エピローグ:床下の秘密
エピローグ:床下の秘密
「その時には、さすがのわっしも面喰らいやしたよ」 半七老人は、すっかり冷たくなったお茶をすすりながら、遠い目をした。
「なるほど、お時の口から『心中』なんて言葉を聞いてはいましたが、まさか、こんなに今すぐとは思いやせんでしたからね。なにしろ、一方には縄付きが二人。一方には二人の死骸。辰伊勢の寮は、そりゃあ大騒ぎでさ。それからそれへと噂が立って、夜が更けるまで、門の前は野次馬でいっぱいでしたよ」
「……それで、結局」と僕は、こわばった声で尋ねた。「永太郎と誰袖は、どうして心中を? やはり、お時と寅松が……?」
僕にはまだ、事件のすべての繋がりが、はっきりとは判っていなかった。 半七老人は、うなずき、更に詳しく説明してくれた。
「左様でさ。……あの誰袖という女は、とんでもない。人殺しをしていたんでございます」
「人殺し!?」
「へえ。あの辻占売りのおきんという娘を殺したのは、ほかならぬ、誰袖の仕業しわざだったんでさ」
「な、なぜそんな……」
「理由は、お察しの通りでやす。前にもお話し申した通り、誰袖は主人の伜の永太郎と深い仲になっていた。それも、証文を踏み倒す(借金をチャラにする)だの何だのという魂胆じゃなく、あの男に、本気で惚れ抜いていたんでやす。……ところが、どうしたはずみか、その大事な永太郎が、あの評判の辻占娘と、関係が出来てしまった」
「ああ……」
「誰袖は、それを聞いて、そりゃあひどく口惜くやしがった。先生、ああいう商売の女のやきもちは、人一倍でさ。実におそろしいもんでやすからね。……ふだんから仲好しだった、あのお時に言い付けて、おきんが廓から夜遅く帰って来るところを、無理に寮の中へ呼び込んだんでさ」
「……」
「そして、さんざん怨みを言った上で……まあ、ひどいことをするじゃありませんか。打ぶったり、抓ったりした揚句に、とうとう、自分の細紐で……おきんを絞め殺してしまったんでございます」
「そ、そんな……」
「まさか、本気で殺しちまうとは思っていなかったんでしょう。仲働きのお時も、一時はびっくり仰天したんですが、こいつがなかなかしっかり者で、しかも悪知恵が働く。おまけに、おきんの兄貴の、あの遊び人・寅松と、とうから情交があったんでさ」
「なんと……不思議な因縁ですね」
「そういうわけで、おきんも前からお時のことは知っていたんでしょう。ご近所でしたからな。うかうかと辰伊勢の寮へ引っ張り込まれて、飛んだ災難に逢うことになった。……そこで、お時はすぐに兄貴分の情夫(寅松)を呼んで来て、なにもかも打ち明けて、後の始末を相談した。寅松もさすがにびっくりしたが、こいつも根が悪い奴でさ。自分の情婦おんなの頼みといい、内分にすれば纒まった金がふところにはいると聞いて、妹のかたきを取ろうなんて料簡は微塵も無しに、素直に承知してしまったんでさ」
「それで、死体は……」
「へえ。寮の床下を深く掘って、おきんの死骸をそっと埋めて、みんなで素知らん顔をしていたんでございます。何でも、その口止め料として、差当り百両の金が、お時の手から寅松に渡ったということで」
「百両! そんな大金、どこから……」 僕は思わず聞き返した。
「その金は、つまり、永太郎の手から出たんでさ」と、半七老人は静かに言った。
「誰袖は、その明くる日にすぐに永太郎を呼び付けて、これも正直に打ち明けた。『わたしは口惜しいから、あのおきんをいじめ殺した。さあ、それが悪いなら、どうともしてくれ』と、膝詰めで談判したんでございます」
「……」
「永太郎は蒼くなってふるえたそうですが、もともと自分にも落度おちどがある。それに、そんなことが表沙汰になった日には、辰伊勢の暖簾のれんにも傷がつく。それで、とうとう誰袖の言うなり次第に、内済金の百両を出すことになったんでございます」
「……ひどい話だ」
「ですが、先生。悪銭身に付かず、とはよく言ったもんで。寅松はその百両を、あっという間に賭場でスッちまって、おまけに盆の上の喧嘩から相手に傷をつけて、土地にいられないようなことになってしまった。……それでも、さすがに気が咎めたのか、それともまあ、最後の兄妹の人情というもんですかね。まだふところに金のある間に、自分の菩提寺へ久し振りでたずねて行って、妹の回向料の積りで、何となしに五両の金を納めて行った。あれが、わっしが奴にたどり着く手掛かりになりやした」
