第四章:二人の使いの夜
「そりゃあ、心配だろうよ」
半七は、腕を組んだ。
これは、ただの「かどわかし」ではない。色恋沙汰でもない。
二百両という大金が動く。相手は、間違いなく大身の武家屋敷だ。それも、旗本か、あるいは御大名か。
「今の話の様子じゃあ、相手はとんでもねえお屋敷だ。だが、なぜそんな回りくどいことをするんだろうな。茶店の娘だって、よほどの器量ぞろいなら、大名の御部屋様(=側室)になれねえとも限らねえが、それならそれで、もっと堂々と、召し抱えの相談があってもよさそうなもんだが……」
十日間だけ借りて、一日一両払って返す。
夜中に幽霊が出る。
今度は、二百両で「音信不通」で買い取りたい、と来る。
「どうも、理屈が呑み込めねえな」
半七は、首をひねるしかなかった。
「それによ、お亀さん。一番厄介なのは、肝心のお蝶坊――つまり『玉』が、向こうに捕られちまってるってことだ。これじゃあ、こっちからどうこう言う手立てがねえ。おまけに、その屋敷が江戸のどこにあるのかも、さっぱり判らねえんじゃ、手の着けようがねえ」
「困ったもんだ」と半七に腕を組まれては、お亀はいよいよ頼るもののない、心細い顔をするばかりだ。
「娘が……娘が、このまま、これっきり帰って来ませんようだったら、わたくし、どうしましょう……」 彼女は、何度も水にくぐったらしい、くたびれた銚子縮の袖で、目元をぐいと拭いた。
半七も、ため息をついた。
「……だが、まあ、そう泣くなよ。その御殿風の女とかいうのが、いずれ『一日二日』のうちに、また返事を催促しに来るんだろう」
「は、はい……」
「よし。わかった。そいつが来たら、ともかくも俺が行って、おめえさんの親戚のフリでもして、それとなく様子を見てやるよ。その上で、また何か、うまい知恵も浮かぶかもしれねえ」
半七は、そう言って、お亀を慰めるしかなかった。
「まあ! 親分が、直々にいらして下さいますか!?」
お亀の顔が、ぱっと明るくなった。
「親分がいてくだされば、わたくし、どれほど気丈夫だか判りません。では、まことに勝手ながら、あしたにも、ちょいとお出でを願いとうございます……!」
お亀は、何度も何度も念を押して、頼み込んで帰っていった。
あくる日は、八月十五日。
昨日の心配が嘘のように、空はからりと晴れ渡り、高い空には秋風が吹いていた。朝早くから、「すすきー、お月見のすすきー」と、薄を売る声が表通りから聞こえてくる。
半七は、午前のうちに溜まっていた他の用事をさっさと片付けると、八ツ(やつ)(午後二時)頃から、お亀の家をたずねた。
お亀の家は、浜町河岸に近い、薄暗い路地の奥にあった。入口の八百屋の店先にも、お供え用の薄や枝豆がたくさん積まれている。近所にある大きな武家屋敷の塀の中から、秋の蝉が、最後の力を振り絞るように鳴いていた。
「ごめんよ」
「おや、親分さん! まあ、ようこそ! どうも、恐れ入りました」
お亀は、まさに待ち兼ねていた、というように、半七を慌てて迎え入れた。
「早速でございますが、親分! 娘が……!」
「どうした! まさか、何かあったか!?」
「いえ、その逆で! 娘が、ゆうべ、戻ってまいりまして!」
「……なに?」
拍子抜けする半七。
お亀が言うには、ゆうべ、お亀が半七の家へ相談に行っている、ちょうどその留守の間に、お蝶はいつもの通りの乗物に乗せられて、河岸の石置き場まで送りかえされていたのだという。
「……詳しいことは、阿母さんに話してある。おまえも、家へ一度帰って、よく相談をして来るがよい」
屋敷の、あの御殿風の女から、そう言い聞かされて、帰されたのだそうだ。
(なるほどな……)
半七は、感心した。
二百両という大金で娘を買い取る、という大事な話だ。それなのに、本人(お蝶)も親(お亀)も不在では、話が進まない。
こういう場合に、人質にしている本人を「相談してこい」と素直に帰してよこすというのは、いかにも物の判った、筋の通ったやり方だ。
(少なくとも、相手に悪意はねえ。殺したり、ひどい目に遭わせたりするつもりはねえってことだ)
半七が奥の三畳間を覗くと、気疲れでぐったりとしたお蝶が、うとうとと眠っていた。
「お蝶、お蝶。起きておくれ」
お亀に呼び起こさせた半七は、お蝶本人から、さらに詳しい話を聴き取った。だが、やはり、屋敷の場所や、何のためにあんなことをさせられたのか、確かな見当はつかなかった。お蝶の話から推測するに、どうも然るべき大名家の下屋敷であるらしい、ということぐらいだった。
「まあ、本人も無事に戻ったこった。よかったじゃねえか」
