プロローグ:秋霖(しゅうりん)の夜語り
赤坂の静かな高台にある半七老人の隠居所を訪ねるのは、僕のささやかな楽しみの一つであった。 秋の長雨がようやく上がり、虫の音が冴えわたる宵だった。どこからか、日蓮宗の題目太鼓...ではなく、あれは法華の題目太鼓かな? その音が、湿った夜気に乗ってとぎれとぎれに聞こえてくる。
「……七偏人が百物語をしたのは、こんな晩だったかもしれませんね」 縁側で冷え始めた徳利を傾けながら、僕はそう切り出した。
座敷の行灯の明かりが、老人の深い皺を刻んだ顔をほのかに照らしている。
「そうでござんしょうよ」 半七老人は、好々爺といった笑みを浮かべた。
「もっとも、あれは作り話でやすが、百物語そのものは、昔は本当によくやったもんでやす。なにしろ江戸の人間は、どういうわけか怪談が大好きでしてね。芝居といえば四谷怪談、草双紙をめくれば皿屋敷。やたらとお化けが出たもんです」
老人が出してくれた肴は、菊の花びらを散らした占地の酢の物だ。しゃくりとした歯触りと、菊のほのかな香りが、ぬる燗にした「剣菱」の濃醇な味によく合う。
「半七さんの御商売、つまり岡っ引きの仕事となると、それこそ本物の怪談がごろごろしていたんじゃありませんか?」
「ありますとも。随分ありやしたが……」 老人はそこで言葉を切り、猪口に残った酒をくいと飲み干した。
「どうも、あっしらの扱う怪談は、本当の化け物が出てくるような話は少なくって、しまいには人間の仕業だと種が割れちまう。そこが困りもんでやす」
老人は悪戯っぽく片目をつむった。 「そういえば先生、津の国屋の話は、まだしやせんでしたかね」
「津の国屋? いいえ、伺っていません。それも怪談ですか」
「怪談でやす」 老人は、今度はまじめな顔で深くうなずいた。
「しかも、この赤坂で起きたことでやす。もっとも、これはわたしが正面切って手掛けた事件じゃござんせん。桐畑の常吉という、まだ鼻っ柱の強い若い奴が追ったもんで、わたしはその親父の幸右衛門の旦那に、若い頃ずいぶん目をかけてもらった義理がありやしてね。まあ、陰に回って若い者の手助けをしてやった、そういうわけでやす。ですから、もしかすると聞き落としがあるかもしれやせんが……」
老人は、火鉢の灰を火箸で静かにならし始めた。
「なにしろ、随分と入り組んだ話でしてね。ちょいと聞くとまるで嘘のようですが、こいつは紛れもない本当の話ですよ。そのつもりでお聞きくだせえ。
昔といいやしても、たかが三、四十年前のこと。でもね、世の中はまるで違っていやした。今の先生方には、とても思いもつかねえようなことが、時々あったもんですよ」




