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第三章:岡っ引きの嗅覚

第三章:岡っ引きの嗅覚



 おまきの棺が寺に到着すると、そこでは丁度、別の貧しい葬儀が終わり、見送りの人々が帰り支度をしているところだった。

 おまきの葬列は、彼らと入れ違うように本堂へと進んでいく。前の葬儀の参列者も芝の界隈の者が多かったため、おまきの見送り人の中にも顔見知りが少なくなかった。


「よう、おめえさんもお見送りかい」


「ご苦労様でございます」

 あちこちで、そんな挨拶が交わされる。


 その中に、ひときわ背が高く、目の大きな男がいた。彼はおまきの隣に住んでいた大工に声をかけた。


「よう、ご苦労さん。おめえんとこの葬式は、誰が亡くなったんだ?」


「ああ、長屋の猫婆だよ」と、若い大工が答えた。


「猫婆? そいつはまた、妙な名前だな。猫婆ってのは、一体どこのどいつだ?」


 男は、大工から猫婆というあだ名の由来から、彼女の奇妙な死に際の一部始終までを詳しく聞き出すと、何か考え込むように首を傾げた。そして、やがて大工に別れを告げると、一人、足早に寺の門を出ていった。


 この男こそ、神田三河町の半七親分の手先、湯屋熊こと熊蔵であった。


「どうも親分、その猫婆の死に様、ちいとばかり妙じゃござんせんかね?」


 その晩、熊蔵は早速、神田の半七のもとを訪れ、今日聞き込んできた一件を洗いざらい報告した。半七は、腕を組んだまま黙って聞いている。


「親分、どうです? こいつは臭いやせんか?」


「ふむ……。確かに、ちいと妙な話ではあるな。だが、てめえが持ってくる話にゃ、ろくなことがねえからな。この正月の湯屋の一件でも、とんだ汗をかかされたばかりだ。うっかり乗るわけにはいかねえよ。……まあ、もう少し詳しく探りを入れてから、また俺のところに持ってきな。猫婆だって人間だ。いつ頓死したっておかしかねえ」


「へい、分かりやした! あっしも今度こそは本気になって、この正月の借りを返してご覧にいれまさあ!」


「ああ、せいぜい頑張ってみな」


 熊蔵を帰した後、半七は一人、考えに耽っていた。

 熊蔵の言うことも、あながち馬鹿にはできない。

 家主と長屋の連中が、寄ってたかって猫婆が我が子同然に可愛がっていた猫どもを奪い取り、海に沈めた。そのちょうど七日目に、猫婆が死んだ。猫の祟り、と言ってしまえばそれまでだが、そこに何かしらの作為がなかったとは言い切れない。

 これは、そそっかしい熊蔵一人に任せてはおけない。半七はそう判断した。


 翌朝早く、半七は愛宕下にある熊蔵の湯屋を訪ねた。

 朝が早いため、まだ二階の客はいない。熊蔵は黙って半七を二階へ案内した。


「親分、ずいぶんお早いお着きで。何か御用で?」


「ああ、昨夜の一件だ。よくよく考えてみりゃ、やっぱりおかしい」


「でございましょう?」


「そこでだ、熊。おめえは、誰かにあたりを付けちゃいるのか?」


「いえ、まだそこまでは……。なにしろ、きのうの夕方に聞き込んだばかりでがすから」熊蔵は、気まずそうに頭を掻いた。


「猫婆が本当に病死ならそれで終わりだ。だが、もし脳天の傷に何か曰くがあるとすりゃ、おめえは誰の仕業だと思う?」


「そりゃ、長屋の連中の誰かでしょう」


「そうかね……」半七は腕を組む。


「あの息子ってえのが、どうにも引っかからねえか?」


「息子ですかい? ですが、そいつは近所でも評判の親孝行だそうでやすぜ」


 評判の孝行息子が、親殺しの大罪を犯すとは考えにくい。半七も少し迷った。

 しかし、猫婆が一度は素直に猫を引き渡した以上、今さら長屋の連中が彼女を殺す動機もないだろう。息子でもなく、長屋の者でもないとすれば、やはり医者の見立て通り、ただの頓死ということになる。

 だが、半七の疑念は晴れなかった。

 いくら若いと言っても、息子はもう二十歳だ。母親の死骸を前にして、近所の誰にも知らせず、わざわざ隣町の同業者のもとへ相談に駆け込むというのは、どう考えても不自然すぎる。

 かといって、あれほどの孝行息子が、なぜ、どうやって実の母親を殺したのか。その動機と方法が、どうしても見えてこない。


「まあ、何にしろだ、熊。もう一度頼んでおく。油断せず、よおく気を付けて探ってくれ。五、六日もすりゃ、俺の方から様子を見に行くから」


 半七はそう念を押して、湯屋を後にした。


 九月の末、まるで梅雨に戻ったかのように、雨がしとしとと降り続いた。

 それから五日後、今度は熊蔵の方から半七を訪ねてきた。


「親分、よく降りますねえ。……早速ですが、例の猫婆の一件、どうにもこうにも、さっぱり当たりが付きやせん」


 熊蔵は、うんざりした顔で言った。


「息子は相変わらず毎日稼ぎに出て、商売を早く終えると、帰りには必ずおふくろの墓参りを欠かさねえそうで、長屋の連中も感心しきってやす。それに、長屋の奴らは猫婆が死んでせいせいした、くらいに思ってるもんですから、誰もこの一件を蒸し返そうなんて奴はいやしません。大家も自身番も、とっくに終わったことだと思ってる。これじゃあ、手の付けようがありやせんよ」


