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第二章:屋根の上の怪異

第二章:屋根の上の怪異



 その夜は、芝神明宮の祭礼だった。

 同じ長屋に住む、鋳掛屋の女房が、七つになる娘の手を引いて宮参りに出かけた。賑やかな境内を楽しみ、家路についたのは、夜の四ツ(午後十時)を少し回った頃だった。


 その晩は、月がことのほか冴え渡っていた。青白い光が、長屋の古い屋根瓦を照らし、降りたばかりの夜露がキラキラと光っている。

「あら……おっ母さん……」

 娘が、何かに怯えたように母親の袂を強く引いた。その小さな指が示す先を、女房も思わず見上げる。


 そして、息を呑んだ。


 猫婆の家の屋根の上に、ぼんやりと白い影が立っていたのだ。

 それは一匹の白猫だった。だが、その姿は明らかに異常だった。

 前脚を器用に胸の前で組み、後ろ脚二本で……まるで人間のように、すっくと立っている。


 女房は、声にならない悲鳴を飲み込んだ。娘を背中にかばい、物陰からそっと様子を窺う。

 すると、その白猫は、長い尻尾を引きずるようにしながら、ゆらり、ふらり、と奇妙な足取りで屋根の上を歩き始めた。それはまるで、酔っ払いが千鳥足で踊っているかのようだった。


 ぞわり、と全身に鳥肌が立った。

 やがて猫は屋根を渡りきり、その白い影がおまきの家の引窓の中へすっと消えるのを、女房は確かに見届けた。

 彼女は娘の手を掴むと、転げるように自分の家へ駆け込んだ。そして、ありったけの戸締りをし、荒い息をつきながら布団の中に潜り込んだ。


 夜更けに、祭りの酒で上機嫌になった亭主が帰ってきて、戸を叩いた。

 女房は震える声で、今夜目撃した世にも恐ろしい出来事を話して聞かせた。しかし、酔った亭主は、それをまともに取り合わない。



「べらぼうめ! 寝ぼけてんじゃねえのか! そんなことがあるもんか!」


 女房が必死で止めるのも聞かず、亭主はおまきの家の台所口へ忍び寄った。中の様子を窺っていると、やがて、おまきの嬉しそうな声が聞こえてきた。



「おお、今夜帰ってきたのかい。待ちくたびれたよ」

 その声に応えるかのように、猫の甘えたような鳴き声が続く。


 さすがの亭主も、ぎょっとして背筋が凍った。酒の酔いが、いっぺんに醒めていくのを感じた。彼は抜き足差し足で自分の家へ戻ると、青ざめた顔で女房に尋ねた。



「おい……本当に、立って歩いていたのか?」



「あたしも、この子も、確かに見たんだもの!」

 女房も、隣で震えている娘のお芳も、必死に頷いた。


 亭主も、さすがに薄気味が悪くなってきた。なにより彼は、猫を捨てに行った張本人の一人なのだ。あの猫たちの怨念が、自分に向けられるのではないか。そう思うと、たまらなく恐ろしくなった。彼は再び酒を呷り、そのまま泥のように眠り込んだ。

 残された女房と娘は、夜が明けるまで、ただしっかりと抱き合ったまま、一睡もできなかった。


 翌朝、おまきの家の猫は、すべて戻っていた。

 鋳掛屋の女房の話は、瞬く間に長屋中に広まった。普通の猫が、二本足で立って歩くはずがない。猫婆の家の猫は、ただの猫ではない。あれは化け猫だ――。

 長屋の住人たちの意見は、完全に一致した。


 その噂は家主の耳にも届いた。彼もまた、得体の知れない恐怖を感じた。

 家主は再びおまき親子を呼び出し、今度こそ立ち退くようにと迫った。

 しかし、おまきは「夫の代から住み慣れたこの家を離れたくはありません。猫は、皆様のお好きなように処分なさってくださって結構です。どうか、どうか店立てだけはご勘弁を」と、涙を流して懇願した。

