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第四章:女仇討の脇差

 権田原の枯れ芒が、暗い風にざわざわ鳴っていた。


 半七と斬り手は、もつれたまま二、三尺の崩れ穴へ落ち込んだ。土は湿って、指が潜る。穴の底は、夜の冷えが溜まっていて、息を吸うと喉が痛い。相手は刀を捨てたとはいえ腕の力があり、肩口へ噛みつくように組み付いて来る。半七は胸の中で舌打ちし、相手の肘を外へ折るように絡めた。岡っ引きは、抜身よりも手捕りで飯を食う。刃が無いところへ引きずり込めば、勝負は半分こちらへ傾く。


「おめえ、暴れるな」


 闇の底で、半七の声だけが乾いて響いた。相手は返事をしない。ただ、獣じみた息が近い。半七は膝で相手の腿を押さえ、体の芯を潰した。相手が怯んだ隙に、袂に潜ませてある手縄の端を探り当て、指に巻き付ける。穴の口では、投げ出された提灯の残り火が、ほたるのように一度ちらりと光って消えた。


 藤助が穴の縁から覗き込み、震える声で叫んだ。


「親分、どうします。どうしたら……」


「黙っていろ。逃げるなよ」


 半七は、相手の手首を取り、土へ叩きつけるようにして縄を廻した。男は呻いたが、そこから先の抵抗が続かない。侍の手練れなら、闇でもっと骨が折れるはずである。半七は、その弱さにひとつ首をひねった。


 縄が食い込むと、男はようやく声を出した。


「……待ってくれ。殺さねえでくれ」


「殺しゃしねえ。だが、逃げたら殺すぞ」


 半七は穴の壁へ肩を押しつけ、藤助に命じた。


「藤助。そこらに落ちてる刀を拾って、芒の陰へ投げ捨てろ。それから、縄を引け。穴から上げる」


「は、はい……」


 藤助の足音が草を分ける。金属の冷えた音がして、刀が遠くへ放られたのが判った。つづいて縄がぴんと張る。半七は捕り手を先に立たせ、首根っこを摑んで穴の口へ押し上げた。男は土まみれになって這い出し、月の無い空を仰いで喘いだ。


 穴から出たところで、半七は改めて男の身体をまさぐった。袂に小さな紙入れがあり、薄汚れた守り袋がある。武家の者が持つような、古い結び方であった。


「名は」


「……伊沢千右衛門」


 男は即座に言った。嘘を吐く舌の軽さである。


「その名で六道の辻へ名乗ったのか」


 男の眼が、一瞬だけ泳いだ。半七は確信した。こいつが、昼の騒ぎの浪人者である。


 そこへ、芒の向こうから弱い呻き声がする。為吉がまだ生きている。半七は藤助へ目を向けた。


「為吉を抱えろ。辻番へ運ぶ。おめえも手伝え」


「で、でも……」


「口答えするな。こっちの縄を握れ。逃げたら、まずおめえが怪しいぞ」


 藤助は顔色を変え、ためらいながらも縄を摑んだ。


 辻番所へ着く頃には、夜はもう更けていた。番所の行燈の油の匂いが、やけに温かく感じられる。為吉は板の上へ寝かされ、脈を取られた。傷は深くないが血が悪い。医者が呼ばれ、焼いた酒の匂いが漂った。


 半七は捕り手を土間へ座らせ、番所の役人の前で改めて詮議にかけた。男はなおも伊沢だ何だと突っぱねたが、嘘は長く続かない。六道の辻での口上、逃げ込んだ竹藪の位置、刀の振りが町人離れしていること。ひとつひとつを突き付けられて、男の肩が落ちた。


