第五章: 半七の推理、障子の穴
深川の寺に着いた頃には、日はもう西に傾きかけていた。 葬式は、驚くほど簡素なものだった。山城屋から百両とは別に三両の葬儀料を受け取っておきながら、これはあまりに粗末であり、なんとも言いようのないものであった。
(あの徳蔵も、百両手に入れた途端、弟の葬式なんざどうでもよくなったか……)
そう半七が呆れていると、寺の隅で忙しそうに立ち働いていた一人の男が、半七の姿に気づき、慌ててすり寄ってきた。
「おや、神田の親分じゃねえですか。こんな路の悪いところを、ご苦労様でございます」
年の頃は三十二、三。小柄な男です。 浅草界隈を根城にする、伝介という男でした。表向きは刻み煙草の行商だが、その裏では小博打などを打っている、うさん臭い無頼漢であることを半七は知っていた。
(……げ。こんなところで、一番会いたくねえ奴に会いやがった)
伝介は、岡っ引きである半七を前に、やけに腰が低く、如才なく振る舞う。
「親分も、徳蔵の家とはお知り合いで?」
「いや、兄貴の徳蔵は知らねえ。だが、弟の徳次郎坊主とは、山城屋にいた頃から馴染みでな。若いのに不憫なこった」
「へえ、そうでございますか……」 伝介は、何やら腑に落ちない、といった顔をしていた。
「おめえこそ、ずいぶん甲斐甲斐しく働いてるじゃねえか。徳蔵とは、よっぽど懇意と見えるな」
「あ、ええ。まあ、ときどき遊びに行ったりなんぞしやすんで……」
伝介は、そこで言葉を濁しました。
(……ほう?)
葬式が終わり、会葬者が寺の門を出る頃には、あたりはすっかり春の宵闇に包まれようとしていました。
半七は、葬式の引き出物(塩釜という菓子)を小僧の音吉にやると、そばにいた利兵衛にそっと耳打ちしました。
「番頭さん。ちと、話してえことがある。音吉だけ先に帰して、アンタはわっちとそこらの鰻屋まで付き合ってくれねえか」
「は、はい」
富岡門前の鰻屋。半七いきつけの店。 奥の静かな座敷に通され、下戸同士、形ばかりの酒を二、三度やり取りした後、半七は酌の女中を下がらせた。
「番頭さん。さっきの話だが……徳次郎の一件、百両で済んだのは、まあ『おお出来』だったかも知れねえよ」
「と、仰しゃいますと……?」
利兵衛は、まだ納得がいかない顔です。
「後日に苦情は言わねえ、という一札を取った。弟の亡骸は、今夜にも焼かれて灰になる。もう、いざこざの種は残らねえ。……旦那にも、そう伝えておきな。金は惜しいが、仕方がなかった、と」
「……」
「それから、くどいようだが、隠居所には必ず気の利いた人間を付けて、お此さんの身辺に間違いがねえよう、よおく見張っておくんな。いいかい」
利兵衛は、半七の真剣な眼差しに気圧されたように、ひたいに深い皺を寄せた。 「……親分。そう致しますと……やはり、あの一件、お此さんに何か、かかわりが……?」
「……ありそうだな」
半七は、静かに頷きました。
「だが、これ以上の詮議は無理だ。お此さん本人を引っ立てて、お白洲で吟味するわけにもいくめえ」
半七の頭の中には、すでに事件の全貌が浮かび上がっていた。 これは、半七の「鑑定」、つまり推理に過ぎない。証拠は何一つない。だが、これ以外に、あの奇妙な死の説明はつかないのであった。
「——わっちの鑑定じゃあ、こうだ」
半七は、利兵衛に語って聞かせました。
まず、徳次郎の遺言、「お此さんに殺された」というのは、おそらく事実だろう、と。
芝居の久松様のような美少年と、二十六、七になるまで独り寂しく暮らす美貌の娘。二人が、主従以上の密やかな関係にあったとしても、不思議ではない。
「お此さんがいる隠居所の部屋は、庭に面している。そして、その庭へは、店の方から木戸を開ければ出入りができる。……そうだな?」
「は、はい。左様でございますが……」
徳次郎は、おそらく店の者の目を盗んでは、その木戸をくぐり、お此の部屋へ忍んで行っていた。
