プロローグ:池にまつわる怖い話
「今ではすっかり埋め立てられて、どこにあったのかさえ分からなくなってしまいましたが、ここが昔の『帯取りの池』という場所だったんですよ。わたしがまだ若かった時分、江戸の時代には、ちゃんと大きな池として残っていました。ほら、これを見てくださな」
そう言うと、半七老人は僕の目の前に、万延年間に作られたという古い江戸の絵図を広げて見せてくれた。その地図には、市ヶ谷の月桂寺というお寺の西側、尾州様の中屋敷の下あたりに、「おびとりの池」という、かなり大きな池が鮮やかな水色で描かれている。
「京都のほうにも似たような伝説の場所があるそうですが、江戸の絵図にこれだけはっきりと記されているんですから、ただの作り話じゃありません。この池がなぜ『帯取り』なんて物騒な名前で呼ばれているかってぇと、昔からこんな不思議な言い伝えがあるからなんです」
半七老人は、少しだけ声を潜めて続けた。
「もちろん、ずっと昔のことでしょうがね。この池の上を、それは見事な錦の帯がふわりと浮いているのを、通りがかった旅人なんかが目にするんだそうです。あまりの美しさに、『おや、あんなところに立派な帯が』なんて思って、それを取ろうと不用意に池に近づくと、さあ大変。その帯がまるで生き物のようにシュルシュルと体に巻き付いて、あっという間に池の底へ引きずり込まれてしまう……。なんでも、この池の主が美しい錦の帯に化けて、人間を誘い込んでいる、とまあ、そういう話なんですよ」
「なんだか不気味ですね。大きな錦蛇でも棲んでいたんじゃないですか?」
僕は、ちょっと学者ぶって、ありきたりな推理を口にしてみた。
「ふふ、まあ、そんなところかもしれやせんね」
半七老は、僕の意見を否定することなく、にこやかに頷いてくれた。
「また、別の説もあるんですよ。いくら大蛇だって、ずっと水の底に棲んでいるはずがない。これは水練、つまり泳ぎの達者な盗賊が池の底に潜んでいて、錦の帯を囮にして旅人を誘い込む。そして、まんまと引きずり込んだところで、懐の金品から着物まで、根こそぎ奪い取ってしまうんだろう、と。まあ、どっちの説にしたって、気味の悪い場所であることに変わりはありませやせんでしたなぁ」
かつては広大だったその池も、江戸の時代が進むにつれて少しずつ埋め立てられ、彼が知っている頃には、岸のあたりは浅い泥沼のようになって、夏になると葦などが生い茂るような場所になっていたという。
それでも、「帯取りの池」という不吉な伝説は人々の心に深く根付いていて、気味悪がって魚を捕る者も、水遊びをする子供も、誰一人いなかったそうだ。
「そんな、いわくつきの池にですよ。ある時、本当に女の帯がぷかぷかと浮いていたもんだから、さあ、大変だと、近所は大騒ぎになったんです」