「ですが、親分。けさ来たあの女中様が、きっと今夜あたり、また返事を求めてまいります。どうしたら……」
「決まってる。俺もここに居残るよ」
半七は、どっかりと腰を下ろした。
「今に、誰か来るだろう。まあ、待っていてみようじゃねえか」
この頃の日は、ずいぶんと短くなっている。
夕六ツ(ゆうむつ)(午後六時)の鐘を聞かないうちに、狭い長屋の隅々は、もう薄暗くなった。 お亀は、神棚から下ろした神酒徳利や、買ってきた月見団子、薄などを、小さな縁側に持ち出して、月見の準備を始めた。
その薄の葉をわたる夕風が、ひやりと肌に染みる。
帷子一枚だった半七は、思わず腕をさすった。
「ちいと、冷えてきたな……」
それ以上に、腹が減ってきた。殊に、もう夕飯の時分だ。半七は、お亀に「すまねえが」と頼んで、近所の鰻屋から、鰻の蒲焼きを取ってもらった。
「お、こりゃあいい匂いだ」
自分一人で食うわけにもいかないので、お亀とお蝶の母娘にも無理やり相伴させた。緊張で箸が進まない二人を尻目に、半七は「こういう時は、腹を据えなきゃいけねえ」と、美味そうに鰻を平らげた。
飯を食い終わり、半七は楊枝を使いながら、縁先に出た。
狭い路地に、重なり合った庇と庇のあいだから、海のように碧い大空が、不規則な形に切り取られて見える。月は、まだその空の上にはかかっていなかった。だが、東の方の雲の裾が、うす黄色く輝いている。今夜の明月は、さぞ見事だろうと、思いやられた。
露は、いつの間にか降りているらしい。もう盛りを過ぎて、邪魔物のように庭先に放り出されている二鉢の朝顔の、その枯れた葉が、月光を待たずに、薄白くきらきらと光っていた。
「おーおー、いい晩だ。お亀さん、お蝶坊。みんな出て拝みなせえ。もうじき、お月様があがるぜ」
半七が、のんきにそう声をかけた、その途端だった。
……カラン、コロン……。
路地の溝板を踏む、堅い足音がした。一人の男が、ここの格子の前に、すっくと立った。 お亀が、びくっとして、すぐに出てみる。
そこには、見慣れない侍姿の男が立っていた。
男は、お亀とお蝶の母娘が家にいることを確かめると、低い声で、こう告げた。
「……ただ今、お女中様が、お迎えにお見えになられる。ご準備めされい」
「来たな!」
半七は、慌てて草履をつかんだ。
「お亀さん! 俺はいない積りにして置いてくれ! お蝶坊! おめえもだ!」
半七は、お蝶の手を引き、奥の三畳間へとかくれた。そうして、ぴしゃりと襖を閉め、その隙間から、息を殺して、表の様子をそっと窺った。
やがて、しずしずと入ってきたのは、三十歳前後に見える、やはり奥勤めらしい、キリリとした女だった。 (……ん?) 半七は、首を傾げた。お亀から聞いていた「御殿風の女」にしては、少し、雰囲気が違う気がした。
「初めて、お目にかかります」
女は、お亀にむかって、事務的に、しかし丁寧に挨拶した。お亀は、すっかり呑まれて、おどおどしながら、かろうじて挨拶を返していた。
「早速でございますが」
女は、切り口上で言った。
「こちらの娘、お蝶どのの身の上につきましては、昨日、わたくしどもの屋敷の者(※お亀が会った女のこと)が参りまして、詳しいお話をいたしました筈。親御も、ご得心なされましたか? であらば、今夜からすぐに、お屋敷へお越し下さるようにと、わたくしが、お迎えにまいりました」
有無を言わさぬ、鋭い口調だ。
お亀は、その威に打たれたらしく、ただもじもじしていて、はっきりとした返事ができない。
「……今さら、ご不承知と申されては、わたくしどもの役目が立ちませぬ。まげて、ご承知くださるように、重ねておねがい申します」
「あ、あの……」
お亀は、しどろもどろに言い訳を探した。
「あ、娘は、ゆうべ帰りまして……。それから、なんだか気分が悪いとか申しまして、きょうも一日、臥せって居りますので……。まだ、ろくろくに、相談いたす暇もございませんで……」
お亀が、一寸した遁れの口上で、なんとかこの場を切り抜けるつもりらしいのを、相手はぴしゃりと遮った。
「いえ、それはなりませぬ!」
女は、嵩にかかって、また言った。
「篤とご相談くださるようにと、昨夜、わざわざお嬢様をお戻し差し上げましたものを。いま以て、何のご相談もない、とは……。それは、こちらの志を無にしたような、あんまりな仕打ち。それでは、わたくしも、おめおめと引き取るわけにはまいりませぬ」
女は、厳しい目で、お亀を睨みつけた。
