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第一章:影を隠す娘


 話は、幕末もいよいよ騒がしくなってきた文久二年(一八六二年)に遡る。八月十四日の夕方のことだ。


 この頃、神田三河町で岡っ引きとしてそこそこ名も売れ始めていた半七は、いつもより少し早く見回りを終え、自宅の長屋へ戻ってきた。


「さてと。さっさと湯でも浴びて、飯食って……今夜は近所の無尽むじんだったな」


 無尽というのは、今でいうところの相互扶助の金融講みたいなもので、要はご近所の飲み会(プラスちょっとした金勘定)の口実だ。半七がそんな算段をしていると、格子の外でか細い声がした。


「ごめんくださいまし……。親分、いらっしゃいますか?」


 ひょいと顔を上げた半七の目に映ったのは、小さい丸髷まるまげに結った、四十がらみの女だった。身なりは質素だが清潔そうで、しかし、その顔には苦労という二文字が深く刻み込まれている。


「おお、お亀さんじゃねえか。どうしたんだい、そんな改まって。久しぶりだな」


 半七は土間に降りて、女を座敷に上げる。お亀は、永代橋のたもとで小さな茶店を出している女主人だった。


「親分。どうもご無沙汰をいたしております。いつもご機嫌麗しゅう、何よりでございます」 「堅苦しい挨拶はいいってんだ。それより、どうした? 店は繁盛してるか? お蝶坊も、もういい新造しんぞうさんになっただろう。あの子は器量よしでおとなしいから、親孝行してるだろう?」


 半七がそう言うと、お亀の顔がさっと曇った。その美しい額に、一層深い皺が寄る。


「……いえ。実は、親分。その……お蝶のことに就きまして、今晩はお邪魔つかまつりましたのでございます」


 お亀の声が、不安に震えている。


「どうも、わたくしどもの手に余りまして……。思案に暮れて、親分のお知恵を拝借しとう存じます」


 その必死の形相を見て、半七も大体の察しはつけた。


 お亀の一人娘、お蝶は、今年で十七。その美貌は界隈かいわいでもちょっとした評判だった。派手さはないが、しっとりとした色気があり、少し寡言むくちで伏し目がちなところが、かえって男たちの心をそそる。お亀にとっても、自慢の娘だった。


 その娘についての、思案に余るほどの悩み。


(ふーん。なるほどね)


 半七の口元が、思わずニヤリと緩む。

「なんだい、お亀さん。察しはついたぜ。自慢のお蝶坊が、何か『こしらえた』ってわけだろ? 親よりも大事な男でも見つけて、世話を焼かせてる。そんなところじゃねえか?」


 岡っ引きのところへ泣きついてくる茶店の母親。絵に描いたような痴話喧嘩ちわげんかか、娘の駆け落ち相談だ。


「まあまあ、ちっとぐらいのことは大目に見てやりなよ。若い盛りだ。面白いこともなけりゃあ、稼ぐ張り合いもねえってもんだ。お亀さんだって、若い頃には覚えがあるだろ? あんまりやかましく言うもんじゃねえよ」


 半七が笑い飛ばそうとすると、お亀は莞爾にこりともせず、血の気の引いた顔で半七をじっと見つめ返した。


「……いいえ」

「え?」

「親分。いいえ……。そんな、色男おとこでもこしらえたとかいうような、浮いたお話では……。そんなことでしたら、おっしゃる通り、わたくしも鬼じゃありません、大目にも見ましょう。ですが……」