耳の遠い老婆と、役に立たない小女。二人の逢瀬を邪魔する者は誰もいない。
そして、運命の「お節句の日」が来た。
その日も、徳次郎はいつものように、お此の部屋へ忍び寄った。
だが、お此は部屋の中で針仕事をしている気配がするのに、いつもの合図に応えない。わざと焦らしているのだろう。
まだ十六の少年らしい、いたずら心が起きた。
「徳次郎は、縁側へ這い上がって、閉め切った障子の紙を……舌の先で嘗めて、穴を開けた。その穴から、中の様子を覗こうとしたんだろう。子供がよくやる、あのいたずらだ」
「……!」
「中でお此さんは、その様子に気づいていた。そして、彼女もまた、冗談半分で……持っていた縫い針で、その穴から突き出た舌の先を、ちょいと突いた」
利兵衛が「あっ」と息を呑みました。
「もちろん、軽く突いたつもりだろう。だが、時のはずみか、針の先が思ったより深く刺さってしまった。二人とも驚いたろうが、元々が秘密の逢瀬だ。徳次郎も、大声を上げるわけにはいかねえ」
ほんの針の先ほどの傷。それが、まさか命取りになろうとは、二人とも夢にも思わなかった。
徳次郎は、店へ戻ってから、急に舌が痛み出し、腫れ上がった。
「……だが、なぜ、針くらいで……」
「わっちも医者の玄庵先生に聞いてきた。針が錆びていたか、あるいは、縫っていた布地に何か悪い毒気でも染みついていたか……。ごく稀に、そういう傷が元で、口中が腐り、命を落とすことがあるそうだ」
店にいる間、徳次郎が口を閉ざしていたのは、口が利けなかったからだけではない。その秘密を、誰にも言えなかったからに違いない。
それが、宿へ下がり、死を覚悟した時。兄夫婦に問い詰められ、ついに真実を漏らした。
「『お此さんに殺された』……そいつは、徳次郎の偽らざる告白だったんだろうよ」
音吉が証言した、「猫のいたずら」で貼り替えさせたという障子の穴。下から三、四段目という高さ。それこそが、徳次郎が縁側から覗き込んだ位置。
障子の穴は、徳次郎という「白猫」の、命がけのいたずらの跡だったのです。
「……番頭さん」
半七の言葉に、利兵衛は真っ青な顔で震えていました。
「親分……恐れ入りやした……。そう仰しゃられると、わたくしの方にも……思い当たることが、ございます」
「ほう。何だい?」
「実は、去年の冬。大隠居様が風邪で寝込まれた時、看病の手伝いにと、最初は音吉をやったんですが、あいつは横着だと言って一日で追い返されまして。代わりにと徳次郎をやりましたら、これが大層お此さんの気に入られて……。それ以来、隠居所の方で何か用事があると、必ず『徳次郎をよこせ』と、ご指名でやした」
「……」
「正月の藪入りの時も、お此さんから徳次郎にだけ、別にお小遣いをやっていたようです。……それから、この二月の初め頃。夜中に庭口の雨戸を毎晩ガタガタと揺する者がいる、と小女のお熊が怖がりまして。店でも心配してお此さんに問いただしたんですが、『お熊が寝ぼけているだけだ』と、キッパリ仰るので、そのままに……」
「……それが、徳次郎の夜這いの合図だったわけか」
利兵衛は、がっくりと肩を落とした。
「まったく、面目次第もございやせん……。そばに居りながら、商売にかまけて、そんなことに少しも気づかぬとは……。親分、このことは、主人にだけは内々(ないない)で話すべきでございましょうね」
「ああ。旦那にだけは、ありのままを打ち明けておく方がいい。……後のこと、つまり、お此さんのためにもな」
勘定は利兵衛が払うというのを無理に断り、半七は店を出ました。 雨上がりの春の宵は、生暖かく靄がかかっていた。
(やれやれ。これで一件落着、か)
ほろ酔い気分で、半七は今度こそ三社祭の見物へと、浅草の賑わいの中へ消えていきました。 この時、半七はまだ知らなかった。 本当の惨劇は、まだ幕を開けたばかりだったということを——。




