第一章:小川町屯所の八重桜
読者を焦らすようであるが、ここで私もすこし困った。と云うのは、半七老人も余り多くの酒を飲まないで、女中がもう飯を運んで来た。二人はだまって飯を食ってしまった。そうなると、ここに長居も出来ない。おまけに老人はこれから本所の知人を尋ねると云うので、一緒に付いてゆくことも出来ない。残念ながら髪切りの話はここでひと先ず中止のほかは無かった。わたしは元の富岡門前で老人に別れた。
しかし、半分聞きかけの話をそのままにして置くのは、わたしの性質として何分にも気が済まないので、その明くる晩、寒い風を衝ついて赤坂へ出かけると、老人はすこし感冒の気味だと云うので、宵から早く床にはいっていた。その枕もとで手帳を取り出すわけにも行かないので、わたしは怱々(そうそう)に帰って来た。
それから二日ほど過ぎて、見舞いながら又たずねて行くと、老人はもう起きていたが、今度はあいにく来客である。わたしは又もやむなしく帰った。わたしも歳末は忙がしいので、冬至の朝、門口かどぐちから歳暮の品を差し置いて来ただけで、年内は遂にこの話のつづきを聞くべき機会に恵まれなかった。
あくる年の正月五日の午後、赤坂へ年始まわりに行くと、老いてますます健すこやかな老人は、元気よく新年の挨拶を述べた。それからいつもの雑談に移ると、早くも老人の方から口を切った。
「旧冬、冬木でお話をした歩兵の髪切りの一件……。そのあとをお話し申しましょうかね」
「どうぞお願いします」
私はそれを待ち構えていたのである。老人は例の明快な江戸弁で、殊に今夜は流暢に語り出した。
慶応元年三月二十五日の朝、神田三河町の空は、薄い霞をかぶっていた。春とは言っても、まだ風には冷えが残り、裏長屋の井戸端では、女が手拭で手をこすりながら水を汲んでいる。半七は家を出ると、羽織の衿をすこし立てた。昨夜までの雨が土の匂いを濃くして、往来の下駄の歯が湿った砂を噛む。
小川町の歩兵屯所へ来てくれ、と呼び口があったのは明け方である。歩兵と聞けば、町の者は眉をひそめる。近頃になって公儀が拵えた新しい兵隊で、鉄砲の扱いは立派でも、心持ちはまだ荒く、喧嘩の臭いが抜けない。ましてその歩兵の髷が、二十日ばかりの間に十一人も切られたとあっては、噂が噂を呼ぶのも無理はない。
髷というものは、ただ髪の形ではない。あれを切られるというのは、顔を斬られるよりも堪える、と古い者は言う。侍も町人も、髪は一分の命であった。まして武門の端くれを名乗る歩兵が、寝ている間に髷を抜かれたとあれば、恥は一人の恥に止まらない。だから猿だの狐だの豹だの、口の軽い者は面白がって騒ぐが、屯所の内は笑っていられぬ。
屯所の門前へ行くと、板囲いの内から号令が洩れて来た。土の広場を踏む足音が揃って、鉄砲の金具がかすかに鳴る。門番の目はきびしく、半七の顔を見てからようやく通した。面会所へ案内されると、小隊長の根井善七郎が待っていた。武家とも町方ともつかぬ、あわただしい世の中の顔である。
「面目の立たぬ話でな……」
根井はそう言って、髷切りの始末を語った。夜ごと銃を持たせて見廻りを立て、罠まで仕掛けたが、獣らしい影は一つも掛からない。ところが切られる者は切られる。獣の仕業ではあるまい、となれば、人の仕業である。人の仕業ならばなおさら始末が悪い。歩兵隊はもともと評判がよろしくない。そこへ「寝首を掻かれたも同然」と世間に笑われては、公儀の威光に傷がつく――根井の焦りは、言葉の端にも出ていた。
半七は一礼して言った。
「お役目の面目にかかわるとなれば、あっしらが手を拱いているわけにも参りません。もっとも、屯所の内はお役人方の縄張りでござんす。勝手は出来ませんが、見せていただけるだけ見て、あとは町のほうで嗅ぎ回ってみましょう」
「まず、長屋を見てくれ」
根井の案内で第二小隊の長屋へ入ると、調練の刻限で、小隊の者は皆、練兵所へ出払っていた。広い棟を二つに仕切り、縁なしの琉球畳を敷きつめた床は、まだ新しい藺草の青い匂いがする。琉球畳は縁がないぶん擦り切れにくく、道場や兵の居所に向くと聞くが、なるほど筒袖の裾が引きずられても角が立たぬ。板戸の戸棚には、それぞれの荷物が押し込まれているらしく、木の隙から油紙の端が覗いていた。道場のような伽藍洞で、女の気配も、炊煙の匂いも薄い。ここで夜中に髷を切られた者があるというのが、かえって不気味である。
