第一章:旅籠の不審人物
当時の小田原と三島の宿場は、東海道五十三次の中でも屈指の賑わいを見せていた。 その理由は単純明快、二つの宿場の間に、あの天下の険・箱根の関所が控えているからだ。
東から来た旅人は小田原に泊まり、西から来た旅人は三島に泊まる。そして翌日、覚悟を決めて「箱根八里」の山越しに挑むのが、当時の旅の常識であった。 必然、東海道を歩く者は、好むと好まざるとに関わらず、この二つの宿場町に金を落としていくことになる。 半七は関所を越える旅ではないが、ひとまず小田原に泊まり、翌日に湯本へ向かう算段だった。
道中、あちこち道草を食ってきたせいで、二人が松屋に着いたのは、もう日も暮れた六ツ半(午後七時)頃だった。 さっそく風呂で汗を流すと、すぐに女中が膳を運んできた。
半七は下戸だが、多吉は飲めるクチだ。二人の膳には、きっちり徳利が乗っている。 多吉の付き合いで二、三杯もらうと、半七はもう顔がまっ赤になった。早々に膳を引かせ、そのまま畳にごろりと横になってしまう。
「親分、お疲れですかい」 多吉が、宿で借りた安っぽい紅摺の団扇で、膝のあたりをパタパタとやりながら言った。
「うむ。ちょっと道草が過ぎたな。情けねえ。おととし大山に登った時みてえな元気は、もうねえよ」 半七は寝転んだまま苦笑いした。
「ところで親分。あっし、さっき風呂に行く途中で、妙な野郎に会いやしたよ」 「誰にだ」 「名は知らねえんですが、どうも堅気じゃねえ。どこかで見たツラだと思うんですが、思い出せなくて……。とにかく、廊下であっしとすれ違ったら、慌てて顔をそむけて行きやがった。あっしに気づかれたのが、よほどマズかったんでしょう。あんなのが泊まってるなんざ、ちいと用心が必要ですぜ」 多吉が、声を潜めてささやく。
「まさか、胡麻の蠅(=盗賊)じゃあるめえ」 半七は、また笑った。 「小博奕でも打つ程度のゴロツキなら、旅籠屋で悪さなんかしねえよ。ああいう道楽者ってのは、旅先じゃかえって神妙にしてるもんだ」
親分が真面目に取り合わないので、多吉もそれきり黙ってしまった。 四ツ(午後十時)頃に床が敷かれ、二人は六畳間に枕を並べて眠りについた。
その夜中、半七はふと物音で目を覚ました。 「おい、多吉。起きろ、起きろ」 二、三度揺さぶられ、多吉は寝ぼけ眼をこする。 「なんでやすか、親分……」 「なんだか家じゅうが騒がしい。火事か、泥棒か。ちょっと見てこい」
多吉は寝巻のまま蚊帳をくぐり抜け、階下へと消えていった。 が、すぐに慌ただしい足音と共に戻ってくる。 「親分! やられやした! 人殺しです!」
半七も、さすがに飛び起きた。 多吉の話をまとめるとこうだ。裏二階に泊まっていた駿府(すんぷ=静岡)の商人二人連れが、何者かに殺害され、胴巻(=金)を盗まれたらしい。
一人は寝ているところを、喉を一突き。 その蒲団の下から胴巻を引き出そうとした時、隣で寝ていた連れの男が目を覚ましたのだろう。そいつも、ついでとばかりに斬りつけられたようだ。寝床から少し這い出したところで、首筋を斜めに斬られて絶命していた。
「もう役人が来て、調べてまさあ。どうも外から入った形跡はねえ、なんて言ってますから、いずれここへも調べが来ますぜ」
「ひでえことをする奴もいたもんだ」 半七は首をひねる。
「とにかく、調べが来るまで下手に動くんじゃねえ。大人しくしてろ」 「へい」
二人が床の上で待っていると、廊下を走る足音が部屋の前で止まった。 次の瞬間、障子ががらりと開き、何かが転がり込んでくる。 そいつは蚊帳の外から、必死の形相で声をかけた。
「大哥! 多吉の大哥! 頼む、助けてくれ!」
「誰だ、てめえ!」 多吉が、行燈の暗い光で蚊帳越しに目を凝らすと、それはさっき廊下で出会った、あの不審な男だった。 年は二十八、九。色の浅黒い、小柄だががっしりした男だ。息が弾んでいる。
「あっしだ、小森の屋敷の七蔵だ! 大哥にはちいと義理の悪いことがあって、さっきは知らねえ顔しちまった。悪かった! 後生だ、なんとか助けてくれ!」 名乗られて、多吉もようやく思い出した。 こいつは下谷にいる小森という与力の屋敷に仕える中間で、普段から素行が悪い。方々の屋敷の大部屋(雑用部屋)に入り込んでは、博奕を打つのを商売にしているような男だ。
去年の暮れ、博奕に負けて素っ裸にされそうになっているところを、偶然、多吉が通りかかった。不憫に思い、一分二朱ほど貸してやったのだ。 七蔵は涙を流して喜び、「大晦日までに必ず返す」と固く誓ったくせに、年が明けた今日まで、一度も顔を見せなかったのである。
「ちげえねえ、小森さんとこの七蔵か。てめえ、渡り者(わたりもの=流れ者)でもあるめえし、ちったあ世間の義理ってものを知れ!」 「だから謝ってる! 大哥、拝むから助けてくんねえ!」 「てめえに拝まれてどうなるおれじゃねえ! 嫌だ、嫌だ!」
多吉が意地になって突っぱねるのを見かねて、半七が口を挟んだ。 「まあ、そう色気のねえことを言うなよ、多吉。……で、七蔵さん。あっしらに何の用でやす。あっしは神田の半七ってもんです」 「やあ、どうも……」 七蔵は慌てて、蚊帳の外から頭を下げる。 「親分! 後生ですから、助けておくなせえ!」 「どうすりゃあ、あんたが助かるんだい」
「実は……旦那(だんな=主人)が、あっしを手討ちにして、ご自分も腹を切るって……」 「なに?」
これには半七も驚いた。 武士が家来を手討ちにし、自らも切腹する。ただ事ではない。 多吉もさすがにギョッとして、立てていた膝を慌てて崩した。 「……まあ、いいから蚊帳へ入れ。一体、どういう理屈だ」




