表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/173

第四章:二人の使いの夜


「そりゃあ、心配だろうよ」


 半七は、腕を組んだ。

 これは、ただの「かどわかし」ではない。色恋沙汰でもない。

 二百両という大金が動く。相手は、間違いなく大身たいしんの武家屋敷だ。それも、旗本はたもとか、あるいは御大名か。


「今の話の様子じゃあ、相手はとんでもねえお屋敷だ。だが、なぜそんな回りくどいことをするんだろうな。茶店の娘だって、よほどの器量ぞろいなら、大名の御部屋様おへやさま(=側室)になれねえとも限らねえが、それならそれで、もっと堂々と、召し抱えの相談があってもよさそうなもんだが……」


 十日間だけ借りて、一日一両払って返す。

 夜中に幽霊が出る。

 今度は、二百両で「音信不通」で買い取りたい、と来る。


「どうも、理屈が呑み込めねえな」


 半七は、首をひねるしかなかった。


「それによ、お亀さん。一番厄介なのは、肝心のお蝶坊――つまり『玉』が、向こうに捕られちまってるってことだ。これじゃあ、こっちからどうこう言う手立てがねえ。おまけに、その屋敷が江戸のどこにあるのかも、さっぱり判らねえんじゃ、手の着けようがねえ」


「困ったもんだ」と半七に腕を組まれては、お亀はいよいよ頼るもののない、心細い顔をするばかりだ。


「娘が……娘が、このまま、これっきり帰って来ませんようだったら、わたくし、どうしましょう……」  彼女は、何度も水にくぐったらしい、くたびれた銚子縮ちょうしちぢみの袖で、目元をぐいと拭いた。


 半七も、ため息をついた。


「……だが、まあ、そう泣くなよ。その御殿風の女とかいうのが、いずれ『一日二日』のうちに、また返事を催促しに来るんだろう」


「は、はい……」


「よし。わかった。そいつが来たら、ともかくも俺が行って、おめえさんの親戚のフリでもして、それとなく様子を見てやるよ。その上で、また何か、うまい知恵も浮かぶかもしれねえ」


 半七は、そう言って、お亀を慰めるしかなかった。


「まあ! 親分が、直々にいらして下さいますか!?」


 お亀の顔が、ぱっと明るくなった。


「親分がいてくだされば、わたくし、どれほど気丈夫だか判りません。では、まことに勝手ながら、あしたにも、ちょいとお出でを願いとうございます……!」


 お亀は、何度も何度も念を押して、頼み込んで帰っていった。


 あくる日は、八月十五日。

 昨日の心配が嘘のように、空はからりと晴れ渡り、高い空には秋風が吹いていた。朝早くから、「すすきー、お月見のすすきー」と、薄を売る声が表通りから聞こえてくる。


 半七は、午前ひるまえのうちに溜まっていた他の用事をさっさと片付けると、八ツ(やつ)(午後二時)頃から、お亀の家をたずねた。


 お亀の家は、浜町河岸に近い、薄暗い路地ろじの奥にあった。入口の八百屋の店先にも、お供え用の薄や枝豆がたくさん積まれている。近所にある大きな武家屋敷の塀の中から、秋の蝉が、最後の力を振り絞るように鳴いていた。


「ごめんよ」


「おや、親分さん! まあ、ようこそ! どうも、恐れ入りました」


 お亀は、まさに待ち兼ねていた、というように、半七を慌てて迎え入れた。


「早速でございますが、親分! 娘が……!」


「どうした! まさか、何かあったか!?」


「いえ、その逆で! 娘が、ゆうべ、戻ってまいりまして!」


「……なに?」


 拍子抜けする半七。

 お亀が言うには、ゆうべ、お亀が半七の家へ相談に行っている、ちょうどその留守の間に、お蝶はいつもの通りの乗物に乗せられて、河岸の石置き場まで送りかえされていたのだという。


「……詳しいことは、阿母おっかさんに話してある。おまえも、家へ一度帰って、よく相談をして来るがよい」


 屋敷の、あの御殿風の女から、そう言い聞かされて、帰されたのだそうだ。


(なるほどな……)


 半七は、感心した。

 二百両という大金で娘を買い取る、という大事な話だ。それなのに、本人(お蝶)も親(お亀)も不在では、話が進まない。

 こういう場合に、人質にしている本人を「相談してこい」と素直に帰してよこすというのは、いかにも物の判った、筋の通ったやり方だ。


(少なくとも、相手に悪意はねえ。殺したり、ひどい目に遭わせたりするつもりはねえってことだ)


 半七が奥の三畳間を覗くと、気疲れでぐったりとしたお蝶が、うとうとと眠っていた。


「お蝶、お蝶。起きておくれ」


 お亀に呼び起こさせた半七は、お蝶本人から、さらに詳しい話を聴き取った。だが、やはり、屋敷の場所や、何のためにあんなことをさせられたのか、確かな見当はつかなかった。お蝶の話から推測するに、どうも然るべき大名家の下屋敷しもやしきであるらしい、ということぐらいだった。