「……野口武助だ」


 吐き捨てるように言った。名が出た瞬間、番所の者の顔が強張る。半七だけは静かに頷いた。


「さて。武助。おめえの仇討は、講釈通りじゃねえな」


 武助は唇を噛み、少し黙った。それから、濁った声で語り出した。


 武助の親は武右衛門といい、屋敷の金蔵番を勤めていた。金蔵番というのは、言ってみれば主家の財布の口である。鍵の重みひとつで家が潰れ、命が飛ぶ。そこへ放蕩息子が付け込んだ。武助は同藩の森山郡兵衛と組み、親の鍵を盗み、五百両を抜いて出奔した。五百両といえば、町人の暮らしなら家が何軒も立つ。侍の家なら、一門が十年二十年は息をつける大金である。


 案の定、親の武右衛門は切腹させられた。武助はそれを知りながら、戻る気も無かったという。しかも、逃げる途中で郡兵衛が金を持ち逃げし、武助を撒いて消えた。武助は訴えることも出来ず、飢えと怒りだけを腹へ溜めて江戸へ出、浪人ごろつきへ落ちた。


「……それで」


 半七が促す。


「五年目だ。六道の辻で、測らずにそいつを見付けた」


 郡兵衛は、旗本屋敷の若党へ潜り込み、貰い物のような暮らしをしていた。子供の土産に柿を買い、懐に二両ほどを忍ばせていたという。給金取りの若党が持つには妙な金である。悪い銭は身に着かず、というやつだ。


「盗賊、見付けたぞ……。そう言やあ、辻の連中も信じる。だから斬った」


「名乗りは」


「……出たらめだ。板倉だの伊沢だの、講釈を並べて……辻番をごまかして藪へ潜った」


 半七は、その一件が胸の中で、ひとつの形を持ち始めるのを感じた。昼の血刀と、夜の拐し。筋が違うようでいて、どこか似た臭いがある。人の心の底で腐った欲と怨みが、同じように匂うのだ。


 番所を出ると、風が一段と冷たい。半七は庄太の不在を思い出し、歯噛みした。権田原心中の二人を送っている。戻るまでの間に、次の手を打たねばならない。


 半七は、藤助を伴って千駄ヶ谷谷町の下総屋へ向かった。夜更けの米屋は静まり返り、米糠の匂いだけが生々しい。主人の茂兵衛は疝癪の差し込みで動けぬ、と言っていたが、病人の家にしては灯が落ち着かない。奥の気配が、妙に忙しないのである。


 半七は格子の外から、店の者の顔ぶれを呼び出した。銀八がいない。熊吉も見えない。かわりに利太郎が、鼠のような眼でこちらを窺う。半七は、わざと軽く言った。


「おめえの旦那はどこだ。疝癪なら薬を持って来てやろう」


 利太郎は舌をもつらせ、曖昧に首を振った。半七は、その曖昧さを見逃さなかった。病というのは口実である。今夜の榛の木の下へ、茂兵衛が出るはずだったという藤助の口。世間に知られると迷惑するという言葉。迷惑するのは、米屋の看板の方だ。


 半七の頭に、八年前の話がすっと差した。金右衛門は深川にいた頃の茂兵衛の家へ泊まり、女房のお稲が親切に世話を焼いたという。従妹同士の情であるか、男の邪推であるかは判らない。だが、邪推ひとつで人は鬼になる。女は死に、男は怨みだけを生かす。


 半七は踵を返した。狙う場所は、もうひとつあった。


 あの化物屋敷である。


 空屋敷には、幽霊よりも人の足跡がある。赤い櫛が落ち、男と女の踏み跡が残っていた。米糠の臭いが薄く漂ったのを、半七は覚えている。米屋の糠が、なぜ空屋敷にあるのか。答えはひとつしかない。


 半七は夜の道を急ぎながら、袖の中で指を握りしめた。


 救うべき女は二人いる。おさんと、お種。だが、まだ手の届くところに居るのは、どちらだ。榛の木の下の取引が本当なら、お種は今この夜も、どこかで縛られている。


 半七は、暗がりの中で自分に言い聞かせるように呟いた。


「女仇討なんぞ、芝居だけにしときゃいいものを」


 風がすすきを鳴らし、権田原の闇が、またひとつ息をついた。


 半七は藤助を連れ、いったん辻番所へ引き返した。番所の行燈が夜目にやけに明るい。油の匂いが鼻を刺し、畳の上の温みが、かえって胸を焦らせた。半七は役人へ短く言い置いた。

