表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
53/348

プロローグ:向島

 プロローグ:向島



 春の陽気が隅田川の川面をきらきらと照らす、穏やかな昼下がりだった。

 僕は特に目的もなく、浅草寺の境内をぶらついていた。花見の季節はもう終わりかけているが、その名残を楽しむ人々で仲見世通りはまだ賑わっている。


「おや、先生じゃありませんか。こんな所でお会いするとは奇遇ですな」


 不意にかけられた声に振り向くと、そこにいたのは、いつものように少し腰を曲げ、柔和な笑みを浮かべた半七老人だった。惣菜屋にでも寄ってきた帰りなのか、手には小さな風呂敷包みが見える。


「三河町の親分さん。こんにちは。今日はいい天気なので、散歩に出てきたんです。半七さんはどちらかへ?」


「先生親分さんは、よしておくなさいな。もう昔の話でさぁ」


「まあまあ、僕にとっては、いろんなことを教えてくださる親分さんですよ」


「年寄りをからかいなさるもんじゃねぇですよ、先生。ところで、あっしはこれから橋場まで、寺参りでして。毎月一度は顔を見せてやらねえと、土の下で婆さんが寂しがりますんでね。生きてるうちは、そりゃあ、仲の良い夫婦でございましたですよ。ははは」


 カラリとした笑い声が、境内の喧騒に心地よく響く。老人はそう言うと、ふと僕の顔を見て尋ねた。


「ところで先生、お昼はもうお済みですかい?」


「ええ、済みました」


「それでしたら、どうです? もしお急ぎでねえようでしたら、このまま向島の方へでもぶらぶらと歩きませんか。あっしもちっと腹ごなしがしたいと思ってたところでして」


 願ってもない誘いだった。この老人の口から語られる江戸の昔話は、どんな書物よりも生々しく、僕の心を惹きつけてやまないのだ。


(しまった、手帳を持ってくればよかった)


 内心でそう思いながらも、僕は笑顔で頷いた。

「ぜひ、お供させてください」


 僕たちは連れ立って歩き始めた。浅草の喧騒を抜け、吾妻橋を渡る。いつの間にか満開だった桜は盛りを過ぎ、土手は青々とした葉桜に姿を変えていた。


「いやあ、花が散っちまうと、途端に静かになるもんですな。でも、あっしはこれくらいの頃合いが、かえって好きでございますよ」


 老人は土手の上から隅田川の流れを眺めながら、しみじみと呟いた。

 聖天様や袖摺稲荷の由来など、とりとめのない昔話に耳を傾けているうちに、僕の好奇心はいつものように、ある一点へと収束していく。


「半七さん、不思議な事件の話を聞かせてください。この浅草界隈で、何か変わった出来事はありましたか?」


 僕の催促に、半七老人は待っていたとばかりに目尻の皺を深くした。


「へえ、不思議なこと、でございますか。昔はそりゃあ、いろいろございましたですよ。……そうそう、今しがた話に出た袖摺稲荷で思い出しましたがね。とんでもねえ所から、とんでもねえもんが見つかった話がございまして……。まあ、歩きながらお話しいたしましょう」


 老人は煙管を取り出し、一服ふかしながら、ゆっくりと語り始めた。それは、安政年間の江戸を震撼させた、奇妙な事件の幕開けだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