「娘御を、ここへお呼び出しください。わたくしと、三つ鼎で、あらためてご相談いたしましょう。さあ、お蝶どのを、すぐこれへ!」
凛とした声で、そうきめ付けられて、お亀はいよいよ、うろたえるばかりだった。女は、ふ、と息をつくと、懐から袱紗に包んできた、重そうな包みを取り出した。うす暗い行燈の前に、それを二つ、並べる。
「お約束の、御手当ては二百両。封のまま、ただ今、お渡し申します」
金包みが、ずしりと重い音を立てた。
「さあ、どうぞ、娘御をこれへ」
「は、はひ……」
お亀は、もはや生きた心地もしない。
「……あくまでも、ご不承知と仰せか」
女の目が、すうっと細められた。
「お役目、首尾よく相勤めませねば……」
女は、帯のあいだから、袋に入れた、懐剣のようなものを、するりと取り出して見せた。
「わたくし、この場で自害でもいたさねば、相成りませぬ」
「ひっ……!」
その鋭い瞳の光に射られて、お亀は蒼くなって、ガタガタと震え出した。掛け合いは、もう「手詰め」になってきた。
(……芝居がかってやがるな) 襖の隙間から見ていた半七は、そう思った。彼は、小声で、隣に隠れているお蝶に訊ねた。
「おい、お蝶坊。あの女、おめえ、識ってるか? 屋敷にいた女か?」
お蝶は、怯えながらも、無言でふるふると首を振った。 (……やっぱりか)
半七は、すこし考えていたが、やがて、すっくと立ち上がった。
お蝶に「ここにいろ」と目配せすると、三畳間から音を立てぬように台所へと這い出し、裏口からそっと表へ抜けた。
路地の外は、煌々(こうこう)と月が明るかった。角から四、五軒先の、質屋の土蔵の前。 そこに、一挺の駕籠が下ろされていた。傍らには、二人の駕籠舁と、さっきの侍らしい男が、手持ち無沙汰に立っている。
半七は、その駕籠をじっと検めた。
(……ほう)
大名屋敷のお迎えにしては、ずいぶんとみすぼらしい。
漆塗りでもなければ、家紋もない。ただの、そこらへんの辻で拾う「辻駕籠」だ。
(……なるほど。そういうことか)
半七は、それを見届けると、今度は、表の格子から、堂々と入ってきた。
そして、震えているお亀の隣、驚いて目を見開く女の真正面に、どっかりと座った。
「……どなた様で?」
女が、鋭く訊ねた。
「御免くださいまし」
半七は、何食わぬ顔で、にこやかに挨拶した。
女は、黙って、鷹揚に会釈を返す。
「わたくしは、このお亀の親戚の者でございますが」
半七は、芝居がかった口調で続けた。
「うけたまわりますれば、こちらの娘を、ぜひともご所望とか申すことで。なにぶんにも、婿取りの一人娘でございますれば、手放すのは辛うございますが……」
お亀は、「お、親分……?」と、びっくりして半七の顔を見ている。
「まあ、それほどまでにご所望と仰しゃるからには、御奉公に差し上げまいものでもございません」
半七がそう言うと、女の顔が、わずかに緩んだ。
「勿論、あなた様の方にも、いろいろの御都合もございましょうが、こちらも親として、筋は通しとうございます。いくら『音信不通』のお約束とはいえ、せめて、御奉公にあがるお屋敷様の、御名前だけでも伺って置きたいと存じますのが、こりゃあ親の人情というものでございます。どうぞ、それだけは、お明かし下さいましたら……」
半七が、そう切り込むと、女は、待ってましたとばかりに答えた。
「折角でありますが、御屋敷の名は、ここでは申されません。ただ、中国筋の、ある御大名と申すだけのことで……」
「ほう。では、失礼ながら、あなた様のお勤めは?」
「……表使を、勤めて居ります」
「左様でございますか」
半七は、にこり、と微笑んだ。
「では、まことに申しにくうございますが、この御相談、きっぱりと、お断わり申しとう存じます」
「……なに?」
女の眼が、じろりと光った。
「なぜ、ご不承知と申されますか!」
「いやなに。失礼ながら、その御屋敷の御家風が、どうも、わたくし、少し気に入りませんので」
「異なことを……!」
女は、思わず膝を立て直し、声を荒らげた。
「御屋敷の家風を、どうして、お前のような者がご存じか!」
半七は、もう笑いを隠さなかった。
彼は、女の、畳についた右手を、ちらりと指差した。
「なに。奥勤めの御女中様の、その右の小指に……」
「……?」
「三味線の『撥胝』があるようでは、御奥も、定めて紊れて居りましょうと存じましてね」
女の顔色が、さあっ、と急に変わった。彼女は、慌てて右手を引っ込めた。
「……っ!」
「ごめんくださいませ。たのみます!」
その、気まずい沈黙を破るように。格子の外で、今度は、別の、澄んだ女の声が響いた。




