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第二章:手探りの捜査線

 事件が迷宮入りしかけた、七日ほどが過ぎた夜のことだった。

 手先の松吉が、神田三河町にある半七親分の家へ、まるで手柄を立てた凱旋将軍のように意気揚々と駆け込んできた。


「親分! 分かりやしたぜ、親分! あの帯取りの池の一件です! 近所の噂は本当でした! おみよって娘、やっぱり旦那様がいたんですよ!」

 松吉は、息を切らしながら興奮気味にまくし立てた。


「相手は、なんでも旗本のご隠居だそうで。こっそりおみよの家に通ってたらしいんです。お袋さんが頑なに隠してやがったんですが、あっしがまあ、あれこれ脅しをかけてやったら、とうとう白状しやした! どうです、これが何かの手がかりになりやせんかね!」


「ふむ……」


 半七は、松吉の報告を静かに聞きながら、ゆっくりと頷いた。


「それだけでも分かれば、だいぶ見当がついてくるな。まあ、母親を脅して聞き出したんじゃあ、大した手柄とは言えねえが……。ひょろ松、お前にしちゃあ上出来だ」


「へへへ、そうでやしょう!」


 松吉は、鼻の頭をこすって得意満面だ。


「おとなしそうに見えても、旦那持ちの女となれば、他にも色々と面倒な人間関係があるかもしれねえ。で、ひょろ松。お前はこれからどうするつもりだ?」

 半七にそう問われ、松吉は途端に勢いを失った。


「さあ……それが分からねえから、親分に相談に来たんでさあ。まさか、その旗本のご隠居が殺したわけじゃありますめえ。親分はどう思いやす?」


「俺も、まさかとは思うがな……」


 半七は、少し首をひねった。


「だが、世の中には思いもよらないことがある。油断はできねえぞ。その旗本は何という名で、ご隠居の下屋敷はどこにあるんだ?」


「屋敷は、大久保式部様という千石取りの大身。で、ご隠居の下屋敷は雑司ヶ谷にあるそうでやす」


「よし。それじゃあ、何はともあれ、その雑司ヶ谷とやらへ行ってみようじゃねえか。とんでもない大物にぶち当たるかもしれねえからな」


 翌朝、松吉が迎えに来るのを待って、半七は二人連れで神田を出立した。

 三月も半ばを過ぎ、まさに花見日和といったうららかな陽気で、ぶらぶらと歩く二人の額には、うっすらと汗が滲んだ。


 雑司ヶ谷に着き、大久保式部の下屋敷を訪ね当てると、さすがは千石取りの隠居所だけあって、屋敷はなかなかに立派な構えだった。屋敷の前には小さな溝川が流れ、静かなたたずまいを見せている。


「まるで一軒家みてえですね」と、松吉が呟いた。

 その言葉通り、背中合わせにもう一軒の屋敷があるだけで、左右は見渡す限りの畑地が広がっていた。

 近所で聞き込みをしてみると、この下屋敷には六十がらみのご隠居が住んでおり、他には用人、若党、中間が一人ずつ、それに女中が二人ほど奉公しているとのことだった。


 半七は、黄色い菜の花が咲き乱れる畑のあぜ道を歩きながら、屋敷の周りをぐるりと一通り見て回った。


「屋敷の奴がやったんじゃあるめえな」

 半七がぽつりと言った。


「え、そうでしょうか?」


「考えてもみろ。これだけ広い屋敷で、おまけに周りに家もねえ。もし妾を始末する気があるなら、わざわざ相手の家まで押しかけなくても、この屋敷の中でやるか、せめて帰り道で待ち伏せするだろう。誰が考えても、その方がよっぽど手っ取り早い。そうじゃねえか?」


「ああ……なるほど、確かにそうでやすね。じゃあ、今日は無駄足でしたかい」

 松吉は、がっかりしたように肩を落とした。


「まあ、そう言うな。久しぶりにこっちの方まで足を延ばしたんだ。せっかくだから、鬼子母神様にお参りでもして、茗荷屋で昼飯でも食っていこうじゃねえか」


 二人は田んぼ道を抜け、鬼子母神前の長い参道へ出た。

 この辺りの象徴ともいえる大きな欅の木が、明るい春の日差しを浴びてきらきらと光っている。

 天保の改革以来、参詣客は少し減ったとはいえ、秋の会式と並んで、春の桜の時期はやはり格別の賑わいを見せていた。あちこちの団子茶屋からは、団扇で火をおこす忙しない音が聞こえてくる。