 そこまで言われると、家主としても無理に追い出すわけにはいかない。


「ただ捨てるだけだから、また戻ってきてしまうんだ。今度こそ、二度と帰ってこられねえように、重しを付けて海に沈めてしまえ! あんな化け猫を生かしておいたら、この先どんな災いが起きるか分かったもんじゃねえ!」


 家主の提案だった。

 二十匹の猫たちは、それぞれ空の俵に詰め込まれ、そこに大きな石がいくつも縛り付けられた。今度は、長屋の男たちが総出でその作業にあたった。

 重しを付けて海の底へ――。さすがの猫たちも、これではもう浮かび上がってくることはできないだろう。おまきも、ついに覚悟を決めたようだった。


「皆様、今度こそ、本当に長いお別れでございます。どうか、この子たちに、最後の飯を食べさせてやってはくださいませんか」

 彼女は、二十匹の猫を自分の周りに呼び集めた。その日は七之助も商売を休み、母を手伝って小魚を煮てやった。

 飯と魚が盛られた皿が、一匹一匹の前に並べられる。猫たちは、一斉にそれに喰らいついた。

 飯を食い、肉を食いちぎり、骨をしゃぶる。

 二十匹もの猫が、一斉に喉を鳴らし、牙をむき出し、一心不乱に餌を貪るその光景は、決して心地よいものではなかった。気の弱い者が見れば、むしろ凄惨な光景にさえ思えただろう。

 白髪の目立つ、頬骨の高い老婆は、その様子をただじっと、伏し目がちに見つめていた。時折、その目元を着物の袖でそっと拭っているのが見えた。


 やがて、最後の晩餐は終わった。

 おまきの手から引き離された猫たちの運命は、もはや語るまでもないだろう。

 彼らは生きたまま、芝浦の海の、冷たい底へと葬り去られた。


 それから五日、六日と日が経ったが、猫たちが帰ってくることはなかった。

 長屋の者たちは、ようやく心の底から安堵した。


 しかし、おまきは、特に悲しむでも、寂しがるでもなく、普段と変わらぬ様子で過ごしていた。七之助も、相変わらず毎日盤台を担いで商売に出かけていた。

 そして、猫たちが海に沈められてから、ちょうど七日目の夕方のことだった。

 猫婆おまきは、変わり果てた姿で発見されたのだ。


 最初の発見者は、北隣の大工の女房、お初だった。

 その日、亭主はまだ仕事から戻っておらず、彼女はいつものように格子戸に錠を下ろし、近所へ買い物に出かけた。南隣は空き家のままだ。

 したがって、おまきが死んだ瞬間の詳しい状況を知る者は誰もいない。


 お初の証言によれば、こうだ。

 彼女が用事を済ませて路地に戻ってくると、おまきの家の軒先に、魚の盤台と天秤棒が無造作に置かれているのが目に入った。七之助が帰ってきたのだろう、と思った彼女は、その軒下を通り過ぎる際に声をかけた。



「おまきさん、七之助さん、ただいまー」



 しかし、家の中からは何の返事もない。

 秋の日はつるべ落とし。もうとっくに薄暗いというのに、家の中に灯りは点っていなかった。しんと静まり返ったその家は、まるで墓場のように不気味だった。


 一種の不安に駆られ、お初はそっと家の中を覗き込んだ。すると、入り口の土間に、何かが転がっているのが見えた。

 恐る恐る一歩足を踏み入れ、目を凝らすと、それは紛れもなく人間だった。女だった。

 猫婆、おまきだった。


「きゃああああああっ!」



 お初の悲鳴が、静かな夕暮れの路地に響き渡った。


 その叫び声を聞きつけ、近所の人々が駆けつけてくる。猫婆が死んだ、という噂は瞬く間に広がり、家主も血相を変えて飛んできた。

 頓死、とは言うものの、病死なのか、それとも誰かに殺されたのか。それはまだ誰にも分からなかった。


「それにしても、息子の七之助はどうしたんだ?」



 盤台が放り出してあるからには、七之助は一度帰宅したはずだ。それなのに、この大騒ぎの中に姿を見せないのは、あまりに不自然だった。


 ともかく、医者を呼んで死体を検めてもらうことになった。

 医者の見立てでは、体に特に異常はない、とのことだった。ただ、脳天より少し前のあたりに、一か所だけ打ち傷のようなものが見られるという。しかし、それが誰かに殴られたものなのか、あるいは倒れた拍子にどこかにぶつけたものなのか、判然としない。

