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第四章:雨の大川端

 増村の番頭・宗助に別れて小料理屋を出ると、門口の葉柳が、降りしきる雨に打たれてしなだれていた。浅草の夜は、晴れていればどこか華やぐのに、こういう春の冷たい雨になると、町の息づかいまで湿って重い。軒先の提灯も、ほの赤い灯をにじませている。


「まだ降っていやあがる。親分、これからどうしやす」


 庄太が傘の縁から顔をのぞかせた。半七は、雨足を見あげるでもなく、歩きながら小声で云った。


「お葉の家は、あと廻しにする。おれが、いま急に思い付いたことがある。増村の若いのを詰めても、口を結ぶかも知れねえ。友達を洗え。呉服屋だの小間物屋だの、遊び仲間があると云うじゃねえか。そいつらに当って、太鼓持や落語家の中に、素性の怪しい奴がいねえかを探れ。お葉に掛合うのは、それからだ」


「ようがす。請合いました」


 庄太はぬかるむ路地へすっと消えた。残った亀吉が、いかにも不満そうに口を尖らせる。


「これじゃあ、浅草まで酒を飲みに来たようなもんで」


「酒も飲み足りねえだろうが、我慢しろ。いまの話で、ひとつ当りがついた」


「親分、まだ判りませんが」


「なら、ぶらぶら歩きながら聞け」


 ふたりは吾妻橋の袂から、往来の寂しい大川端へ出た。雨に煙る川面へ、橋の欄干から落ちる雫が一粒ずつ跳ね、夜船の棹の音がどこかで乾いて鳴った。大川という名は立派だが、春先の雨夜には、川の匂いが人の胸へしみて来る。泥と潮と、古い板舟の脂の匂いである。


「番頭の話を聞いているうちに、胸にひょいと浮かんだ。夢みてえだと笑うかも知れねえが、こういう当て推量が、ぽんと当ることがある」


「で、その夢ってのは?」


「お城の一件は、あの息子たちの趣向だ」


 亀吉は思わず噴き出したが、半七の目は笑っていない。江戸の町は、末へ行くほど、金と暇を持て余した連中の悪ふざけが増える。芝居の真似、浄瑠璃の文句、流行り本の扮装こしらえ――そんなものが、いつの間にか「ほんもの」と「冗談」の境を踏み越える。半七が口にした「田舎源氏」も、そういう世相の一つの影だった。絵草紙の色気を、大人おとなたちが面白半分にまねて、結局は奉行所沙汰に化ける。


「大店の若旦那が、自分でお城へ出るわけがねえ。取巻きの芸人か、悪い根性のある奴が、褒美の金に目が眩んでやった。気違いの振りをして、縄を抜いて逃げた……。そんな芸、素人には出来ねえ。素性のある者だ。庄太が洗えば出る」


「お葉も、その口留め料ってわけで」


「そうだ。相手を見て吹っかけている。よくねえ女だ」


 そう云い切った半七の視線が、ふいに川端の暗がりへ走った。露地口から、ひとりの女が飛び出したのである。傘もささず、跣足はだしで、雨の石を滑るように横切り、そのまま欄干の切れ目へ向かった。


「あ、いけねえ」


 半七は傘を投げ捨てた。自分も跣足になって駈ける。女が身を躍らせる刹那、帯の端が、半七の指へ絡んだ。濡れた絹が冷たく、ずしりと重い。川風にあおられ、女の肩が宙へ泳ぐ。半七は腰を落として引き戻した。


 亀吉も駈け寄る。露地の奥から男と女が転げるように出て来た。男は血相を変えて、女は泣き腫らした目をしている。


「おめえは番太の女房だな。落着け。おれの顔を見ろ」


 半七の声に、女ははっとした。半気違いのようになっていたのが、急に息を呑み、ふらふらと膝を折る。外神田の自身番で顔を知っている、お霜だった。追って来た男は亭主の要作、もうひとりは、この露地奥に住むお高という女である。


 雨がどうにもならない。三人はお霜を囲み、露地の奥へ入った。柳原からこの辺りの川沿いには、囲い者の隠家かくれがが多い。表の家とは違って、格子も浅く、灯も低い。お高の家も、その一つだった。畳は雨気を吸って匂い、板戸の隙間から、川の湿りが忍び込む。


 お霜は夫婦喧嘩の果てに家を飛び出し、あてもなくうろつくうち、昔なじみのお高に出逢ったという。お高は仔細を知らぬまま、女の味方になって家へ匿った。そこへ要作が探し当てて怒鳴り込む。女ふたりに云い込められて逆上し、お霜の髪をつかんで乱暴をした。お霜も堪え切れず、いっそと川へ走った――それが今のところだ。


 要作もお高も、留め男が半七と分かって、しきりに頭を下げた。濡れた着物を拭かせ、汚れた足を洗わせ、湯を沸かす。そういう手つきは、むしろお高の方が馴れている。隠家の女は、こういう場面で余計なことを云わず、先に手を動かす。


「いや、あやまることはねえ」


 半七は、お霜だけを二階へ連れて上がった。三畳と六畳の二間で、床には杜若かきつばたが生けてある。雨の大川が、東向きの縁側の外で煙って見えた。川面は黒く、波紋ばかりが白い。


 半七は六畳へ坐り、お霜を前へ据えた。お霜は散らし髪のまま、膝の上で指を絡めている。指先が震えていた。


「もうひと足で、どぶんを極めるところだったな。助けたおれは、まあ命の親だ。命の親に噓をつくのは、よくねえ」


「……はい」


「嘘を云わねえ約束だ。おめえ、この間、おれに隠したな」


「いいえ、そんな……」


 半七は、わざと淡々と云った。


「下にいるのは亀吉だ。きのう川越から帰って来た。おれの方でも、だいたいは調べてある。おめえは弟の行くえを知っている。きょうは花川戸のお葉のところへも廻って来て、その帰りに丁度おめえにぶつかった。正直に云え。おれの口から云って聞かせることも出来るが、それじゃあおめえのためにならねえ」