「なるほど……」
「それから寅松は、草加の在の方へ行って、ひと月ばかり隠れていたんですが、江戸者が麦飯を食っちゃあいられませんからな。またこっそりと江戸へ帰って来て、お時から幾らかずつの小遣いを強請って、そこらをうろ付いていた。……そこを、田町の重兵衛親分に眼をつけられて、お時と情交があることも知れてしまったんでさ」
「それで、重兵衛親分は……」
「親分は、さすがに自分の縄張り内ですから、辰伊勢に引き合い(お上の捜査)を付けるのも気の毒だと思ったんでしょう。『あんな女(お時)は、早く暇を出してしまえ』と、内々で辰伊勢のおまきさんに教えてやった。……ところが、それが却って仇となってしまったんで」
「というと?」
「そりゃあ、お時は素直に動きませんや。永太郎と誰袖の、一番痛い急所を掴んでいるんでございますもの。『ここで少なくも二百両、いや三百両と纒まった金を貰わなければ、おとなしく出て行くわけにはゆかない』と、しきりに二人をおどかしていたんでさ」
「……」
「ですが、永太郎もまだ部屋住みの身の上。とてもそんな金が出来る筈はなし。誰袖も、これまでに度々お時に強請られているんですから、もう身の皮を剥いでも工面は付かない。二人とも、すっかり弱り抜いているところへ、なんにも知らない辰伊勢のおふくろ(おまき)が、無暗に引き合いを怖がって、『一日も早くお時に暇を出せ』と迫る」
「八方塞がり、ですね」
「へえ。お時は、情夫の寅松を加勢に頼んで、『自分たちの云い条を素直に肯きいてくれなければ、おきん殺しの一条を、恐れながらと訴え出る』と、蔭へまわって永太郎と誰袖とを脅迫している。……もう、どうにもこうにも、しようがなくなった。それで、誰袖は永太郎と一緒に死のうと、覚悟を決めたんでございましょう」
「それを、お時が……」
「薄々感付いたんでしょうな。『二人を心中させては玉無し(一文無し)になる』。そう焦ったお時が、その前に寅松に意地をつけて、いよいよ辰伊勢の帳場へ坐り込ませよう(居座らせよう)と相談していた……まさにそのところを、わっしにみんな引き揚げられてしまった、という訳でさ」
半七老人は、ふう、と長い息をついた。 「誰袖は、どのみち人殺しですから、所詮助からない命でした。いっそ心中した方が、ましだったかもしれません。ですが、永太郎は……まさかに死罪にはなりますまいからな。もう一と足のところで、可哀そうなことをしやした」
これで、辰伊勢の寮の恐ろしい秘密は、すっかり判った。 だが、僕にはまだ、どうしても解けない一つの疑いが胸に残っていた。
「親分。……すると、あの按摩の徳寿は、本当に、なにも知らなかったんですね」
「へえ。徳寿という奴は、ご覧の通りの正直者で。誰袖の文使いをしたほかには、まったく、なんにも知らなかったようでございます」
「では……」と僕は、一番聞きたかったことを口にした。 「その徳寿が、辰伊勢の寮へ行くのを、なぜ、あれほどまでに嫌がったんでしょう。『誰袖のそばには、何か坐っている』なんて……。盲人の彼に、どうしてそんなことが感付けたんでしょう?」
半七老人は、僕の顔をじっと見た。 そのしわくちゃの顔に、なんとも言えない、不思議な笑みが浮かんだ。
「さあ、それは判りませんねえ」
老人は、それ以上は何も言わなかった。 ただ、こう付け加えた。
「そういうむずかしい理窟は、先生方のような、学問のあるお方の方が、ようご存じでしょう。……ただ、一つ言えるのは」
「……」
「辰伊勢の寮の、あの座敷の床下には……可哀そうなおきんの死骸が、ずっと埋まっていたんでございますよ」
春とはいえ、まだ冷たい風が縁側を吹き抜けた。 僕は、この物語を単なる芝居の「春の雪解」として聞くことは、もう出来なくなっていた。かの直侍と三千歳との単純な情話よりも、もっと深く、もっと恐ろしい、人の心の闇そのもののように思われてならなかった。




