第五章:嘆きの母の物語
「お出で遊ばしませ! まあ、どうぞ、こちらへ!」
格子の外に立った、新しい客。
お亀は、もう何が何だか判らず、うろうろと混乱しながら、その女客を奥へ招じ入れようとした。 ところが、案内を乞うた女は、家の中のただならぬ気配を察してか、少しためらっているらしかった。
「……どうやら、御来客の御様子でござりますな」
「は、はい……あの……」
「では、お邪魔になるようですし、重ねてまいりましょう」
引っ返そうとする、その女を、半七が内から呼び止めた。
「あの、恐れ入りますが! しばらくお控えくださいまし!」
半七は、わざと大きな声で言った。
「ちょうど今、ここに、あなたの『偽物』がまいって居りますので! どうか、御立ち会いの上で、御吟味をねがいとう存じますが!」
「……!」
はじめに来ていた女――撥胝の女――は、いよいよ顔面蒼白になった。 が、彼女は、もう逃げられないと観念したらしかった。
ふっ、と、急に肩の力を抜き、にやにやと笑い出した。
「……あーあ。参ったね」
さっきまでの、凛とした奥女中然とした態度は、どこへやら。
急に、くだけた江戸っ子の口調に変わった。
「親分。お見それ申して、相済みません。さっきから、どうも、ただの親戚にしちゃあ、妙に肝が据わってると思ってやしたが……。おまえさん、もしかして、三河町の親分さんでございましたね?」
「おお。物分かりが早くて助かるよ」
「もう、いけません。敵わねえや。頭巾をぬぎましょう」
半七も、苦笑いした。
「そんなことだろうと思ったぜ。まったく、手の込んだ芝居だ。だが、ちいと詰めが甘かったな」
「どこでバレやした?」
「まず、表の駕籠だ。御大名様のお迎えが、あんな薄汚ねえ『辻駕籠』ってこたあ、いくらなんでも、めずらしい。笑わせるな」
「あちゃあ……」
「とどめは、そいつだ」と、半七は彼女の右手を指す。
「奥女中が、指に三味線の撥胝だ。そんな家風があるもんか。おめえは一体、どこのお座敷から化けて来たんだ? 偽の迎えも、偽の上使も結構だが、役者の腕はいい割にゃあ、舞台装置(=駕籠)が、ちっとも栄えねえじゃねえか」
「どうも、恐れ入りました」
女は、ぺこりと頭を下げた。あっけらかんとしたものだ。
「この芝居は、ちっとむずかしかろうとは思ったんですがね。まあ、度胸でやってみろって気になって、どうにかこうにか、段取りだけは付けてみたんですが……。親分に逢っちゃあ、お仕舞ですよ」
こうなりゃあ、みんな白状してしまいます、と、女はべらべらと喋りだした。
彼女の名は、お俊。
深川で生まれ、母親は長唄の師匠をしていた。
当然、お俊も、母の跡を継がせるつもりで、子供のときからみっちりと長唄を仕込まれた。――だから、小指に撥胝が残っているのだ。
だが、お俊は、肩揚げ(かたあげ)が下りない(=元服前の)うちから男狂いをはじめ、母をさんざん泣かせた。 挙句の果てに、深川の実家を飛び出し、上州から信州、越後へと、旅芸者として流れ渡った。
二、三年前に、久しぶりに江戸に帰ってみると、深川の母は、もうとっくに死んでいた。 それでも、近所には昔の知人も残っているので、彼女はここで、取って返したように長唄の師匠をはじめた。 S 弟子も少しは集まるようになったが、根っからの道楽者だ。とても、おとなしく稽古をつけているだけではいられない。 詰まらない遊び人の男に引っかかっては、金が欲しさに、女を使った美人局まがいのこともやった。湯屋の板の間(=男娼)も稼いだ。とにかく、金のためなら何でもやる、悪党になっていた。
「そのうちに、わたくし、この近所の魚屋から、ふと、あの娘(お蝶)の噂を聞き込んだんでさ」
その魚屋は、お俊が懇意にしている家だった。そして、そこの娘は、お亀とも顔なじみだった。
そこから、噂が漏れたのだ。
「永代橋の茶店の、あのお蝶ちゃんが、ときどき、どこかの怪しい屋敷に連れて行かれて、十日もすると、大金(十両)を持って帰ってくるらしい」
お蝶の器量よしを、かねてから知っていたお俊は、この怪しい「本物」の使いを利用して、娘を横からかっさらおう、という悪い料簡を起した。
つまり、こういうことだ。 (本物の屋敷が、またお蝶をさらいに来るか、あるいは、何かの交渉に来るに違いない。その前に、あたしが「本物の使い」になりすまして、お蝶の身柄を確保する。うまくすれば、本物の屋敷から、身代金がふんだくれるかもしれない)