 お亀は、ぎゅっと膝の上の手を握りしめた。


「どうも、それが……まことに、困りますので。当人も、ただただ震えて泣いておりますような、そんな訳で……」


「おかしな話だな。一体、どうしたって言うんだ?」


「……娘が」


「うん」


「娘が、ときどき……影を隠しますので」


 影を隠す。つまり、姿を消す、ということだ。

 半七は、まだ笑いを引っ込めていなかった。


「だから、それが男だって……」


「違います!」


 お亀が、珍しく声を張り上げた。


「それが、色恋沙汰いろこいざたとは、まるで訳が違いますので! ……どうか、どうか、お聞きくださいまし」


 あまりの剣幕に、半七もようやく団扇を置き、居住まいを正した。


「……わかったよ。順を追って話してごらん」


 お亀の話は、にわかには信じがたいものだった。


 ことの発端は、今から三月みつきほど前、五月の川開きの少し前だったという。  ある日の午後、一人のお供だけを連れた、いかにも身分の高そうな、立派な侍が、お亀の店の前を通りかかった。そして、店先で茶を運んでいたお蝶の姿にふと目を留めると、吸い寄せられるようにふらふらと店に入ってきた。


「まあ、立派なご武家様でございました。お茶を一杯差し上げますと、しばらく休んで、お蝶のことをじっと見ておりましたが、やがてお茶代だと言って、一朱いっしゅもの大金を置いてお行きになりました」


 一朱。茶一杯にしては破格の祝儀だ。


「それから三日ほど経ちますと、そのお武家が、またお見えになりました。今度は、三十五、六ぐらいの、それはそれは品のよい、御殿風の女の方とご一緒でございました。ご夫婦、という感じではございませんでしたが……」


 その御殿風の女は、お蝶にいろいろと話しかけたという。


「おまえさんの名は?」

「年はいくつかね?」

「手習いはしているか?」


   お蝶が素直に答えると、女は満足そうに頷き、やはり一朱を置いて、侍と共に去って行った。


「てっきり、どこぞのお屋敷からお声がかかるのかと、わたくしも少し期待しておりました。ところが、でございます」


 お亀は声をひそめた。


「それから、また三日ばかり経ちますと……お蝶の姿が、ぷっつりと見えなくなったんでございます」


「むむ……」


 半七の顔から、さしもの余裕も消えた。 (人さらい、か……? それも、身分のある侍や女に化けて、か。手の込んだ「かどわかし」だ)


「娘は、それっきり帰ってこねえのか?」


「いいえ!」


 お亀は、ぶんぶんと首を横に振った。


「それから十日とおかほど経ちまして……夕方の薄暗い時分に、真っ蒼な顔をして、ふらふらと帰ってまいりました」


「十日……。で、どこで何を?」


「わたくしも、ほっとして仔細を訊ねました。しますと、娘が言うには……」


 お蝶が姿を消した日も、夕方の薄暗い時分だった。  お亀が店じまいを始め、お蝶に「先へ帰っておいで」と告げた。茶店から自宅の長屋までは、ほんの数丁の距離だ。  お蝶がいつものように浜町河岸はまちょうがしの石置き場(資材置き場)の影を通りかかった、その時。


「数人の男が飛び出してきまして、いきなりお蝶の口に猿轡さるぐつわをはめ、両手を縛り、目隠しをして……」


 お蝶は抵抗する間もなかった。  男たちは、お蝶をそこにあった乗物のりもの――おそらくは駕籠かごだろう――の中へ無理やり押し込んだ。


「娘も、何が何だか、夢中で揺られて行ったそうでございます。それから、どこの道をどう行ったのか、どれくらいの時間が経ったのか……。遠いのか近いのか、ちっとも覚えていないと申します」


 やがて乗物が止まり、引きずり出された。

 目隠しをされたまま、いくつもの廊下を歩かされ、奥まった座敷へ通された。


「そこでようやく、目隠しと猿轡を外され、手の縄も解かれたそうでございます。見れば、三、四人の女中が周りを取り囲んでおり……やがて、あの、店に来た御殿風の女が現れた、と」


 女は、怯えて縮こまっているお蝶に、優しく微笑みかけたという。


「『さぞ、びっくりしたであろう。すまぬことをした。だが、決して案じることはない。怖いこともない。ただ、おとなしく、わたくし達の言う通りにしていてくれれば、それでよいのじゃ』」


 そう言って、いたわるように、茶や菓子を持ってこさせた。 「まずは、風呂へおはいり」  女中たちに促されるまま、お蝶は夢遊病者のように湯殿へ連れて行かれた。



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