第一章:屋根の上の亡骸
第一章:屋根の上の亡骸
安政五年、正月十七日の朝。
江戸の空は凍てつくように澄み渡り、前夜に降りた霜が屋根瓦を白く覆っていた。
浅草田町にある旗本、黒沼孫八の屋敷は、千二百石取りの大身にふさわしい、堂々たる構えを見せている。その静寂が破られたのは、朝の五ツ(午前八時過ぎ)のことだった。
「あれを見ろ! 大屋根の上に、誰かいるぞ!」
鋭い声が上がったのは、隣家の屋根からだった。雪隠の窓から外を眺めていた若い武士が、黒沼家の屋根の上に奇妙なものを見つけたのだ。それは、まるで小さな人形のように、うつ伏せになって動かない。
その声に、黒沼家の者たちも慌てて外へ飛び出した。
果たして、玄関座敷の真上に広がる大屋根の、ちょうど棟に近いあたりに、小さな人影が横たわっている。
「何者だ!」
「子供じゃないか?」
「なぜあんな所に……」
屋敷内は途端に大騒ぎとなった。
足軽と中間が、震える手で長い梯子を屋根に立てかける。霜で滑る瓦を慎重に選びながら登っていくと、それは紛れもなく、幼い女の子の亡骸だった。
歳は三つか、四つか。
着ているものも小綺麗で、顔立ちも愛らしい。しかし、その小さな体は氷のように冷え切り、生気はどこにも感じられなかった。
亡骸は丁重に屋根から降ろされ、座敷に寝かされた。
屋敷の主である黒沼孫八は、厳しい表情で小さな亡骸を見下ろしている。彼は生来の合理主義者で、剛毅な気性の武士として知られていた。
「身元を改めよ。持ち物はないか」
用人の藤倉軍右衛門の指示で、女中たちが恐る恐る少女の身を改めたが、腰巾着もなければ、迷子札の類も一切身に着けていない。どこの誰なのか、皆目見当がつかなかった。
「殿、この娘に見覚えのある者は、屋敷内には一人もおりませぬ。出入りの者にも確認させましたが、誰も知らぬと申しております」
軍右衛門の報告に、集まった者たちの間にどよめきが広がる。
それ以上に、誰もが抱く最大の疑問は、これだった。
――この幼子が、どうやって、あの高い大屋根の上に辿り着いたのか?
武家屋敷の屋根は、町家のそれよりも遥かに高い。梯子を使ったとしても、三つや四つの子供が自力で登れるはずがない。
「まさか……天狗の仕業ではあるまいか?」
誰かが囁いた。
去年の夏から秋にかけて、江戸の空には度々、怪しい光り物が飛んだという噂が流れていた。牛のような異形の光る物体が空を駆けるのを見た、などという話もまことしやかに語られている。
「天狗にさらわれ、上空から投げ落とされたのでは……」
そんな突飛な意見に、何人かが頷きかけたその時、
「馬鹿を申せ」
と、孫八が一喝した。
「天狗だと? そのような非合理な話、断じて信じぬ。これには何か仔細があるはずだ。人の仕業に相違あるまい」
しかし、人の仕業だとして、一体誰が、何のために、幼い娘の亡骸を屋敷の屋根に置いたというのか。
「いずれにせよ、このままにはしておけぬ」
孫八は決然と言い放った。
「この子には必ず親兄弟がいるはずだ。我が子を失い、断腸の思いでいるに違いない。亡骸だけでも親元へ返してやるのが人の道というもの。屋敷の外聞など構うな。直ちに町奉行所へ届け出よ!」
主人の厳命に、軍右衛門は内心舌を巻いた。
武家屋敷内の出来事、それも正体不明の死体となれば、事を荒立てず内密に処理するのが常道だ。それをあえて公にし、町方の手を借りてでも真相を究明し、親を探し出そうというのだ。
(殿は、どこまでも武士の鑑のようなお方だ……)
しかし、用人としては、やはり屋敷の体面も考えねばならない。正月早々、屋敷の屋根から死体が見つかったなどという不吉な噂が広まれば、世間の口さがない連中が面白おかしく尾ひれをつけ、どんな迷惑を被るか知れたものではない。
「殿、お届けはそれがしにお任せを。よしなに計らってまいります」
軍右衛門はそう言うと、すぐさま支度を整え、京橋の八丁堀にある同心、小山新兵衛の屋敷へと向かったのだった。




