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第二章:朝顔屋敷の影

第二章:朝顔屋敷の影



 神隠し――。江戸の闇を知る半七も、その存在を完全に否定してはいなかった。人の力の及ばぬ、摩訶不思議まかふしぎなことがこの世には確かにある。もし、今回の事件が本物の神隠しならば、自分ごときに何ができるわけもない。


 だが、万が一、そこに人の企みが介在しているとすれば話は別だ。必ずや、その尻尾を掴んでみせる。半七には、そんな自負があった。


「できるだけのことは、いたしやす」


 角右衛門にそう約束し、半七は槇原の屋敷を辞した。


 家路につく道すがら、彼は考えていた。旗本屋敷という場所は、とかく世間に知られてはならない秘密を多く抱えているものだ。角右衛門は正直に話してくれたように見えたが、主家の不利益になるようなことを、用人の立場からぺらぺらと喋るはずがない。この事件の裏には、何か複雑な事情が隠されている可能性が高い。用人の話だけを鵜呑みにしては、とんだ見当違いをするかもしれない。


「まずは、現場百遍だ」


 半七は一旦、神田の自宅へ戻ると、すぐに草鞋を履き直し、九段の長い坂を登っていった。


 埋め立てられたばかりの空き地を横目に、裏四番町の武家屋敷が立ち並ぶ一角へ入る。杉野の屋敷は、なかなかに立派な構えだった。昼過ぎの柔らかな冬の日差しが、南向きの長屋の窓を明るく照らしている。


 門から出てきた酒屋の御用聞きを捕まえ、半七はそれとなく屋敷の様子を尋ねてみたが、特に変わったことはないという。これといった手がかりは得られなかった。近所の火消し屋敷に顔見知りがいる。そちらで何か聞けるかもしれぬ。そう思い、酒屋と別れて七、八間ほど歩き出した、その時だった。


 隣の大きな屋敷から、提重さげじゅうを持った若い女が、少し顔を赤らめて出てきた。これつまり、私娼の符丁である。このころの幕府の取り締まりで、私娼は禁止され、江戸市中の岡場所はすべて取り払われた。こういった洗練潔白な取り締まりは、大体にして、そこで働くようなもののことを考えておらず、私娼達は生きるすべを失ってしまった。苦肉の策で、菓子を詰めた提重を手にさげ、さも女の行商人をよそおそったのである。


 大名、旗本屋敷に出向き、「饅頭はいかがですか」などと告げて、門を通してもらう。昼間であれば、各種の行商人がお屋敷に営業に来るのは普通のことだから、門番はあっさり通行を認める。女は屋敷内の長屋に行き、そこに住む藩士らに声をかけ、菓子の類を売る態で体を売った。

 つまり、大名、旗本屋敷では、昼間から怪しからぬことがまかり通ることとなり、却って風紀は悪化してしまったというわけである。これぞ、「いつの世も......」というやつであろう。


 そういったわけで、こうした女のことを「提重」と呼んでいたわけだが、なかなかに流行はやっていたようである。

 余談だが、江戸のころは男女ともに体を売るものが多くおり、別段女性だけが体を売っていたわけではないようだ。有名な弥次喜多道中記も、陰間(男娼)と贔屓筋の旦那の旅行であるわけで、まあ、なんというか、時代というものであろう。


「おっと、お六じゃねえか」


 半七が声をかけると、女はぴたりと足を止めた。背が低く、少しふくよかな体つき。蝦蟇蛙ひきがえるのような、と言っては失礼だが、愛嬌のある顔に白粉をべったりと塗りたくっている。前髪には赤い布切れを飾っていた。


「あらまあ、三河町の親分さんじゃありませんか。ご無沙汰しております」


 お六は、やけに色っぽい仕草で挨拶をした。


「昼間からご機嫌だな。一杯やってきたのかい」

「あら、わかります?」


 お六は袖口で頬を隠しながら、くすくす笑った。


「そんなに赤いですかね。今、ここのお部屋で、無理やりお茶碗で一杯飲まされちまいましてね」


 ここで提重のお六に出会ったのは、まさに渡りに船だ。半七はにじり寄り、声を潜めて尋ねた。


「おめえさん、隣の杉野様のお屋敷にも出入りするのかい?」

「いいえ。あたし、あそこのお屋敷には、一度も入ったことがありませんよ」

「そうかい……」


 半七は少しがっかりした。


「だって、あそこは有名な『化け物屋敷』ですもの」

「ほう。化け物屋敷、とな」


 半七は首を傾げた。


「して、何が出るってんだい」

「何が出るかは知りませんけど、とにかく気味が悪いんですよ。この辺りで『朝顔屋敷』って言やあ、誰でも知ってますよ」


 朝顔屋敷――その名を聞いて、半七の記憶が呼び覚まされた。それが杉野の屋敷だとは知らなかったが、四番町界隈に伝わる怪談話のことは、彼も聞き及んでいた。皿屋敷、朝顔屋敷。とかく、番町にはそういった曰く付きの屋敷が多い。