「今夜のうちに、もう一つ片を付けます。二人ばかり、足の利くのを貸してもらいてえ」

 役人は顔色を変えたが、半七の目を見て黙って頷いた。棒手振りのような若い番人を二人つけ、半七は提灯を受け取って外へ出た。藤助の足は頼りないが、逃げ道を知る者は逃げ道へ戻る。半七はそれを利用する気でいた。


 化物屋敷へ着くと、門の傾きがいよいよひどく見える。枯れた生垣が風に鳴り、家の奥は闇が腐ったように黒い。半七は提灯の火を小さく絞り、土間へすべり込んだ。糠の匂いが、夜の湿りに溶けて、昼より濃い。そこに、かすかな息づかいがまじっている。


 半七は番人へ指で合図し、藤助の襟首を掴んだ。

「藤助。おめえは、ここで声を出すな。出したら、縄で縛って口を塞ぐ」

「へ、へえ……」

「よし。あっしが入る。二人は裏へ廻って、窓と木戸を見張れ。鼠一匹でも逃がすな」


 半七は板の間へ上がり、雨戸の隙間から中を覗いた。奥の六畳ほどの座敷に、豆油の匂いが立っている。小さな行灯がひとつ、畳の上に置かれ、その明かりに、男の背中が浮いていた。米俵から抜いたような袋を抱え、何かを置いて立ち上がろうとする。女の呻き声が、押入れの奥から漏れた。


 半七は、戸口を開ける音も立てずに踏み込んだ。

「動くな」

 男が振り返った。銀八である。顔の色が一瞬で土気色になり、手が懐へ走る。半七はその腕を叩き落とし、腹へ体当たりを食らわせた。畳の上をころがる音が闇に鈍く響き、行灯がぐらりと揺れて、火がぱちぱち鳴った。


「てめえ……!」

「声を出すな。出しゃ、ここで喉を潰す」

 半七の声は低く、凍った刃のようであった。銀八は呻きながら身をよじったが、岡っ引きの膝が脇腹へ食い込み、息が詰まる。半七は袂から手縄を引き出し、あっという間に腕へ廻した。縄が締まると、銀八の抵抗が急に弱くなった。悪党の骨は、案外こんなものである。


 半七は押入れへ目を向けた。

「……中にいるのは誰だ」

 返事は、泣き声であった。

「助けて……」

 半七は押入れの襖を開け、闇の奥へ手を差し入れた。女の指が、恐る恐るそれを掴む。冷たい指である。次に、もう一つ、震える手が半七の袖へ縋った。畳の上へ引きずり出されて来たのは、髪の乱れた二人の娘だった。おさんと、お種である。赤い櫛が、おさんの襟元から転げ落ちた。


「大丈夫だ。もう泣くな」

 半七は言いながら、喉の奥が熱くなるのを感じた。女の涙は、時に刀よりも人を刺す。娘たちは声も出ぬほど震え、ただ畳に額を擦りつけた。


 そのとき、裏手で板が鳴った。見張りの番人が、低く咳払いをする。誰かが逃げようとしたのであろう。半七は銀八の首根っこを掴み、土間へ引きずり下ろした。

「裏へ回ったのは誰だ」

「……し、知らねえ……」

「知らねえなら、知らねえでいい。だが、おめえの旦那は下総屋だ。茂兵衛だろう」

 銀八の目が泳いだ。それが答えであった。


 半七は番人へ命じた。

「この二人を辻番所へ先に連れて行け。毛布でも何でも掛けてやれ。女は寒さで死ぬ。藤助、おめえも付け」

 藤助は涙をこぼしながら頷いた。娘たちは提灯の明かりに守られるように立ち上がり、ふらふらと外へ出て行く。


 半七は、化物屋敷の闇を振り返った。

「……あとは総大将だ」

 風が屋敷の柱を鳴らし、腐った闇が、ようやく息を吐いたように見えた。

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