プロローグ:向島
プロローグ:向島
春の陽気が隅田川の川面をきらきらと照らす、穏やかな昼下がりだった。
僕は特に目的もなく、浅草寺の境内をぶらついていた。花見の季節はもう終わりかけているが、その名残を楽しむ人々で仲見世通りはまだ賑わっている。
「おや、先生じゃありませんか。こんな所でお会いするとは奇遇ですな」
不意にかけられた声に振り向くと、そこにいたのは、いつものように少し腰を曲げ、柔和な笑みを浮かべた半七老人だった。惣菜屋にでも寄ってきた帰りなのか、手には小さな風呂敷包みが見える。
「三河町の親分さん。こんにちは。今日はいい天気なので、散歩に出てきたんです。半七さんはどちらかへ?」
「先生親分さんは、よしておくなさいな。もう昔の話でさぁ」
「まあまあ、僕にとっては、いろんなことを教えてくださる親分さんですよ」
「年寄りをからかいなさるもんじゃねぇですよ、先生。ところで、あっしはこれから橋場まで、寺参りでして。毎月一度は顔を見せてやらねえと、土の下で婆さんが寂しがりますんでね。生きてるうちは、そりゃあ、仲の良い夫婦でございましたですよ。ははは」
カラリとした笑い声が、境内の喧騒に心地よく響く。老人はそう言うと、ふと僕の顔を見て尋ねた。
「ところで先生、お昼はもうお済みですかい?」
「ええ、済みました」
「それでしたら、どうです? もしお急ぎでねえようでしたら、このまま向島の方へでもぶらぶらと歩きませんか。あっしもちっと腹ごなしがしたいと思ってたところでして」
願ってもない誘いだった。この老人の口から語られる江戸の昔話は、どんな書物よりも生々しく、僕の心を惹きつけてやまないのだ。
(しまった、手帳を持ってくればよかった)
内心でそう思いながらも、僕は笑顔で頷いた。
「ぜひ、お供させてください」
僕たちは連れ立って歩き始めた。浅草の喧騒を抜け、吾妻橋を渡る。いつの間にか満開だった桜は盛りを過ぎ、土手は青々とした葉桜に姿を変えていた。
「いやあ、花が散っちまうと、途端に静かになるもんですな。でも、あっしはこれくらいの頃合いが、かえって好きでございますよ」
老人は土手の上から隅田川の流れを眺めながら、しみじみと呟いた。
聖天様や袖摺稲荷の由来など、とりとめのない昔話に耳を傾けているうちに、僕の好奇心はいつものように、ある一点へと収束していく。
「半七さん、不思議な事件の話を聞かせてください。この浅草界隈で、何か変わった出来事はありましたか?」
僕の催促に、半七老人は待っていたとばかりに目尻の皺を深くした。
「へえ、不思議なこと、でございますか。昔はそりゃあ、いろいろございましたですよ。……そうそう、今しがた話に出た袖摺稲荷で思い出しましたがね。とんでもねえ所から、とんでもねえもんが見つかった話がございまして……。まあ、歩きながらお話しいたしましょう」
老人は煙管を取り出し、一服ふかしながら、ゆっくりと語り始めた。それは、安政年間の江戸を震撼させた、奇妙な事件の幕開けだった。




