第一章:消えた娘と謎の足跡
天保十二年の師走。江戸の空は、鉛色の雲に覆われていた。
いつもであれば、「歳の市」などで賑わい、人々が新年の準備に浮き足立つ時期だったのだが、この年の5月に老中首座となった水野忠邦による、世に言う「天保の改革」が、大きく影を落としていた。倹約・奢侈の禁止が徹底され、畢竟、正月の準備も控えめに、金銀の箔を散らしたような飾り物、破魔矢、破魔弓、羽子板などはもっての外と禁止され、江戸っ子の大好物だった歌舞伎も徹底的に取り締まられて、「なんとも締まらない」師走となってしまっていた。
十九歳の半七は、生まれ故郷でもある日本橋の大通りを、特に当てもなくぶらついていた。その時、白木屋が並ぶ横町から、青白い顔をした若い男が、ふらふらと出てくるのが目に入った。
男は、この横町にある菊村という老舗の小間物屋で番頭をしている清次郎だった。半七とは、子供の頃からの顔見知りだ。
「よう、清さん。どうしたい、その顔は。まるで幽霊にでも会ったみてえじゃねえか」
半七がからかうように声をかけると、清次郎は力なく会釈しただけだった。その顔色は、今日の冬空よりも暗く沈んでいる。
「風邪でも引いたのか? ひでえ顔色だぜ」
「……いや、別に……」
清次郎は何かをためらうように口ごもっていたが、やがて半七にすり寄り、声を潜めて言った。
「半七さん……実は、お菊さんが……店の娘のお菊さんの行方が、分からねえんでさ」
「なんだって? お菊さんが?」
半七も思わず眉をひそめた。
清次郎の話はこうだった。
昨日のお昼過ぎ、お菊さんは仲働きの女中であるお竹を連れて、浅草の観音様へお詣りに出かけた。ところが、その途中で人混みにはぐれてしまい、お竹だけが半泣きで帰ってきたというのだ。
「昨日のお昼過ぎから、今日までかい。そりゃあ、おふくろさんも心配してるだろう。何か心当たりはねえのか? ちいと妙じゃねえか」
菊村の店でも、もちろん手分けして昨夜から今朝にかけて心当たりを探し回ったが、全く手がかりがない、と清次郎は言う。ろくに眠れなかったのだろう、彼の目は赤く充血していた。
「おいおい、清さん。冗談じゃねえぜ。てめえがどこかへ連れ出して、隠してるんじゃねえのか?」
半七が肩を叩いてにやつくと、清次郎は青い顔を真っ赤にして首を振った。
「と、とんでもねえことを!」
店の娘であるお菊と、この若い番頭がただならぬ仲であることは、半七も薄々感づいていた。だが、真面目一方の清次郎が、娘を唆して駆け落ちするような大それた真似をするとは思えなかった。
「じゃあ、まあ、駄目元で親戚の家も回ってみな。あっしも、気をつけておいてやるからよ」
力なく頷く清次郎と別れ、半七はすぐに菊村の店へと向かった。
老舗の小間物屋「菊村」は、間口四間半の立派な店構えだ。半七は、店の奥に北向きの小さな庭があることも知っていた。
店は五年前に主人が亡くなり、今は女将のお寅が一人で切り盛りしている。お菊はその一人娘で、今年十八になる、界隈でも評判の美人だった。
半七は、女将のお寅や大番頭の重蔵、そして仲働きのお竹にも会って話を聞いたが、誰もが暗い顔でため息をつくばかり。有力な情報は何も得られなかった。
帰り際、半七はお竹を店の外へ呼び出し、低い声で言った。
「お竹どん。おめえはお菊さんと一緒だったんだ。この一件、おめえには大きな関わりがある。いいか、何か隠してると、てめえのためにならねえぜ。心当たりがあったら、すぐにあっしに知らせな」
若いお竹は、灰色の顔でぶるぶると震えていた。
その脅しが効いたらしい。
翌朝、半七が再び店を訪れると、寒そうに店の前を掃いていたお竹が、待ちかねたように駆け寄ってきた。
「半七さん! 大変なんです! お菊さんが、ゆうべ……帰ってきたんです!」
「なに、帰ってきた? そりゃあ良かったじゃねえか!」
「ところが……それが、またすぐに、どこかへ消えちまったんでさ!」
「はあ? そりゃまた、どういうこったい」
お竹の話は、にわかには信じがたいものだった。