「まあ、本人も無事に戻ったこった。よかったじゃねえか」


「ですが、親分。けさ来たあの女中様が、きっと今夜あたり、また返事を求めてまいります。どうしたら……」


「決まってる。俺もここに居残るよ」


 半七は、どっかりと腰を下ろした。


「今に、誰か来るだろう。まあ、待っていてみようじゃねえか」


 この頃の日は、ずいぶんと短くなっている。


 夕六ツ(ゆうむつ)(午後六時)の鐘を聞かないうちに、狭い長屋の隅々は、もう薄暗くなった。  お亀は、神棚から下ろした神酒みき徳利どっくりや、買ってきた月見団子、薄などを、小さな縁側に持ち出して、月見の準備を始めた。

 その薄の葉をわたる夕風が、ひやりと肌に染みる。

 帷子かたびら一枚だった半七は、思わず腕をさすった。


「ちいと、冷えてきたな……」


 それ以上に、腹が減ってきた。殊に、もう夕飯の時分だ。半七は、お亀に「すまねえが」と頼んで、近所のうなぎ屋から、鰻の蒲焼きを取ってもらった。


「お、こりゃあいい匂いだ」

自分一人で食うわけにもいかないので、お亀とお蝶の母娘おやこにも無理やり相伴しょうばんさせた。緊張で箸が進まない二人を尻目に、半七は「こういう時は、腹を据えなきゃいけねえ」と、美味そうに鰻を平らげた。


 飯を食い終わり、半七は楊枝ようじを使いながら、縁先に出た。

 狭い路地ろじに、重なり合ったひさしと庇のあいだから、海のようにあおい大空が、不規則な形に切り取られて見える。月は、まだその空の上にはかかっていなかった。だが、東の方の雲のすそが、うす黄色く輝いている。今夜の明月は、さぞ見事だろうと、思いやられた。


 露は、いつの間にか降りているらしい。もう盛りを過ぎて、邪魔物のように庭先に放り出されている二鉢の朝顔の、その枯れた葉が、月光を待たずに、薄白くきらきらと光っていた。


「おーおー、いい晩だ。お亀さん、お蝶坊。みんな出て拝みなせえ。もうじき、お月様があがるぜ」


 半七が、のんきにそう声をかけた、その途端だった。


 ……カラン、コロン……。


 路地の溝板みぞいたを踏む、堅い足音がした。一人の男が、ここの格子の前に、すっくと立った。  お亀が、びくっとして、すぐに出てみる。


 そこには、見慣れない侍姿の男が立っていた。

 男は、お亀とお蝶の母娘が家にいることを確かめると、低い声で、こう告げた。


「……ただ今、お女中様が、お迎えにお見えになられる。ご準備めされい」


「来たな!」


 半七は、慌てて草履ぞうりをつかんだ。


「お亀さん! 俺はいない積りにして置いてくれ! お蝶坊! おめえもだ!」


 半七は、お蝶の手を引き、奥の三畳間へとかくれた。そうして、ぴしゃりとふすまを閉め、その隙間から、息を殺して、表の様子をそっと窺った。


 やがて、しずしずと入ってきたのは、三十歳みそじ前後に見える、やはり奥勤めらしい、キリリとした女だった。 (……ん?)  半七は、首を傾げた。お亀から聞いていた「御殿風の女」にしては、少し、雰囲気が違う気がした。


「初めて、お目にかかります」


 女は、お亀にむかって、事務的に、しかし丁寧に挨拶した。お亀は、すっかり呑まれて、おどおどしながら、かろうじて挨拶を返していた。


「早速でございますが」


 女は、切り口上で言った。


「こちらの娘、お蝶どのの身の上につきましては、昨日さくじつ、わたくしどもの屋敷の者(※お亀が会った女のこと)が参りまして、詳しいお話をいたしました筈。親御おやごも、ご得心とくしんなされましたか? であらば、今夜からすぐに、お屋敷へお越し下さるようにと、わたくしが、お迎えにまいりました」


 有無を言わさぬ、鋭い口調だ。

 お亀は、そのに打たれたらしく、ただもじもじしていて、はっきりとした返事ができない。


「……今さら、ご不承知と申されては、わたくしどもの役目が立ちませぬ。まげて、ご承知くださるように、重ねておねがい申します」


「あ、あの……」


 お亀は、しどろもどろに言い訳を探した。


「あ、娘は、ゆうべ帰りまして……。それから、なんだか気分が悪いとか申しまして、きょうも一日、せって居りますので……。まだ、ろくろくに、相談いたすいとまもございませんで……」


 お亀が、一寸ちょっとしたのがれの口上で、なんとかこの場を切り抜けるつもりらしいのを、相手はぴしゃりと遮った。


「いえ、それはなりませぬ!」


 女は、かさにかかって、また言った。


とくとご相談くださるようにと、昨夜、わざわざお嬢様をお戻し差し上げましたものを。いまて、何のご相談もない、とは……。それは、こちらの志を無にしたような、あんまりな仕打ち。それでは、わたくしも、おめおめと引き取るわけにはまいりませぬ」