ふだんから手先に使っている、安蔵というチンピラを侍に仕立て、二、三日前からお亀の家の近所をうろつかせ、様子を窺わせた。
すると、案の定、「けさ、本物の女中が来て、二百両で娘を買い取りたい、という掛け合いに来た」という情報を掴んだ。
「……しめた、と思いましたよ」
お俊は、舌なめずりをした。
「二百両! 本物は、二百両も払う気でいやがる。だったら、その『お迎え』があたしだよ、って顔をして、本物が来る前に、あの娘を連れ出しちまえば……」
お俊が、お亀の前に並べてみせた二百両は、無論、銅脈(=銅のくず)を重しに入れた、真っ赤な偽物だった。
「なにしろ、急仕事の、偽のお迎えでしたからね。ぐずぐずしていると、本物の方が乗り込んで来るかも知れない。だから、無暗に支度を急いだもんですから、肝心の乗物までは手が回らなくってね。飛んだ、唯今のお笑い草となってしまいましたよ」
お俊は、さすがに悪党だけあって、何もかも、思い切りよく、さばさばとしゃべってしまった。
「……それで、みんな判った」
半七は、深くうなずいた。
「おめえも、こんな詰まらねえことで、牢屋に放り込まれちゃあ嬉しくあるめえが、この半七が見た以上は、まさか『御機嫌よろしゅう、はい左様なら』と、見逃すわけには行かねえ。気の毒だが、一緒にそこ(=番屋)まで来て貰おうぜ」
「あーあ。どうも、仕方がありやせんね。まあ、お手柔らかに、いたわっておくんなさいまし」
お俊は、観念して立ち上がった。
「……ですが、親分。こんな、奥女中のなりで、ひっ捕らえられて、表を引き回されるのは、乞食芝居みたいで、どうも格好がつきません。どうぞ、家から、せめて浴衣の一枚でも取り寄せてくだせえ」
半七も、「まあ、それぐれえは」と承知したが、「ここではどうにもならねえ。ともかくも、番屋まで来い」と、お俊を引っ立てて、表へ出ようとした。
その時。
さっきから、入口に、気まずそうに立っていた「二人目」の女が、すっと座敷へ入ってきた。
「……お待ちなさいませ」
静かだが、芯の通った声だった。
この女こそ、お亀が昨日会った、「本物」の御殿風の女だった。
「この儀が、もし表沙汰になりましては……わたくしどもの、御屋敷の御名前にも、かかわります」
女は、半七の前に、すっと手をついた。
「幸い、この女は、事を仕損じて、誰に迷惑がかかったというでもなし。この女の罪は、わたくしの顔に免じて、どうか、ご勘弁を願わしゅう存じます」
本物の使いが、偽物の使いのために、岡っ引きに頭を下げている。
奇妙な図だった。
本物の使いとしては、たとえ偽物であっても、「大名家のお使い」を名乗った女が、岡っ引きに捕らえられた、という噂が立つこと自体が、御家の恥なのだ。 半七は、その苦しい事情を察した。 (……ちっ。面倒なことになりやがった) ここで、この「本物」に恩を売っておくのも、悪くはない。 半七は、無下に跳ねつけることもできなくなった。
彼は、とうとう、お俊を赦してやることに決めた。
「……わかったよ。お女中様の顔を立てましょう。おい、お俊!」
「へい!」
「二度と、こんな真似はするんじゃねえぞ。とっとと失せろ!」
「親分さん! お女中様! どうも、有難うございました! このご恩は……」
「礼なんぞに来なくても好いから! この後、あんまり俺に手数を掛けねえようにしてくれ!」
「はい、はい!」
お俊は、器量を悪くして、ほうほうの体で、すごすごと帰って行った。
これで、偽物の正体はあらわれた。
だが、本物の正体は、やはり判らないままだ。
お亀と半七は、改めて、その「本物」の女――名を、雪野という――と、向き合った。
「……さて。お女中様」
半七が、口火を切った。
「偽物は追い払いやした。が、今度は、あんたがた『本物』さんの、お話を伺おうじゃありませんか」
雪野は、顔を伏せた。
もう、こういう破目になっては、なまじいに包み隠しても仕方があるまい。
おまけに、横から偽物が入り込むほど、こちらの秘密が漏れかけている。
ここで、この腕の立つ岡っ引き(半七)の疑いを深めるのは、かえって、まとまるべき相談も、纏まらなくなる。
雪野は、覚悟を決めたらしかった。
