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第三章:権田原の榛の木

 半七と庄太は、二人連れの影を見え隠れに追った。


 為吉は肩をすぼめ、胸の中へ手を入れたまま、黙って俯いて歩いている。藤助は少し前を行き、提灯を提げていた。米屋の者なら店の名のある提灯を持つものだが、今夜のそれは無印である。提灯の輪が闇に溶け、灯だけがふらふらと草の上を舐めるように動く。半七は、その灯の頼りなさに、かえって胸をざらりとさせた。


「庄太」


 半七は声を殺し、子分の耳へひとこと囁いた。庄太が頷く。二人は足の運びをさらに軽くした。


 権田原は、まだ江戸の外れの匂いを残している。広い原で、冬草が枯れ切らず、芒の穂が白く膨れて波を打つ。その間に細い溝川が走り、泥の冷えた臭いが立つ。月はないが、宵は澄み、星が青白い砂のように無数に散っていた。風が吹きおろすたび、草がざあざあと鳴り、跫音を盗むには都合がよかった。


 やがて、原のまん中に大きな榛の木が闇の柱のように立っているのが見えた。何百年ぶんの雨風を知っているような太さで、夜目にも枝ぶりがわかる。為吉と藤助は、そこを目あてに細道を急いでいるらしかった。


 榛の木が近づいた、そのときである。帛を裂くような女の悲鳴が、闇を突き破った。


「人殺し……!」


 つづいて男の叫ぶ声。草を転がるような足音が迫り、闇のかたまりが二つ、こちらへ逃げて来る。庄太は反射のように身をかわそうとしたが、男の影が突っこんで来て、胸へぶつかった。女の影は半七の足もとに崩れ、土の冷たさに手をついた。榛の木の下では、男の笑う声が、獣のように低く響いた。


 半七は倒れた女の襟首を摑み、立たせながら振り向いた。為吉と藤助は不意の出来事に呆け、しばらく立ち停まっている。半七は手を伸ばした。


「おい。その提灯、貸してもらいてえ」


 藤助が躊躇する。庄太が苛立って怒鳴った。


「下総屋の奉公人だろ。早く持って来い」


 名を呼ばれて藤助も逃げ場がなくなり、提灯を持って寄った。灯に照らされて現れたのは、二十一二の町人風の若い男と、内藤新宿あたりの女郎らしい女である。女は白粉が汗で崩れ、鬢の油の匂いが冷えた風に混じった。口紅が乾いて、唇だけが赤い。


「駈落ちか」


 庄太が吐き捨てるように言った。男は歯を鳴らし、榛の木の方を指さす。


「向こうから不意に出て来て……斬るぞって……」


 半七は提灯をひったくるように取り、榛の木の下へ駆けた。だが、そこにはもう影ひとつない。脅した者は、面倒と見て早くも草の闇へ潜ったらしい。


 半七は舌打ちし、二人を榛の木の下へ招き寄せた。御用聞きの顔を見せるのが一番早い。


「よし。あっしは三河町の半七だ。腹の内を偽るな。おめえたちはどこの誰だ」


 御用聞きと名乗られて、二人は縮みあがった。抱えの女を連れ出せば、話の筋次第で拐しになる。拐しは重い。江戸の夜の色恋は、薄紙一枚で牢の底へ落ちる。


 男は代々木の多聞院門前に住む経師屋の倅、徳次郎という。女は内藤新宿の甲州屋の駈け女、お若。思うようにならぬ恋に追い詰められ、二人はこの榛の木を死に場所と決めて忍んで来た――そう言いながら、徳次郎は唇を噛み、泣くとも笑うともつかぬ顔をした。


 死ぬ覚悟で来たところへ、「斬るぞ」と脅される。死に馴れぬ者ほど、その言葉に生がよみがえる。二人は悲鳴をあげ、転げるように逃げて来たという。


 半七は一つ頷き、声をやわらげた。


「死んじゃあいけねえ。今夜は帰れ。あっしが係り合ったからには、甲州屋へ話も付けてやらあ。庄太、悪いがこの二人を甲州屋へ送り届けろ。無事に帰さねえと、あとが厄介になる」


