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来夢

作者: 来香

病室は、白すぎた。無機質な天井の角、誰かの気配のないカーテンの揺れ。

すべてが、もう自分とは関係ない場所のようだった。


私は山田やまだ) 陽介ようすけ)

四十年の人生は、自分が想像していたよりも早く、終わりに近づいていた。


医師は遠回しに言った。

「そろそろ……心の準備を」


心の準備。そんなもの、できるはずがない。

妻も子もいない。誰かに惜しまれることもない人生。仕事ひと筋で、気づけば周りには何も残っていなかった。

見舞いに来る後輩も最初は居たが、段々と数が減り、誰も会いに来ることの無い病室。

体の痛みは日に日に増していくが、投薬されてしまえばどうってことない。


「眠るように、痛みが遠くなっていきます。

不安なことがあれば、いつでも言ってくださいね」


点滴から何か温かいものが流れ込む。

背中の痛みが、遠くの部屋に閉じ込められた。

現実がぼやけて、夢だけが鮮明になっていく。

このまま沈んでしまえたら

そんな願いが、知らないうちに胸の中に芽を出していた。



──その時だった。


耳元で、微かに音楽がした。

遠くのスピーカーから流れるジャズのような……でも、どこか現実離れした音。


目を開けると、そこは病室ではなかった。


濡れたアスファルトの匂い。

だけど、空は昼のように明るい。なのに、街灯が灯っている。


ビルが立ち並び、ネオンも輝いている。

しかし看板の文字は、読み方が分からない。

知っているようで、知らない言語。


行き交う人々は笑っていた。

服装はどこか現代的で、けれど少し幻想めいている。晴れているのに、傘を差す人がいる。季節すら分からない空気。


「よく来たね」


振り返ると、柔らかい笑顔の青年が立っていた。

年齢も、国籍も、何もかも曖昧な少年のような顔。


「ここは来夢。君みたいな人が、ときどき迷い込む」


「迷い込む……?」


問い返す声が震えた。

腕を触る。チューブがない。痛みもない。

それが逆に怖かった。


「痛くないだろう?

ここでは何も苦しまなくていい。現実から少し休んでいけばいいんだ」


現実?