 結局、おまきの死は「卒中による突然死」として処理されることになった。


 病死ならば、事が大事にならずに済む。家主はひとまず安堵したが、依然として七之助の行方が知れないことが、人々の心に重くのしかかっていた。


「あいつは一体、どこへ行っちまったんだ……」



 人々がおまきの亡骸を取り囲み、不安げに囁き合っている、その時だった。

 当の七之助が、蒼白な顔をして、ぼんやりと長屋に戻ってきたのだ。

 彼の隣には、隣町で同じく魚屋を営む、三吉という男が付き添っていた。三吉は三十過ぎの、いかにも気が利き、威勢のいい男だった。


「いやあ、皆さん、どうもお騒がせしやす!」



 三吉は、集まった人々にてきぱきと挨拶した。



「実はたった今、この七之助が、真っ青な顔であたしの店に駆け込んできやしてね。『家に帰ったら、おふくろが土間で死んでるんだが、どうすりゃいいか分からねえ』って言うんですよ。だからあたしが叱りつけてやったんです。『馬鹿野郎! なんでてめえの長屋の大家さんやご近所さんに知らせねえんだ!』ってね。まあ、なにしろまだ若いもんですから、すっかり面食らっちまって、夢中でこっちへ飛んできたみてえで。ともかく、一緒に行って皆さんに事情を話し、よしなにお願いしてやろうと、こうして来た次第でございますが……一体全体、どういうわけで?」


「いや、別段、難しいことはないんだ。おまきさんは急病でな。お医者様の見立てでは、卒中だそうだ」

 家主が、落ち着き払った様子で答えた。


「へえ、卒中で。あの婆さん、酒も飲まねえのに、卒中なんぞになるもんですかねえ。まあ、急死とあっちゃあ仕方がありやせん。おい、七之助! 泣いたって始まらねえぞ。寿命だと思って、諦めるんだな」

 三吉は、そう言って七之助の肩を力強く叩いた。


 七之助は、ただただ小さくなって、両手を膝に置いたまま俯いていた。その目には、大粒の涙がみるみるうちに溜まっていく。

 普段の彼の親孝行ぶりを知っているだけに、その姿は人々の涙を誘った。猫婆の死そのものを悲しむ者はいなかったが、母を失った七之助の悲しみを思うと、誰もが胸を痛めた。女たちの中には、もらい泣きして、すすり泣く者さえいた。


 その晩は、長屋の者たちが集まって通夜が行われた。

 七之助は、まるで魂が抜けてしまったかのように、部屋の隅でぼんやりとしているばかりで、ろくに口も利かなかった。その痛々しい姿が、ますます人々の同情を買い、葬儀から後始末まで、一切の費用と手間は長屋の者たちで引き受けることになった。


「こうして皆さんが親切にしてくださるんだから、くよくよするこたあねえ。……言っちゃ悪いが、猫婆なんて言われるおふくろは、いねえ方がおめえのためかもしれねえぜ。これからは一本立ちになって、せいぜい稼いで、いい嫁さんでももらうんだな」

 三吉が、憚ることなく大きな声でそう言った。

 仏前で不謹慎な、と咎める者は誰もいなかった。口には出さないまでも、長屋の誰もが、心のどこかで三吉と同じことを考えていたからだ。


 それでも、一個の人間である。猫婆は、彼女が愛した猫たちのように、無残な水葬に付されることはなかった。

 翌日の夕方、おまきの亡骸を納めた早桶は、長屋の人々に見送られ、麻布の小さな寺へと運ばれていった。


 その日は、冷たい霧雨が立ち込める、陰鬱な夕暮れだった。

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