プロローグ:小春日和の縁側で
プロローグ:小春日和の縁側で
季節は巡り、うららかな日差しが心地よい二月のある日のこと。僕はいつものように、神田の三河町に居を構える半七老人を訪ねていた。
「おや、先生。よくいらっしゃいました」
南向きの濡れ縁で日向ぼっこをしていた老人は、僕の姿を認めると、にこやかに顔をほころばせた。その膝の上には、丸々とした小さな三毛猫が安心しきった様子でうずくまっている。老人はその柔らかそうな背中を、大きな節くれだった手で優しく撫でていた。
「可愛らしい猫ですね。いつの間に家族が増えたんですか?」
僕が縁側に腰を下ろしながら言うと、老人は目尻に深い皺を刻んで笑った。
「へへ、まだほんの子供でしてね。鼠一匹捕る知恵もねえんですよ」
どこかの屋根の上で、恋の季節を迎えた猫たちがけたたましくいがみ合う声が聞こえてくる。老人は声がする方を見やり、再び楽しそうに笑った。
「こいつも、もうちっと大きくなればああなるんでしょう。猫の恋なんて風流な名を付けられて、先生方みてえな文化人の、俳句の種にでもなるんでしょうかねえ。まあ、猫ってえのは、これくらいの小さいうちが一番可愛いもんです」
老人は言葉を切り、膝の上の三毛猫の喉をくすぐった。猫は気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「これがね、化け猫なんじゃないかってくらいに大きくなると、もう可愛いどころの騒ぎじゃなくなります。憎らしいのを通り越して、何やら薄気味悪くなってくるもんでさあ。昔からよく言いますよね、猫が化けるって。ありゃあ、先生、ほんとうなんでしょうかね?」
老人の目が、悪戯っぽく僕に向けられた。
「さあ、どうでしょう。化け猫の話は数えきれないほどありますが、それが真実か創作か、僕には判断がつきませんね」
僕はあえて曖昧に答えた。この老人のことだ、どんな突拍子もない実体験を隠し持っているか分からない。迂闊に否定して、「先生は何もご存じねえ」と痛いところを突かれるのはごめんだった。
しかし、さすがの半七老人も、実際に化け猫を見た経験はないようだった。彼は三毛猫をそっと膝から下ろしながら、独り言のようにつぶやいた。
「そうでやすよねえ。色々な話は伝わってやすが、この目で確かに見たってえ人間は、誰もいねえんでしょう。……ただね、あっしはたった一度だけ、妙ちきりんな事件に出くわしたことがありやすよ」
老人の目に、遠い過去を懐かしむような、それでいて少しばかり物騒な光が宿った。僕の好奇心がむくむくと頭をもたげる。
「ほう、それは興味深いですね」
「ええ。まあ、あっしが直接見たってわけじゃねえんですが、どうにもただの噂話とは思えやせん。何しろ、その『猫騒動』のおかげで、人が二人も死んでるんですからね。今思い出しても、ぞっとするような恐ろしい話でさあ」
「猫に……食い殺されたとでも言うんですか?」
「いや、食われたわけじゃねえんです。そこがまた、実に奇妙きてれつなお話でしてね。……まあ先生、騙されたと思って、ちいとあっしの昔話にお付き合いくださいやせんか」
いつまでも足元にじゃれついてくる子猫を優しく追いやりながら、半七老人は、文久二年の秋風が吹く江戸の町で起きた、世にも不思議な事件の幕を、静かに開いたのだった。