確かに俺は病院にいた。

死ぬのを待つだけの、狭いベッドで。


「でも——」


逃げちゃいけない。ここは現実ではないのであれば尚更。そう言おうとした言葉は、喉で消えた。

目の前の景色は鮮明で明るく現実よりも美しかった。


「また来れるよ。

君の眠りが深くなれば、もっと長くいられる」


青年の声は、優しく甘かった。


ここで陽介は、初めて涙をこぼした。

自分が泣いていることにも気づかないほど静かに。


生きている実感が、ここにあった。


⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆


まぶたを開けると、蛍光灯の白さが容赦なく刺した。天井。機械音。白い病室に戻っていた。


息を吸う。痛い。胸の奥で何かがひきちぎれる。腕にはチューブが戻っていた。


夢だ。夢に決まっている。そう言い聞かせた。けれど、心臓が違うと叫んでいた。


あれほどリアルな夢を、四十年の人生で見たことはなかった。痛みがないことに、あんなにも恐怖を抱いた夢なんて。


点滴の流れる音が、やけに大きく感じる。

耳鳴りのように、街のざわめきが蘇る。


思い出す度、吐き気が込み上げた。

理由は分からない。視界がにじむ。

病室の景色が二重に揺れてぐるんと回る。


「よく眠れていましたね。お薬、効ききましたか?」


カーテンが開き、医師が入ってくる。

いつも通り優しい目をしていた。


ここは現実なのだ。


「……さっき」


喉が震える。言うべきか迷う。

笑われるかもしれない。それでも話がしたかった。


「知らない街にいました。

人がたくさんいて……

昼なのに夜みたいで……」


医師は一瞬だけ目を伏せた。

聞き流すのではなく、理解したような沈黙。


「お薬の効果で、夢と現実の境が曖昧になることがあります」


形式的な説明。


「安心して。ここが現実ですから」


その一言が、氷のように冷たく響いた。


医師が去ると、孤独が再び覆いかぶさった。

天井がゆっくり近づいてくる錯覚。息を吸うのも苦しい。


目を閉じるのが、怖い。

閉じたら、またあの街へ引き戻される気がした。


そして気づいてしまった。なぜ戻りたくないのか。


戻れば戻るほど死に近づく、現実が苦しくなる。

そして自分は戻りたくないのに、また何度もあの場所にに行くことになる。



その確信は、胸に重く沈んでいった。


⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆


山田陽介は、眠らないようにしていた。

いや、眠るのが怖かった。

次に目を閉じれば──あの街が待っている。


だが、現実は残酷だ。痛みが限界に近づくと、意識は勝手に沈んでいく。抗えない。


しかし、あの街にたどり着くことはなかった。


その日、痛み止めが増量された。

医師が静かに告げた。


「お薬を少し足しますね。すぐに楽になりますから」


嫌だ、と言いたかった。だが声が出ない。

点滴の滴が一つ落ちるたび、意識が溶けていく。


──沈む。


次の瞬間、また濡れたアスファルトの匂いが鼻を刺した。


来夢だ。


街は以前よりも鮮明だった。

ネオンの光が、自分の皮膚を照らしているのが分かる。


やはり夢じゃない。


「戻ってきたね」


あの青年が、すぐそこに立っていた。

前より距離が近い。笑みが、どこか親密だった。


「ここは……夢なんかじゃない。でも……どうして俺は……」


「理由? 簡単だよ」


青年は陽介の手首をそっと掴んだ。温度があった。まがい物のくせに。


「君が痛みから遠ざかったときだけ、ここへ来られるんだ」


陽介の呼吸が止まった。


「モルヒネが君を導いている。

痛みが消えるほど、こちらが現実に近づく」


「痛み、が……?」


「そう。痛みがある場所は、もう君の世界じゃない。苦しみを捨てに来ていいんだよ」


言葉は甘い。

だが、甘さは毒にもなる。


陽介は後ずさった。足元の水たまりが波紋を広げる。


「違う……俺は……まだ……!」


否定の言葉は震えて、続かない。

現実に戻れば、また痛む。

身体も心も。


「戻りたいの?」


青年の声は穏やかだった。優しかった。

それが残酷だった。


「戻っても、苦しいだけだよ」


陽介の胸に、深い穴が穿たれたような感覚が走った。


痛みが消えるたびに、この街が近づいてくる。

その代償は、生きることだ。


俺は痛みに耐えてまで生きたいのか。

答えは帰ってこないままぐにゃりと世界が歪んだ。


⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆


現実へ戻った瞬間、痛みが全身を貫いた。

息を吸うだけで、内臓が裂けるような感覚。

まるで、来夢の街で置いてきた何かが、

ここでは存在を主張してくる。


「……っ、はあ……!」


汗に濡れた手でシーツを掴む。

今すぐにでも目を閉じたい。

閉じれば、痛みは消える。

あの街へ、戻れる。


そう思った自分に、愕然とした。


あれほど恐ろしかった場所へ、

「戻りたい」と願っている。


何度も自分に言い聞かせた。

あの場所は、死だ。


だが、苦しみの中にいる今は死ですら、救いに思えた。


不意に扉が開いた。

看護師が、落ち着いた声で言う。


「山田さん、痛み、まだ強いですよね。

どうしますか?お薬追加しましょうか?」


「……お願いします」


負けた気がした。


点滴の流れが変わる。身体がふっと軽くなる。

意識がまた、沈む。


暗闇の底では、あの青年が待っていた。


「おかえり、陽介さん」


名前を呼ばれた。初めてだ。


青年は相変わらず微笑んでいたが、

その笑みはもう、優しさだけではなかった。


「君はもう、どちらが本当の世界か分かってきたね」


陽介は震える声で反論する。


「ここは……幻だ」


「幻と現実を分けているのは、誰?」


問いに答えられない。

青年は続ける。


「痛みに縛られている場所を、

どうして現実だと言い切れる?」


言葉が胸に突き刺さる。

図星だった。


「君は間違いなく、こちらの世界に来ている。

それが何よりの証拠だよ」


青年は街へ手を差し伸べる。

雑踏が広がり、灯りが温かく揺れる。

陽介を歓迎しているかのように。


「痛みは、君を向こう側へ縛りつけている鎖だ。

それを断ち切れるのは、君だけだよ」


青年の瞳の奥に、暗い光が宿った。まるで、底なし沼のような色。


陽介は気づいた。


ここは優しさの皮を被った、救いを囁く闇だ。



それでも───

痛みがないことは、

何よりの誘惑だった。



明るい街の中、俺は一歩も動けずに立ち尽くした。水たまりに映る自分の顔は、現実の自分ではなく、どこか夢の街に馴染んでいるように見えた。


「……俺は、どっちを選べばいいんだ……」声にならない声を胸の奥で繰り返す。現実の痛みは、あまりにも重く、でも夢の安らぎは、あまりにも甘く、どちらにも心が引かれてしまう。


