第四章:雪解けの真相
第四章:雪解けの真相
男(寅松)はどうするか。 半七は、息を殺して見ていると、寅松はまた踵きびすを返し、元来た方角(蕎麦屋の方)へ歩き出そうとした。 そして、自分のあとを尾けて来た半七と、ちょうど鉢合わせになった。
一本路をすれ違って行こうとする彼を、半七は逃がすまいと、追うように呼び止めた。
「おい、あにい。寅大哥」
寅松は、黙ってピタリと立ち停まった。
「おめえ、久しく顔を見せねえじゃあねえか。どこに引っ込んでいたんだ」 半七は、わざと昔からの知り合いのように、馴れ馴れしく声をかけた。
「……てめえは、誰だ」 寅松は、薄暗い闇の中で、用心深そうに半七の顔を透かして視た。
「まあ、誰でもいいや。昔、孔雀長屋の二階(賭場)で、二、三度逢ったことがあるんだ」 半七は、カマをかけた。
「嘘をつけ!」 寅松は、すぐに身構えながら言った。 「てめえ……今、そこの蕎麦屋にいた野郎だろう。どうも、あの時から面つら付きが気に食わねえと思ったんだ」 寅松の目が、危険な光を帯びる。
「田町の重兵衛の子分に、てめえのような面は見たことはねえ。……てめえ達、岡っ引きの食い物になる俺じゃあねえぞ。おれを連れて行きたけりゃあ、重兵衛の親分本人を呼んで来い!」
「大哥、ひどく威勢が好いな」 半七は、あざわらった。 「まあ、なんでもいいから、其処までおとなしく来てくれ。話はそれからだ」
「馬鹿をいえ! 今度、伝馬町へ行けば、おれぁ仕舞い湯(死罪)だ! てめえ達のような下っ引に、みすみすあげられて堪まるものか!」 寅松は、完全に開き直った。 「もち竿で孔雀を差そう(岡っ引きが大物を捕まえよう)とすると、ちっとばかり的がちがうぞ。おれを縛りたけりゃあ、立派に十手と捕り縄を持って来い!」
むやみに気が強い。半七も、これは少し持て余した。 「(こいつ、人を殺あやめてるか、それに近いことをやらかしてやがるな)」 もうこうなれば、問答無用。 忌でも泥仕合いをするよりほかはない。
この雪あがりの泥道で大立ち回りは厄介だとは思ったが、多寡が遊び人ひとりを手捕りにするのは、さのみむずかしくもない。 (もう腕ずくで引き摺って行くか) 半七は、腰を落とした。
「やい、寅! てめえのような半端はんぱ人足を相手にして、泥沫をあげるのもいやだと思って、お慈悲をかけてやりゃあ、際限がねえな!」 半七は、懐の十手に手をかけた。 「おれは立派に御用の十手を持っているが、てめえを縛ってから、後でゆっくり見せてやる。さあ、素直に来い!」
半七が一と足すすみ寄ると、寅松は一と足さがって、スッとふところに手を突っ込んだ。 「(刃物か!)」 岡っ引を相手に、いきなり刃物を振り廻すのは素人だ。 (こいつは口ほどでもない奴だ) 半七は、一瞬そう多寡をくくった。
だが、その「素人」が、ヤケになればかえって剣呑けんのんだ。 半七は、相手の胆きもをおびやかすため、腹の底から声を張り上げた。
「寅松! 御用だ! 神妙にしろ!!」
その途端だった。 「!」 半七のうしろから、誰かが音もなく忍び寄り、両手でその顔を覆い、目隠しをした。 「(女!?)」 不意を喰らって半七もすこし慌てたが、その柔らかい手触りで、それが女の手であることをすぐに覚った。 (お時だ! こいつ、門から見てやがったな!)
「今だ!」 お時が叫ぶ。 半七は、肩を沈めてお時の両腕を引っ掴むと同時に、体勢を崩しながら彼女を自分の爪先(前)へ投げ出した。 その半七の上を飛び越えるようにして、寅松が突いて来た。 闇の中に、ギラリと匕首が光っていた。
「御用だ!!」 半七は、泥濘に倒れ込むお時を踏み越え、再び叱咤した。 寅松の刃は、空を二、三度突いた。半七は、その手首を狙って十手を打ち込む。 寅松のからだが右へ左へよろめいたとみるうちに、ガキン、と鈍い音がして、右手の刃物は泥道に叩き落されていた。 間髪入れず、半七の左手から繰り出された捕り縄が、寅松の左の手首にかかっていた。
相手がなみなみの者でないと覚った瞬間、寅松は急に、さっきまでの威勢が嘘のように弱い音を吹き出した。
「お、親分! どうも、お見それ申しました! お手数をかけて、まことに申し訳がございません! まあ、どうか、勘弁して下さいまし!」
「今だから行って聞かせる。おれは、神田の半七だ」 半七は、縄を引き締めながら名乗った。 「往来なかじゃあ、どうにもならねえ。……おい、お時! てめえもかかり合いだ。立て!」
泥まみれになって這い起きたお時と、縄付きの寅松とを引っ立てて、半七は辰伊勢の寮の門を蹴破るようにして入った。
奥から、異変に気付いた小女が、泣き声をあげて駈け出して来た。
「あ、ああ……! 若旦那と、花魁が……!!」
半七が奥へ踏み込むと、そこは凄惨な現場だった。 奥の八畳の座敷。 逆さ屏風が立てまわされ、その中で、辰伊勢の伜・永太郎と、誰袖花魁が、血の海に倒れていた。 二人ともに、剃刀かみそりで喉を深く突いていた。
まだ、体は温かかった。




