第九章: 弁天様の嫉妬
「……やれやれ。恐ろしい女がいたもんだ。こんなのに比べりゃ、石燈籠の幽霊なんざ、可愛いもんだな」
僕は、半七老人の話を聞き終え、大きくため息をつきました。
「へえ。まったくでございます。色男の伝介なんぞは、命があっただけ、儲けもんでしたろう」
老人は、遠い目をして煙管をふかしています。
「……ですが、半七さん。そうなると、話が元に戻ってしまう」
「と、仰いますと?」
「山城屋ですよ。お留が裁かれるとなれば、当然、あの百両の出所も吟味されるはずだ。結局、徳次郎とお此さんの秘密も、全部バレてしまったんじゃ……?」
半七老人は、困ったように眉を下げました。
「……お察しの通りで。山城屋にとっては、気の毒な話でした。せっかく百両で内済にしたものを、この騒ぎで、何もかもが表沙汰になっちまいやした」
お此さんも、当然、お奉行所から吟味を受けた。 半七の鑑定(推理)が裏付けとなり、徳次郎の舌を刺した一件は、悪意のない「戯れ」が招いた事故と見なされ、お咎めなし、ということになった。
「だが、お咎めがなくとも、もうお終いでした」と老人は続ける。 「『祟りがある』『男を殺す』という噂が、本当のことになっちまった。お此さんは、江戸中の誰もが知る『瑕もの』になっちまったんでさあ」
「……そんな……」
「山城屋の主人も、すっかり諦めやした。そして、あの番頭の利兵衛に、因果を含めて婿になってくれ、と頼み込んだんで」
「利兵衛さんに!? あの、真面目一方の?」
「へえ。利兵衛も、そりゃあ必死で断りました。ですが、主人からあっしの方にも頼みが来ましてね。二人で利兵衛を料亭に呼び出して、主人は土下座せんばかりに頼み込み、わっちも口を添え……。とうとう、利兵衛が折れやした」
「……お此さんは?」
「それが、案外すんなりと承知したそうで。祝言の式も滞りなく済み、夫婦仲も睦まじいと聞いて、主人もあっしも、まあ、これで良かったんだろうと、胸を撫で下ろしておりやした。……ですがね、先生」
老人は、そこで言葉を切った。
「……その、あくる年の六月でした」
「……」
「お此さんは、ある晩、そっと家を抜け出して……。不忍池に、身を投げやした」
「——!」
「死骸が見つからねえなんて噂もありやしたが、そりゃ嘘で。蓮の間に浮かんだお此さんを、山城屋が確かに引き取りやした」
「どうして……。せっかく、利兵衛さんと……」
「さあ。あっしにも、分かりやせん。……いっそ死ぬなら、婿を取る前に死にそうなもんですがねえ」 半七老人は、ふう、と深く紫煙を吐き出した。
「……世間の連中は、こう言いあやした。弁天様の申し子は、とうとう、弁天様ご本人に取り返されちまったんだ、と。……巳の日の晩には、今でも池の上で、お此さんの姿を見た者がいるとか、いないとか……。まあ、嘘か本当か、あっしの知ったこっちゃねえですがね」