 名物のすすきで作った木菟みみずくは季節外れで店先にはなかったが、もう一つの名物である風車は、春のそよ風を受けて軽やかに回っていた。

 巻藁に差された笹の枝には、麦藁で作られた花魁人形があかい袂をなびかせ、紙細工の蝶がひらひらと舞う様は、実にのどかな春の景色だった。


 二人は、欅と桜の木々の間を抜けて、本堂の前に立った。


「親分、いやあ、たいした賑わいですねえ」


「花見の季節だからな。俺たちみたいに、お参りにかこつけて遊びに来てる奴も多いんだろう。せっかく来たんだ、よく拝んでいけよ」

 半七に言われ、松吉も真面目な顔つきになって手を合わせた。


 かつての名店、藪蕎麦や向畊亭はもう跡形もなくなっていたので、二人は茗荷屋という茶屋に入って昼食をとることにした。

 松吉が酒を注文したので、半七も一杯、二杯と付き合った。

 ほろ酔いでうっすらと顔を赤くした二人が茶屋を出ると、店の門口で、なんとも小粋な雰囲気の女性とばったり出逢った。年は二十三、四といったところだろうか。彼女は、妹らしい十四、五の少女を連れており、手には桐屋の飴が入った袋を提げていた。

 少女の方は、笹の枝についた住吉踊りの麦藁人形を嬉しそうに担いでいる。


「あら、三河町の親分さんじゃありませんか」

 女は立ち止まると、人懐っこい笑顔を半七に向けた。


「おお、これはこれは。お師匠さんじゃねえか。ご熱心なこった」

 半七も笑って会釈をすると、隣の少女もぺこりとお辞儀をした。


「お前さんたちも昼飯かい。もうちっと早けりゃ、お酌でもしてもらうんだったな。惜しいことをした」

 半七が冗談めかして笑う。


「まあ、本当に残念ですわ」

 女も可憐に笑って応じた。


「妹と二人で家を空けるのもどうかと思ったんですが、今日はどうしても断れないご代参を頼まれてしまいましてね。一人で二つもお願い事をするのは、あまりに欲張りで申し訳ないものですから、自分は自分の分、妹はご代参の分と、役割を決めてお参りしてきたんですよ」


「そりゃまた、殊勝なこった。で、誰のご代参でえ?」


「町内の古着屋のおっかさんに頼まれましてね……。そこの娘さんがあたしのところへお稽古に来ている、というご縁なんです」

 女はそう言って、少しだけ表情を曇らせた。


「じゃあ、そのおっかさんも、よっぽど信心深いんだな」

 半七は、特に深い意味もなくそう言った。


「信心深いのもそうですけれど、少し心配事があるようでして……。実は、そこの息子さんが、十日ほど前からどこへ行ったか分からなくなってしまったそうなんです。あちこちの占い師にみてもらったら、『剣難の相あり』だの『水難に遭う』だのと言われたそうで、おっかさんはますます気を揉んでいらっしゃるんです。先ほどもお堂でおみくじを引いてみたんですが、やっぱり『凶』と出てしまって……」

 女は、細い眉をきゅっと寄せ、自分のことのように心を痛めている様子だった。


 この女性は、内藤新宿の北裏に住む、杵屋お登久という長唄の師匠だった。

 彼女は半七や松吉の稼業を知っていたので、ここで会ったのを幸いと、もしその古着屋の息子の行方について何か心当たりがあれば教えてほしい、と頼んできた。


 半七は、その頼みを快く引き受けた。


「なにしろ、おっかさんがお気の毒で……」

 お登久は、同情を込めて言う。


「妹さんはまだ子供ですし、一家の稼ぎ手がいなくなってしまったら、どうにもなりませんもの」


「そりゃあ気の毒な話だ。その息子は、なんという名前で、年はいくつぐらいなんだい?」

 半七に尋ねられ、お登久は詳しくその息子の身の上を語り始めた。


 息子の名は、千次郎。二十四歳。

 九つの春から市ヶ谷合羽坂下の質屋に奉公に出て、無事に年季を勤め上げ、さらに三年の礼奉公も済ませた。そして、去年の春にようやく独立し、新宿に小さな古着屋を開いて、母親と妹との三人で真面目に暮らしているという。