 女は、厳しい目で、お亀を睨みつけた。


「娘御を、ここへお呼び出しください。わたくしと、三つみつがなえで、あらためてご相談いたしましょう。さあ、お蝶どのを、すぐこれへ!」


 りんとした声で、そうきめ付けられて、お亀はいよいよ、うろたえるばかりだった。女は、ふ、と息をつくと、懐から袱紗ふくさに包んできた、重そうな包みを取り出した。うす暗い行燈あんどんの前に、それを二つ、並べる。


「お約束の、御手当ては二百両。ふうのまま、ただ今、お渡し申します」


 金包みが、ずしりと重い音を立てた。


「さあ、どうぞ、娘御をこれへ」


「は、はひ……」


 お亀は、もはや生きた心地もしない。


「……あくまでも、ご不承知と仰せか」


 女の目が、すうっと細められた。


「お役目、首尾よく相勤あいつとめませねば……」


 女は、帯のあいだから、袋に入れた、懐剣かいけんのようなものを、するりと取り出して見せた。


「わたくし、この場で自害でもいたさねば、相成りませぬ」


「ひっ……!」


 その鋭い瞳の光に射られて、お亀は蒼くなって、ガタガタと震え出した。掛け合いは、もう「手詰め」になってきた。


(……芝居がかってやがるな)  襖の隙間から見ていた半七は、そう思った。彼は、小声で、隣に隠れているお蝶に訊ねた。


「おい、お蝶坊。あの女、おめえ、ってるか? 屋敷にいた女か?」


 お蝶は、怯えながらも、無言でふるふると首を振った。 (……やっぱりか)


 半七は、すこし考えていたが、やがて、すっくと立ち上がった。

 お蝶に「ここにいろ」と目配せすると、三畳間から音を立てぬように台所みずぐちへと這い出し、裏口からそっと表へ抜けた。


 路地の外は、煌々(こうこう)と月が明るかった。角から四、五軒先の、質屋の土蔵の前。  そこに、一挺いっちょう駕籠かごが下ろされていた。傍らには、二人の駕籠舁かごかきと、さっきの侍らしい男が、手持ち無沙汰に立っている。


 半七は、その駕籠をじっとあらためた。

(……ほう)

 大名屋敷のお迎えにしては、ずいぶんとみすぼらしい。

 漆塗りでもなければ、家紋もない。ただの、そこらへんのつじで拾う「辻駕籠」だ。


(……なるほど。そういうことか)


 半七は、それを見届けると、今度は、表の格子から、堂々と入ってきた。

 そして、震えているお亀の隣、驚いて目を見開く女の真正面まともに、どっかりと座った。


「……どなた様で?」


 女が、鋭く訊ねた。


「御免くださいまし」


 半七は、何食わぬ顔で、にこやかに挨拶した。

 女は、黙って、鷹揚おうよう会釈えしゃくを返す。


「わたくしは、このお亀の親戚みよりの者でございますが」


 半七は、芝居がかった口調で続けた。


「うけたまわりますれば、こちらの娘を、ぜひともご所望とか申すことで。なにぶんにも、婿取りの一人娘でございますれば、手放すのは辛うございますが……」


 お亀は、「お、親分……?」と、びっくりして半七の顔を見ている。


「まあ、それほどまでにご所望と仰しゃるからには、御奉公に差し上げまいものでもございません」


 半七がそう言うと、女の顔が、わずかに緩んだ。


「勿論、あなた様の方にも、いろいろの御都合もございましょうが、こちらも親として、筋は通しとうございます。いくら『音信不通』のお約束とはいえ、せめて、御奉公にあがるお屋敷様の、御名前だけでも伺って置きたいと存じますのが、こりゃあ親の人情というものでございます。どうぞ、それだけは、お明かし下さいましたら……」


 半七が、そう切り込むと、女は、待ってましたとばかりに答えた。


折角せっかくでありますが、御屋敷の名は、ここでは申されません。ただ、中国筋の、ある御大名と申すだけのことで……」


「ほう。では、失礼ながら、あなた様のお勤めは?」


「……表使おもてづかいを、勤めて居ります」


「左様でございますか」


 半七は、にこり、と微笑ほほえんだ。


「では、まことに申しにくうございますが、この御相談、きっぱりと、お断わり申しとう存じます」


「……なに?」


 女の眼が、じろりと光った。


「なぜ、ご不承知と申されますか!」


「いやなに。失礼ながら、その御屋敷の御家風ごかふうが、どうも、わたくし、少し気に入りませんので」


なことを……!」


 女は、思わずひざを立て直し、声を荒らげた。


「御屋敷の家風を、どうして、お前のような者がご存じか!」


 半七は、もう笑いを隠さなかった。

 彼は、女の、畳についた右手を、ちらりと指差した。


「なに。奥勤めの御女中様の、その右の小指に……」


「……?」


「三味線の『撥胝ばちだこ』があるようでは、御奥おおおくも、定めてみだれて居りましょうと存じましてね」


 女の顔色が、さあっ、と急に変わった。彼女は、慌てて右手を引っ込めた。


「……っ!」


「ごめんくださいませ。たのみます!」


 その、気まずい沈黙を破るように。格子の外で、今度は、別の、澄んだ女の声が響いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