青年は微笑みを崩さず、手を差し伸べた。

「君が来たいときに、いつでもここへ来られる。

もう戻らなくていいよ」


その言葉は、陽介の胸を締め付けた。

優しい誘惑に心を奪われそうになる一方で、

生きている自分の存在を否定してしまうような恐怖もあった。


目の前の街は現実より鮮明で、色も匂いもすべて確かだった。歩く人々の笑い声や、傘に反射するネオンの光さえ、現実よりも温かいように感じられた。

痛みから解放される体の芯まで染み渡る幸福感。


でも、どこかで陽介は理解していた。

ここに留まることは、自分の人生の終わりを受け入れることだと。

現実の身体、痛み、孤独。

それらを捨てることは、もう戻れないということに他ならない。


「……でも、俺は……」

声が震えた。


青年は黙って手を差し伸べたまま、優しく見つめる。

言葉はない。

それが、逆に陽介の心を揺さぶる。


「戻れば、また痛む……」

「でも、ここに留まれば、生きることを諦めることになる……」


矛盾する思いが、頭の中でぐるぐると渦を巻いた。涙が頬を伝う。体がぶるっと震える。

長い闘病を通して、泣くことも忘れていた自分が、ここでは自然に涙を流していた。


深く息を吸う。

身体がふわりと軽くなり、視界が揺れる。

夢の街は、現実に吸い込まれるように近づいてくる。現実の病室も、痛みも、遠くに消えていく。


陽介はその場に立ち尽くしたまま、小さく息を吐く。

そして、心の奥で静かに決めた。


「今はどちらも捨てたくない。でも、逃げたい気持ちは、認めるしかない」


痛みからの解放を許す自分も、現実に生きている自分も、どちらも否定しない。


その瞬間、街の光は一層鮮やかに揺れ、

青年は微笑んだまま、陽介を見つめていた。


世界はまだ揺れていた。現実と夢、痛みと安らぎ、孤独と希望。すべてが交錯したまま、陽介の意識は静かに漂っていった。


答えは、まだ出ない。

だが、それでも彼は、両方の世界に身を置くことを選んだのだった。


⋆┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⋆


山田陽介は、意識の境界でゆれていた。

目を開ければ病室。白く無機質な天井。

呼吸は痛みに引き裂かれるようで、身体は重く、思うように動かない。


でも、目を閉じれば、来夢に辿り着く。

ネオンの光、濡れたアスファルトの匂い、微かに漂うジャズの旋律。

そして、青年の笑顔がそこにある。


彼は悟った。どちらも完全には選べない。

現実を捨てることも、夢を完全に拒むこともできない。痛みがあるからこそ、夢の世界が意味を持つ。夢があるからこそ、現実の孤独にも耐えられる。


目を閉じると、青年がそっと手を差し伸べる。

「君はもう、怖がらなくていい」

その声は甘く、温かい。

でも、陰の奥に深い闇が潜んでいることも、陽介は知っていた。


「……ありがとう」

口からこぼれた言葉は、小さく、しかし確かだった。


陽介は両方の世界を受け入れた。

痛みと安らぎ、孤独と温もり──

すべてが交錯する世界で、彼は揺れながらも、生きていることを感じていた。


時間の感覚は曖昧だ。

現実の一秒は、夢では数時間に感じることもある。だがそれも、もうどうでもよかった。

大切なのは、痛みと安らぎの間で揺れる自分を、否定しないこと。


街灯の光が揺れ、ネオンが輝く。青年が微笑む。

その笑顔に誘われるまま、陽介はゆっくり歩き出す。


世界はまだ揺れている。

現実と夢の境界は、ぼんやりと曖昧だ。

けれど、陽介の心は初めて、静かに落ち着きを得た。


答えは出ないまま。

でも、もう焦る必要もない。

痛みも、孤独も、恐怖も、すべて抱えながら、彼はこの曖昧な世界を漂うことを選んだ。


どちらの世界にいるかは問題ではない。

大切なのは、ここにいる自分を、許すこと。

そのことだけで、充分に生きている実感を得られるのだと。


雨に濡れたアスファルトが光を反射し、ネオンが空に溶ける。

陽介は小さく息を吐き、両手を胸に当てた。


──生きることも、逃げることも、痛みを抱くことも。すべてを許された世界で、彼は静かに歩き続けた。


世界は揺れ、街は呼んでいる。


そして、陽介は、もう一度目を──────


その瞬間、現実も夢も、どこか遠くで微笑んでいるように感じた。




一番最初にかいたやつでいちばん長いやつです。

来夢というタイトルを先に決めてからかいたので

あまり来夢感をいれられてないなと反省。

また書き直したものもつくってみたい

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― 新着の感想 ―
きっと陽介は充実した手離したくない人生を送ってきたんだろうね 自分だったら来夢にあっという間に吸い込まれてしまうかも… 先週交通事故で初めて緊急搬送されて、死って近くにあるんだなぁって思ったばかりだ…
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