 半七は、ちっと舌打ちした。


「そこを何とかするのが、俺たちの仕事じゃねえか。……もうてめえ一人に任せちゃおけねえ。明日、俺が直々に出向く。案内しろ」


 翌日もまた、秋の長雨が陰気に降り続いていた。

 約束通り迎えに来た熊蔵と共に、二人は傘を並べて、件の芝の裏長屋へと向かった。


 路地の中は、思ったよりも広い。まっすぐに進むと左手に大きな井戸があり、そこを左に折れると、また鉤の手に長屋が続いている。家が建っているのは右側だけで、左手は空き地になっており、雨に濡れた秋草の中に、一匹の野良犬が寒そうにうずくまっていた。


「ここです」と、熊蔵が小声で指さした。

 猫婆の南隣は、まだ空き家のままだ。二人は、北隣の大工の家を訪ねた。熊蔵は、ここの主人と顔見知りだった。


「ごめんくださいまし。ひどいお天気ですな」


 声をかけると、若い女房のお初が出てきた。熊蔵は框に腰かけ、挨拶もそこそこに、あらかじめ打ち合わせておいた通り、半七を「最近この近所に越してきた者」だと紹介した。


「実は、今度引っ越してきた家がだいぶ傷んでるもんでね。こちらの棟梁に一度見てもらいてえんだが」


 その言葉を引き取って、半七も丁寧に頭を下げた。


「何分、越してきたばかりで、この辺りの大工さんにはとんと不案内なものですから。熊さんに頼んで、こちらへお願いに上がった次第でして」


「まあ、左様でございましたか。大したお役には立てますまいが、これからはどうぞ、ご贔屓にお願い奉ります」


 新しい得意先ができたとあって、お初は愛想よく笑顔を振りまいた。彼女は二人を座敷に招き入れ、煙草盆やらお茶やらをかいがいしく勧める。


 外は、まだ雨が降り続いている。昼間だというのに薄暗い台所の方から、時折、鼠が走り回る音が聞こえてきた。


「お宅も、鼠がずいぶん出るようですな」


 半七が、何気ない口調で言った。


「はい、御覧の通りの古い家なものですから。鼠が暴れて、本当に困っておりますの」


「猫でも一匹、お飼いになってはいかがですかな」


 その言葉に、お初の顔からふっと笑顔が消え、暗い影が差した。彼女は曖昧に頷くだけで、言葉を返さない。

 すかさず、熊蔵が横から口を挟んだ。


「猫といえば、お隣の婆さんの家は、どうなりましたかい? 息子さんは、相変わらず精を出して稼いでるんですかい?」


「ええ……。あの方は、本当に感心なくらい、よく働いてらっしゃいますよ」


「……ここだけの話なんだがね」


 熊蔵は、ぐっと声を潜めた。


「どうも、表店の方じゃあ、妙な噂が立ってるようで……」


「へえ……。そうでございますか」

 お初の顔色が、また変わった。


「なんでも、息子が天秤棒でおふくろを殴り殺したんだ、って話でね……」


「まあっ!」


 お初は、はっと息を呑み、その目は恐怖と驚きに見開かれていた。彼女は、助けを求めるように、半七と熊蔵の顔を交互に見つめる。


「おい、熊! つまらねえことを、うっかり口にするんじゃねえ!」


 半七が、厳しい口調で熊蔵を制した。


「他のこととは訳が違うんだぞ。親殺しだ。一つ間違えりゃ、本人ばかりか、関わった人間はみんなただじゃ済まねえことになる。滅多なことを言うもんじゃねえよ」


 半七の眼光に射すくめられ、熊蔵は慌てて口をつぐんだ。お初も、血の気の引いた顔で押し黙ってしまう。

 座が白けたのを見計らって、半七はすっと立ち上がった。


「どうも、長々とお邪魔をいたしました。今日はこんな天気ですから、棟梁もいらっしゃるかと思いましたが……。では、また日を改めて伺うことにいたします」


 お初は亭主が帰り次第こちらから伺わせると言ったが、半七はそれを断り、熊蔵と共に大工の家を後にした。


「あの女房が、猫婆の死骸の第一発見者だな」


 路地を出ると、半七は熊蔵に確認した。


「へい、そうでやす。あの女、猫婆の話をしたら、ずいぶん妙な顔をしてやしたね」


「ああ……。大方、見当はついた。……熊、おめえはもうこれで帰っていい。あとは、俺が引き受けた」

「へ? 親分、お一人で?」

「大丈夫だ」


 熊蔵と別れた半七は、別の用事を済ませるふりをして時間を潰し、夕方の七ツ(午後四時)前、再びあの路地の入り口に立っていた。

 雨脚がまた一段と強くなってきたのを幸い、彼は頬被りをし、傘を深く傾けて、猫婆の家の南隣にある空き家へと、音もなく忍び込んだ。

 彼はひっそりと表の戸を閉めると、湿っぽい畳の上にあぐらをかき、天井裏からぽとぽとと落ちてくる雨漏りの音を、ただ静かに聞いていた。

 崩れた壁の隅では、蟋蟀が鳴いている。火の気のない空き家は、薄ら寒かった。

 やがて、家の前を通る傘の音が聞こえた。大工の女房が、外から帰ってきたらしかった。

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