顔をあげ、お亀と半七にむかって、重い口を開いた。
「……お察しの通り、わたくしは、お俊のような偽物ではございません。たしかに、或る御大名の、江戸屋敷にお仕えしております、奥女中でございます」
彼女は、すべての秘密を、正直に打ち明け始めた。
雪野が仕える主筋の殿様は、現在、江戸から北の方にある領地へ帰っている(=参勤交代で在国中)。
だが、奥方様は、無論、人質として、江戸屋敷に残されていた。
その奥方様には、最愛の、それはそれは美しい姫様が、一人いらっしゃった。 容貌も、気立ても、誰もが目を見張るほど、すぐれたお方であった。
「……ですが、その姫様が」
雪野の声が、涙で震えた。
「明けて十七という、今年の春……。疱瘡神に、呪われて……」
「……」
「あっという間に、お亡くなりに……。菩提所の石の下へ、お送り申してしまいました」
最愛の娘を、突然、失った。 あまりの嘆きに、母である奥方様は、取りつかれたように、物狂おしくなってしまった。
「お医者様の薬も、高名なご祈祷も、何の効目もございません。明けても暮れても、ただ姫様の名をお呼びになって、『どうぞ、一度、姫に逢わせてくれ』と、泣き狂うばかり……。わたくしども、屋敷中の者も、持て余しておりました」
その、あまりに痛ましいお姿を見るに堪えかねて、屋敷の用人(=家老)と、老女(=奥向きの最高責任者)が、密かに相談を重ねた。
その末に、一つの策を思いついた。
「……亡き姫様に、よく肖た娘を、どこからか、見つけてきて……」
「……!」
「その娘に、姫様のお召し物を着せ、姫様のお部屋に座らせて……。それを、奥方様に『姫様の魂が戻られた』と、お目にかけたらば……」
「……」
「奥方様のお気も、少しは、鎮まろうか、と……」
とんでもない「替え玉」の計画だった。
だが、そんなことが世間に洩れれば、御屋敷の恥である。
あくまで、秘密裏に、この役目を仕遂げなければならない。
二、三人の者が手分けをして、江戸中の、心当たりを探して歩いた。
その頃の人は、気が長い。そうして、根気よく探しているうちに、用人の一人が、永代橋の、あのお亀の茶店で、図らずも、お蝶を見つけ出した。
(……いた)
年頃も、顔かたちも、物静かな雰囲気も、亡き姫様に、まさに生き写しだった。
用人は、慌てて屋敷へ戻り、奥向きの事情に詳しい雪野(=お亀が昨日会った女)を連れてきて、「眼利き」をさせた。
「……誰の眼も、かわりませんでした。幸か、不幸か……お蝶どのは、合格してしまったのでございます」
いよいよ、その本人が見つかった。
だが、次に、「それをどうやって屋敷へ連れてくるか」ということで、議論が真っ二つに分かれた。
温和な一派は、「ひとの娘を、無得心に連れてくるのは、誘拐も同様だ。内密に、仔細を明かして、頼み込んで、おとなしく連れてくるがよかろう」と主張した。
しかし、強硬な一派は、これに猛反対した。 「なにを言うか。相手は、しょせん、橋のたもとの茶店の女どもだ。いくら口止めをして置いても、果たして、御家の秘密を守り通せるか、頗る不安心である。また、後日になって、『もっと金を』などと、ねだりがましい事を言いかけられても面倒だ。すこし、うしろ暗いやり方ではあるが、いっそ、不意に引っさらってくる方が、無事であろう。何事も、御家の外聞には、かえられぬ!」
結局、この「後」の、強硬な説が、勢力を占めてしまった。
その役目を言いつけられた武士どもは、身分柄にもあるまじき、誘拐同様の所行を、くり返すことになったのである。
「……それほど、苦心した甲斐が、ございました」
雪野は、そっと目を伏せた。
「その計略は、見事に成功いたしました。物狂おしい奥方様は……替え玉の、お蝶どののお姿を……」
お蝶が、机の前に座らされ、本を読んでいた時。
障子の隙間から、じっと、息を詰めて覗いていた視線。あれこそが、奥方様、その人だったのだ。
「奥方様は、死んだ姫の魂が、再びこの世に呼び戻されたものと、思い込んだらしく……。それからは、嘘のように、おとなしくなられました」
「……」
「庭の池を、覗き込んでいた時も、そうでございます。あれも、奥方様が、お庭から、お姿を……」
半七は、息を飲んだ。
「……じゃあ、お女中。まさかとは思うが……。夜中に、寝床へ忍んで来た、『白い影』……。あの『幽霊』ってのは……」
