった。
社会の小テスト。
点数は、七十二点。
悪くはない。
でも、よくもない。
(やっぱり、こんなもんか)
胸の奥が、少し重くなる。
母がのぞきこんだ。
「ちゃんと考えて書いたんでしょ?」
「……うん」
「じゃあ、いいじゃない」
「よくないよ。もっと取れたはずだ」
母は、少し考えてから言った。
「でも、前より内容は良くなってるよ」
裕は、テストを見直した。
赤ペンで書かれた先生のコメント。
「理由が書けている」
点数だけ見ていたら、気づかなかった。
(理由……か)
満点じゃなくても、意味はあったのかもしれない。
夜。
宿題に向かうが、集中できない。
スマホを手に取って、動画を開く。
(今日は、考えなくていい日にしよう)
ゲーム実況を流しながら、ベッドに寝転がる。
楽だ。
頭を使わなくていい。
でも――
しばらくすると、なんだか落ち着かなくなった。
(逃げてるだけ、か?)
その考えが浮かんだ瞬間、裕はスマホを伏せた。
「……めんどくさい」
声に出して言った。
でも、今日は無理しない。
考えない日があっても、いい。
動画の中の人も、父も、先生も、きっとそう言う。
裕は、そう思うことにした。
布団に入って、目を閉じる。
今日の自分は、すごく成長したわけじゃない。
でも、前みたいに、全部投げ出したわけでもない。
(それで、いいのかも)
答えを出さなくてもいい。
やる気が出ない日があってもいい。
考えるのが、めんどくさい日もある。
それでも――
また明日、少し考えればいい。
裕は、そう思って、眠りに落ちた。
第七章 答えは、まだ出さなくていい
三月。
校庭の木のつぼみが、少しふくらんでいた。
卒業式の練習が始まって、体育館に集まる時間が増えた。
イスの並び方や、立つタイミング。
何度も同じことをくり返す。
「はい、背中をまっすぐ。前を向いて」
先生の声が、体育館にひびく。
裕は、前を向いた。
ステージの上には、校長先生の席がある。
その向こうにある未来は、まだぼんやりしていた。
休み時間。
こういちが言った。
「もうすぐ卒業か」
「実感ないな」
「中学、楽しみだろ?」
「……まあ、半分くらい」
以前と同じ答えだった。
でも、意味は少し変わっていた。
不安がなくなったわけじゃない。
ただ、不安を見ないふりはしなくなった。
教室の後ろの掲示板に、「将来の夢」という紙が貼られていた。
卒業文集の下書きだ。
クラスのみんなが、それぞれの夢を書いている。
サッカー選手
看護師
パティシエ
研究者
裕の紙は、まだ白い。
すみれが近づいてきた。
「書いた?」
「……まだ」
「考えてる?」
「考えてるっていうか、考えようとしてる」
すみれは、くすっと笑った。
「それ、前より進んでると思う」
「そうかな」
「うん。考えないって決めるより、ずっと」
裕は、白い紙を見つめた。
(何になるか)
まだ決まらない。
でも、「考えてもいい」と思えるようになった。
家に帰ると、父が新聞を読んでいた。
「卒業文集、何書くんだ?」
「将来の夢」
「決まった?」
「……まだ」
父は、新聞をたたんだ。
「俺も、小六のときは決まってなかったぞ」
「ほんと?」
「ほんと。でもな、考えるのをやめなかった」
裕は、うなずいた。
それだけで、少し安心した。
その夜。
裕は、机に向かった。
白い紙と、えんぴつ。
しばらく、何も書けない。
考えるのは、やっぱりめんどくさい。
でも――
裕は、ゆっくりと書き始めた。
ぼくの将来の夢は、まだ決まっていません。
ユーチューバーになるかもしれないし、ちがう仕事をするかもしれません。
でも、考えるのをやめない人でいたいです。
わからないことを、わからないままにしない人になりたいです。
書き終えて、裕は紙を見た。
完ぺきじゃない。
でも、今の自分には、これでいい気がした。
卒業式の日。
体育館は、少し寒かった。
名前を呼ばれて、返事をする。
「はい」
自分の声が、思ったよりしっかり聞こえた。
証書を受け取って、席に戻る。
裕は、ふと天井を見上げた。
(これから、どうなるんだろうな)
わからない。
でも――
(まあ、考えながら行けばいいか)
家に帰る途中、裕はスマホを取り出した。
あのユーチュウバーの動画が、新しく上がっている。
タイトルは、こうだった。
『考えるのが、めんどくさい人へ(その後)』
裕は、少し笑って、スマホをポケットにしまった。
今日は、見ない。
今は、自分の頭で考えてみたい気がした。
夕方の空に、風が流れる。
校庭の木のつぼみが、少しだけ開きはじめていた。
答えは、まだ出さなくていい。
でも――
考え続けることだけは、やめない。
裕は、そう思いながら、ゆっくりと家へ向かった。
(おわり)
この物語を書きながら、何度も考えました。
「勉強って、何のためにするんだろう?」という問いは、大人になってからも、ふと心に浮かぶものです。はっきりした答えを、すぐに見つけられる人は、案外少ないのかもしれません。
このお話の主人公・裕も、最後まで「答え」を出しません。でも、それは悪いことではないと思っています。考えることをやめず、わからないままでも前に進む。そんな姿があってもいいのではないでしょうか。
もしこの本を読んで、「自分も同じことを考えたことがある」と感じたら、それだけで十分です。答えは、まだ出さなくていい。考え続けることそのものが、きっと大切なのだと思います。