小さな台所の外に、掘りたてらしい井戸があった。井筒の木は白く、手桶の縁がまだ角ばっている。大きい炊事所は別にあって、当番が炊き出しをして各隊へ回すのだというから、ここは顔を洗う水場に過ぎない。半七は井戸の縁を指でなぞり、土の崩れ具合を見た。罠を掛けたというなら、このあたりが怪しいが、土には人の足跡も獣の爪も、判然とは残っていない。わざと跡を消すほどの手際でやったのか、あるいは最初から、ここを通らずに済む手口なのか。
長屋の周囲を一巡すると、根井がふと、裏手の一角を指した。
その当時の内神田は、いまのように町家が並ぶところではなく、神保町も猿楽町も小川町も、大小の武家屋敷が占めていた。歩兵屯所も、土屋采女正と稲葉長門守の屋敷を取払って、そこへ新しい長屋と練兵の広場を拵えたのである。だが、全部を更地にしたわけではない。庭の形ばかり残った一角があり、井戸のそばには築山が残っていた。
築山は一年あまりのうちに荒れに荒れ、六、七本の立ち木が伸び放題で、その下は枯葉が積もっている。そのなかに八重桜の大樹が、今を盛りと咲き乱れていた。花は重たげに枝を撓ませ、淡い日差しが花弁の間を透いて、影が地にまだらに落ちる。風流に疎い半七でも、思わず見上げるほどであった。花の匂いにまじって、湿った土と枯葉の匂いが立ち、庭というよりは捨て置かれた林のようでもある。獣が潜むなら、まさにこういう場所だろう。
「よく咲きましたな」
「むむ、よく咲いた。伐るのも惜しいのでこうして置くが……こんな殺風景の場所で咲いても、桜も張合いがあるまい」
根井が苦笑すると、半七も口の端だけで笑った。花の下で髷を切る者がいるとしたら、それは獣よりも人間のほうが似合う。半七の胸のうちに、そんな思いがふっと湧いたが、まだ口には出さない。疑いは口に出した途端に、相手の耳へも届く。探索はまず、相手に油断させておくのがよい。
二人は面会所へ戻り、夜番の具合や、切られた者の名など、手短かな打合せをした。半七が門を出ると、ひとりの若い女が門番と立ち話をしている。小料理屋の女中、お房であった。湯島天神下の藤屋で、顔を合わせることの多い女である。
「おい、お房。こんなところで何をしてやがる」
「あら、三河町の親分さん。よいお天気で結構でございますね」
「番人と内証話か。馴染でも出来たかえ」
「ええ……少し用があって。これで三度も足を運ぶんですけれど、埒があかなくって」
お房は眉を寄せて愚痴をこぼした。正月のはじめに、馴染の歩兵が四人連れで飲みに来て、帰り際に勘定を貸してくれと言った。相手が歩兵では無下に断れず、お房が「大丈夫」と請け合った手前、帳場からは催促して来いと叱られる。ところが屯所へ来ても、調練だ、外出だと追い返されて、いっこうに顔を出さない。
「茶袋も、口をそろえると大したもんだな」
「笑いごとじゃありませんよ。第二小隊の人たちは割合におとなしいって聞いていたのに」
「第二小隊……その四人、名はなんてえ」
「鮎川さん、三沢さん、野村さん、伊丹さんです」
鮎川。半七はその名を聞いて、眉の奥がわずかに動いた。髷を二度も切られた男の名である。半七は自分の髷を指でつまむ真似をして言った。
「ほかの連中は知らねえが、その鮎川って男は、おめえの藤屋へ顔を出すわけがねえ。えてものに、ちょん切られた口だからな」
「あら……それじゃあ鮎川さんも……まあ」
お房は驚いて半七の顔を見上げた。門の内では、号令がまたひとつ高くなり、土を踏む音が春の空気を震わせた。半七は屯所の板囲いを一度振り返った。桜の花の重さと、髷の軽さ――その取り合わせが、どうにも胸に引っ掛かる。髷を切る手は、恨みの手か、遊びの手か。それとも金の匂いを嗅いだ手か。
半七は懐の煙草入れを押さえ、歩き出した。まず鮎川丈次郎という男の素性と、藤屋の勘定の始末、その二つから糸口が出るような気がしていた。