 年は二十四だが、色白で小柄なため、実際より二つ三つは若く見えるとのことだった。


 その話をじっと聞いていた半七は、お登久の顔色を窺いながら、彼女が話し終えるのを待って、静かにこう切り出した。


「ところで、お師匠さん。言うまでもないことだが、その千次郎という息子は、一刻も早く探し出さなけりゃあ、あんたも困るんだろう?」


「ええ。一日でも早い方が……。何度も申す通り、おっかさんがひどく心配しておりますので」

 お登久は、半七にすがるような眼差しを向けた。薄化粧を施した彼女の顔に、不安の影がありありと浮かんでいる。


「ふむ……。それじゃあ、もう少し突っ込んだことを聞かせてもらいてえんだが。お師匠さんは、どうせこれから飯にするつもりなんだろう? 俺たちも付き合うから、もう一度あの店に引っ返そうじゃねえか」


「でも、そんな、親分さんたちにご迷惑では……」


「なに、構うもんか。さあ、俺が案内してやるぜ」

 半七は先に立って、再び茗荷屋の暖簾をくぐった。

 適当に酒や肴を注文し、お登久と妹にご飯を食べさせてやった後、頃合いを見計らって、半七はお登久だけを別の小座敷へと誘った。


「ほかでもねえ、さっきの古着屋の息子の件だがな……。お師匠さんも、俺に頼み事をする以上は、何もかも洗いざらい打ち明けてくれねえと、どうも水臭くて仕事がしにくい。そうだろ?」

 半七がにやにやと笑いながら顔を覗き込むと、お登久は少し酔いの回った顔を、ますます赤くした。彼女は小菊の描かれた懐紙で口元を隠しながら、恥ずかしそうにうつむいている。


「おいおい、お師匠さん。野暮な真似はよそうじゃねえか。さっきからのあんたの口ぶりで、大抵のことは分かってるんだ。あんたは、いずれその古着屋の店先に座って、千次郎と一緒に物差しを握るつもりでいるんだろう?」

 半七の言葉に、お登久の肩がびくりと震えた。


「なあ、そうだろう? 年は若いし、男前で、真面目な働き者だ。亭主に持つには、何の不足もねえはずだ。あんたは芸人で、相手は町人。御法度を破るような恋じゃねえんだから、そんなに怖がって隠すこともなかろう。いよいよ祝言となれば、俺だって馴染みのよしみで、祝いの魚の一尾でも持って駆けつけようと思ってたんだ。惚気話が混じっても一向に構わねえ。万事、正直に話してもらおうじゃねえか。俺は黙って聞き役に徹するからよ」


「……どうも、相済みません」

 お登久は、蚊の鳴くような声でそう言うのがやっとだった。


「済むも済まねえもあるもんか。そりゃあ、あんたたち二人の間の話だ」

 半七は、相変わらずからかうように笑っている。


「で、だ。その千次郎という男は、もちろん、お師匠さん一筋なんだろうな? あちこちに手を出すような、浮気者じゃあるめえな?」


 その問いに、お登久の表情が一変した。


「それが……どうも、分からないんですの」

 彼女の声には、明らかに嫉妬の色が混じっていた。


「確かな証拠を見たわけではありません。でも、あの人がまだ合羽坂の質屋にいた頃から、どうも他に誰かいるような気がして……。あたし、何だか胸騒ぎがして、時々そのことを問い詰めるんですが、あの人は『決してそんなことはない』って、どこまでも白を切るんです」


 千次郎は、夜に家を空けることもなく、商売以外で遊び歩く様子もない。

 質屋にいた頃から鬼子母神様を熱心に信仰していて、月に二、三度は必ずお参りに来る。

 それ以外に、特に怪しいところはない。

 ただ、たった一度だけ、女からの手紙らしきものを持っていたことがあったという。

 もちろん、お登久に見つかったとたん、千次郎は慌ててそれを破り捨ててしまったので、文面を読むことはできなかった。

 しかし、その一件以来、注意して様子を窺っていると、千次郎にはどこか落ち着かないところがあり、自分に対して何かを隠しているように思えてならなかった。


 それが面白くなくて、半月ほど前にも大喧嘩をした。

 その時、お登久は「もう待てないから、すぐにでもあたしを女房にしてください」と、彼に強く迫ったという。

 そして、それから間もなく、千次郎はぷっつりと姿を消してしまったのだ。


「そうか……そいつはいけねえな」

 半七も、今度は真面目な顔で頷いた。


「しかし、お師匠さん。あんたも大した役者だぜ。『おっかさんが可哀そうで』なんて、うまく俺を担ごうとしたな。まったく、罪が深い女だ。覚えときなよ。はっはっはっは!」


 半七の豪快な笑い声に、お登久は顔を真っ赤にして、まるで初心な少女のように小さくなっていた。

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