 かまをかけられた形になり、お霜は畳へ額をすりつけた。


「恐れ入りましてございます」


「次郎兵衛は、その後でおめえの家へ来たな」


「……はい。二十七日の宵に、忍んで参りました」


「それで、どこへ行った」


「どうしても江戸にはいられない。村へ帰ることも出来ない。相州大磯の在に知りびとがあるから、しばらく身を隠すと申しますので……亭主に内証で、少々の路用を持たせてやりました」


 それを要作に勘づかれたのが、今夜の喧嘩の火種だった。お霜は、弟が可愛い。要作は、巻添えを恐れる。どちらも、理屈としては分かるが、女の胸と男の胸は、同じ秤には乗らない。


「次郎兵衛は、どうしてお葉と懇意になった」


「船のなかで……。川越から江戸へ出る夜船でございます」


 新河岸川の夜船は、川越の者が江戸へ出る道の一つで、夜の間に川を下り、朝に花川戸あたりへ着く。田舎道者や旅商人が混じり合い、船場で買った鮨や饅頭を分け合う。暗い船底では、見ず知らずが急に親しくなることがある。お葉は、川越で娘・お磯の身売りの下見をし、その帰りの船で次郎兵衛と同じになった。若く、在郷者には不似合いなほど目鼻立ちのきりりとした男ぶりが、お葉の目についたのだろう。


 花川戸へ着いても、お葉は次郎兵衛をすぐ放さず、亭主が中気で寝ているのを言い繕って、二日ほど二階に置いた。三日の昼過ぎ、ようよう外へ出た次郎兵衛が、笠を置き忘れた。それが、例の「川越次郎兵衛」と書いた笠だった。


 要作と奉公先のことで衝突し、ふらりと戸沢長屋のお葉を訪ねると、お葉は喜んで迎えた。しかし亭主持ちの家へ長く置くわけにもいかず、近所の女髪結・おきつの二階へ預けた。武家奉公などやめろ、いい口を探してやる――お葉は、そう甘い言葉も口にしたらしい。


 そのうち、江戸城表玄関の天狗騒ぎの噂が立つ。証拠の笠に「川越次郎兵衛」とあると聞いた次郎兵衛は、顔色を変えた。お葉へ詰め寄っても、お葉は知らぬ顔で空とぼけた。だが次郎兵衛は、若さゆえに恐怖だけが膨らむ。湯屋でも髪結床でも噂を聞くたび、身がすくんだ。


 そこへ、お磯の身売り話がまとまり、お葉がふたたび川越へ出た。その留守に、次郎兵衛は逃げ出した。江戸に居れば命が危うい、されど故郷へ戻れば噂が追う。行き場のない男が、姉のお霜から路用をもらって大磯へ消えた――お霜の話は、そこまでであった。


「先日のお調べに、嘘を申しまして……申訳がございません」


 お霜はまた頭を下げた。半七は責めず、ただ一つだけ、声を落として訊いた。


「そのお磯という娘は、次郎兵衛と訳があったのか」


「弟も、はっきり申しませんでしたが……どうも、訳があるようでございます」


 お磯が江戸へ出て来た晩、お葉は次郎兵衛を探してお霜の家へ来た。お霜は、知らぬと突っぱねた。その夜、お磯がひそかに抜け出して来て、吉原へ勤めることになった、もう一度だけ次郎さんに逢わせてくれ、と泣いた。けれど弟の行く先を明かすわけにいかず、お霜は心を鬼にして追い返した。


 話し終えると、お霜は声を押し殺して泣き出した。雨音の向こうで、大川の流れが低く鳴っている。半七は、しばらく黙って煙る川面を見ていた。人が恐れに駆られて走る道と、欲に駆られて仕掛ける道が、一本の笠の文字でからみ合っている。その結び目が、いよいよ今夜、ほどけかけて来たのである。


 半七は、泣き伏すお霜の背へ、手拭をそっと置いてやった。慰め言葉は、こういうときほど役に立たない。女の胸の泥は、拭えば拭うほど広がる。

 半七は階下へ降りると、要作を呼び、酒も出さずに言った。


「亭主。おめえの女房を責めるのは、今夜で終いだ。弟のことは、おれが片をつける。余計な口を利くな。町内にも、よけいな噂を立てるな」


 要作は唇を噛み、ただ何度も頭を下げた。お高も、隠家の女らしく、余計な詫びは言わずに湯を差し出した。


 雨はまだ降っている。半七は亀吉を表へ出し、闇の川端を指で払った。


「亀、今夜は花川戸へ回れ。戸沢長屋のお葉の出入りを見張れ。松五郎の子分だって云う銀六ってのがいるなら、そいつの影も追え」


「お葉に当るんで?」


「当るのは、まだだ。相手は口が達者で、足も早い。先に“胴元”を掴む」


 半七は濡れた髷のしずくを指で切り、ひとり合点していた。城の玄関へ出た乱心者が、町人の若旦那の遊びと繋がる匂い。そこへ女衒の女房が絡む匂い。あとは芸人か、渡世の匂いのする者が一枚噛んでいなければ、縄抜けなど出来るはずがない。

 半七は庄太を思い出した。山谷堀あたりの太鼓持の出入りを洗わせるなら、あいつが向いている。


「……天狗だ旋風だってえ化け物は、結局、人間が作る。人間の腹の中に棲んでるやつだ」


 そう呟いて、半七は雨の町へ出た。次郎兵衛の“消えた二日”は、ようやく居場所を持ちはじめていた。


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