 噂によれば、朝顔屋敷の遠い先代の主人が、何かの理由で寵愛していた妾を手討ちにした。それが真夏の出来事で、妾は朝顔模様の浴衣を着ていたという。それ以来、この屋敷では朝顔が祟るようになった。


 広大な屋敷の敷地内に朝顔の花が咲くと、必ずその家に不幸が訪れる。そのため、夏から秋にかけて、中間たちは庭から裏の空き地まで毎日くまなく見回り、朝顔や夕顔の類を見つけると、蔓の一本残らず引き抜いてしまうのだという。暑中見舞いに朝顔の絵が描かれた団扇を持ってきて、出入り差し止めになった商人もいる、という話まであった。


「なるほど。あそこが、あの朝顔屋敷か」

「ええ。外から入るあたしたちに、何かあるわけじゃないでしょうけどね。昔から化け物屋敷なんて呼ばれてる場所へ行くのは、なんだか気持ちのいいもんじゃありませんから」


 お六は、わざとらしく身震いしてみせた。


「それもそうだな」


 そう言って、ふと目をやると、その朝顔屋敷の表門から、一人の侍が静かに出てきた。中小姓といった風情の、小綺麗な男だ。


「おい、あの男を知ってるかい」


 半七が顎で指し示すと、お六は目を細めた。


「口を利いたことはありませんけど、あの人は確か、山崎さんとか言ったような……」


 山崎平助。間違いない。半七はすぐさま見当をつけ、お六に礼を言うと、その男の後を追った。人通りの少ない屋敷の塀沿いで、半七は後ろから声をかけた。


「もし、もし。失礼とは存じますが、あなたは杉野様のお屋敷の方ではございませんか」


 侍は、警戒するように振り返った。


「左様だが」

「実は、今朝方、お屋敷の御用人様にお目にかかりました。お屋敷では、大変ご心配なことが持ち上がったそうで、お察し申し上げます」


 相手はまだ油断した様子を見せず、じっとこちらの顔を睨んでいる。半七は、自分が槇原同心の配下で、用人の角右衛門から依頼を受けたことを正直に話した。そして、あなたが山崎平助殿ではないかと尋ねると、男はこくりと頷いた。それでもなお、彼の目には強い警戒の色が浮かんでいた。


「若殿様の行方は、まだ少しも?」

「一向に手がかりがなく、難渋なんじゅうしておる」


 平助は、言葉少なにそう答えた。


「まるで、神隠しにでも遭われたかのようでございますな」

「……さあな。そんなことが無いとも限らん」

「もし本当にそうでございやしたら、我々の手の及ぶところではございませんが、他に何か、お心当たりは?」

「何もない」


 半七が畳みかけるようにいくつか質問を重ねたが、平助はまるで木で鼻を括るような返事しかしない。明らかに、この話をしたくない、という態度がありありと見えた。


(おかしい……)


 半七は訝しんだ。用人の角右衛門は、あれほど頭を下げて頼んできた。ましてや、この平助という男は、若君を連れていて見失った張本人だ。本来ならば、この俺を味方と頼み、自分から進んで情報を提供し、協力すべき立場のはず。それなのに、この油断しきったような、それでいて何かを隠しているような態度は何だ?


 下手をすれば、腹を切らされるほどの失態を犯しておきながら、この男はあまりにも冷静すぎる。


 半七は、改めて男の顔を観察した。年は二十六、七。小作りで、色の白い、涼しげな目元。いかにも屋敷勤めの中小姓といった風情の、利口そうな男だ。自分の供をしていた主人を見失って、平気でいられるような鈍感な人間には到底見えない。


 そのことが、半七の疑念をますます掻き立てた。


「今も申し上げました通り、もし本物の神隠しならば致し方ありやせん。ですが、もしそうでなければ、この半七が必ずや探し出してみせます。まあ、ご安心くだせえ」


 半七は、探りを入れるように、きっぱりと言い切った。


「……では、何か心当たりでも?」


 平助が、初めて少し食いついてきた。


「さあ、今すぐこうだという目星はありやせんが、あっしも長年この稼業をやっておりますんでね。まあ、何とかなるでしょう。生きている人間なら、必ずどこかで見つかるもんでさあ」

「……左様か……」


 平助は、まだどこか信用していないような目をしていた。


「これからどちらへ?」

「どこという当てもないが、江戸中を歩き回り、一日も早く探し出すつもりだ。……あなたにも、何分よろしく頼む」

「承知いたしました」


 半七に背を向け、すたすたと歩き去っていく平助。だが、その足は時折止まり、不安そうにこちらを振り返っているように見えた。その狐につままれたような態度が、半七の疑いを確信へと変えつつあった。


(あの男、何かを知っている。いや、何かを隠しているに(ちげ)えねえ)


 すぐにでも尾行したい衝動に駆られたが、まだ真昼間だ。ここで事を荒立てるのは得策ではない。半七は、ひとまずその場で見送ることにした。

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