「だが親分、こっちは……」


「こっちは何とかする。ぐずぐず言うな」


 庄太は歯ぎしりし、二人を追い立てるように連れ出した。お若は振り向き、榛の木を一度見たが、もう死神に手を引かれる顔ではない。徳次郎の肩は震え、恋よりも命の重さを思い知ったようであった。


 半七は残った。


 為吉と藤助は、まだ榛の木の影に立ち尽くしている。半七は提灯を振り向け、二人を照らした。灯が揺れ、芒の穂が白く光る。その瞬間、為吉が鋭い悲鳴をあげて倒れた。


 半七ははっとして目を凝らす。抜身を引っさげた影が、芒を掻き分け、一散に闇へ逃げた。追っても間に合わぬ。半七は逃げる影を諦め、突っ立っている藤助の腕を摑んだ。


「どうするんでございます。親分」


 藤助の声は上ずっている。半七は腕を捻じあげ、冷たく言った。


「どうするもこうするもねえ。白状しろ。貴様、今夜この為吉を殺らすつもりで連れ出したんじゃねえのか」


「飛んでもねえ……! わたしは旦那の言いつけで……この木の下に待っている人があるから、ここへ案内しろと……」


「待っている人ってのは誰だ」


「知りません。逢えば判ると……」


 半七は藤助の泣き声を聞きながら、手の力を少しゆるめた。腕一本で折れるような弱さがある。これは芝居か、本当に骨がないのか。見定めかねる隙に、藤助は草の上へぐたぐたと坐り込んだ。


 そして、震える舌で言い立てた。お種が湯屋帰りに見えなくなり、米屋の主人が朝から探し歩き、居場所が知れたのだという。だが相手が悪く、ただでは返さぬ。拐しで訴えれば取返せるかもしれぬが、その間に女の身に間違いがあれば終いだ。災難と諦め、金で無事に引き取るのがよい――そう主人が決め、相手の言い値の十両を六両まで負けさせて来た。為吉と金右衛門は胴巻きまで搔き集めても足りず、残りは主人が足す。今夜この榛の木の下で、六両と引き換えにお種を受け取る手はずであった、と。


「主人はなぜ一緒に来ねえ」


「夕方から疝癪の差し込みで身動きが出来ねえと……。それで代わりにわたしが……」


「無印の提灯を持って来たのは」


「世間に知られると迷惑するから、店の印のないのを持てと……」


 半七は藤助の言葉を腹に落とした。迷惑するのは誰だ。世間に知られて困るのは、拐しの側か、それとも米屋か。半七の胸の底で、糠の匂いがふたたびむわりと立った。化物屋敷の押入れで嗅いだ、あの湿った糠の匂いである。


「よし」


 半七は提灯を下げ、倒れた為吉へ手を伸ばした。


「手伝え。こいつを運ぶぞ。血の匂いで狼が寄る」


 そのとき、枯れ芒ががさがさと鳴った。


 風ではない。半七が屹と振り返るより早く、何者かが斬りかかって来た。半七は身を躱し、刃の手もとへ踏み込んだ。提灯は投げ出され、灯が一息で消え、闇が噛みつく。刀を振り回す場所がなくなり、相手は得物を捨てて組みついた。だが岡っ引きは手捕りに馴れている。半七の腕が相手の肘を絡め、身体の芯を崩しにかかる。


 草の冷たさが頬を打つ。足もとがふっと空になった。野原には、誰が掘ったとも知れぬ崩れ穴がある。二人はもつれたまま滑り、二、三尺ほどの穴へ落ち込んだ。


 闇の底で、相手の息が近い。


 半七は歯を食いしばり、相手の肩口へ腕を巻き付けた。ここで離せば、すべてが霧になる。榛の木の上で、星がなお青く光っているのが、穴の口に切れて見えた。



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