雪野は、こくりと頷いた。
「……それも、奥方様でございます」
「……!」
「おとなしくはなられましたが、やはり、お心は病んだまま……。夜半に、お付きの者の目を盗んで、お寝間着の、白いお召し物のまま、お部屋を抜け出して……」
ただ、一目、娘(と思い込んでいるお蝶)の寝顔が見たい。その一心で、白い蚊帳の外に、ぼうっと、幽霊のように立ち尽くしていたのだ。
「……なんと、まあ……」
半七は、絶句した。
「ですが、それは、一時のことでございました。お蝶どののお姿が、幾日もみえないと、奥方様は、また『姫にあわせろ! 姫はどこへ行った!』と、狂い出されます。さりとて、人の娘御を、際限もなく屋敷に拘禁して置くこともできません……」
十日、お蝶を借りては、奥方様を鎮め、十日、お蝶を帰しては、奥方様が、また狂い出す。屋敷の者も、また、困り果てていた。
「その矢先に、でございます」
雪野は、声を低めた。
「また、一つの、新しい問題が起りました」
それは、この年の七月。
幕府から、新しいお触れが出た。
「諸大名の妻女も、帰国、勝手たるべし」
これまで、人質として、長年、江戸に住むことを余儀なくされていた、諸大名の奥方や子息たち。 その「人質」制度が、事実上、廃止されたのだ。
「どこの藩でも、大喜びでございました。みな、われ先にと、逃げるように、国許へと引きあげてまいります。勿論、このお屋敷でも、奥方様を、一刻も早く、領地へお送り申すことになりました」
だが、そこで、最大の難問が持ち上がった。
「……乱心同様の奥方様が、長い道中、狂い出されたら、どうするか」
「……国許へお帰りになっても、今のありさまであったらば、どうするのか」
それが、家来たちの、胸に横たわる、重い苦労の塊だった。そこで、評議が、また開かれた。
その結論は、一つしかなかった。
「……どうしても、お蝶どのを、遠い国許まで、連れて行くよりほかはない」
そう、帰着した。
「ですが、今度は、十日や二十日の話ではございません。殆んど、永久の問題でございます。さすがに、無得心で、お嬢様をさらうわけにはまいりません」
ともかくも、本人と親許に、きちんと相談の上、「一生奉公」の約束で、二百両という大金を積んで、連れて行くことになった。雪野が、その使いを、うけたまわった。それが、昨日、お亀のもとを訪ねてきた、という次第だった。
「……いっそ、最初から、あからさまに、この事情を打ち明けておりましたら……」
雪野は、深く頭を下げた。
「そちら様も、また、分別のしようがあったやも知れませぬ。それを、ひたすらに『御家の外聞』ということばかり考えておりましたわたくしが、何事も秘密ずくめで相談をまとめようと、焦っておりましたために、こちらの疑いを、いよいよ深くしてしまいました……」
おまけに、横合いから、お俊のような偽の迎えがあらわれたために、事件は、ますます、縺れてしまったのだった。
その、あまりにも哀しい訳を聴いてみると、半七も、さすがに、気の毒になった。 子ゆえに狂う、母の心。 その母を、必死で取り鎮めようと、苦心している家来たちの忠義。 それに対して、岡っ引き風情が、あまりに強いことも言われない破目になった。
三畳間の隠れ家から、いつの間にか、お蝶が、そろりそろりと這い出してきていた。彼女は、話のすべてを聞いていた。
お蝶は、貰い泣きの、真っ赤になった眼を、袖で拭きながら、言った。
「……これで、何もかも、判りました」
彼女は、母である、お亀の前に、静かに座った。
「おっかさん」
「……お蝶」
「わたくしのような者でも、その、お可哀そうな奥方様の、お役に立つというのなら……」
お蝶は、雪野に向き直り、きっぱりと言った。
「どうぞ、わたくしを、そのお国へ、やってくださいまし」
「え……?」
雪野は、信じられない、という顔で、お蝶を見た。
「ほ、ほんとうに……? ほんとうに、承知して、行ってくださるか……?」
雪野は、お蝶の手を取って、まるで拝むかのように、押し頂かないばかりにして、礼を言った。
「ありがたい……。お蝶どの、かたじけない……!」
その時、雲が晴れた。
中天にかかった明月は、南の空へとまわって来て、狭い路地の、薄汚れた長屋の庭から、家のなかまで、わけへだてなく、一ぱいに、明るく、白く、照らし込んだ。




