エピローグ:猿芝居の役者
「……と、まあ、こういう訳でさぁ、先生」
半七老人は、お茶を一口すすった。
「これが宮本武蔵か何かだったら、『狒々(ひひ)退治』とか言って、芝居や講釈で、ちったあ名高くなったんでしょうがね。あっしと権太の『猿退治』じゃあ、絵にもなりやせん」 老人は、可笑しそうに笑った。
「その猿を、自身番へ引き摺って行くと、まあ、町内の大騒ぎ。みんなびっくり仰天して、総出で見物に来ましたよ」
「……しかし、半七さん…親分さん……」と僕は訊いた。 「どうして、それが猿だと見当をつけたんです?」
「ああ、そいつですかい」 老人は、膝を打った。 「そりゃあ、先生、あっしが最初にあの町内へ行って、火の見梯子をあらためた時ですよ」
「あの梯子に、人間のものじゃねえ、獣の爪の跡が、びっしりと残ってたんでさ。
どうも、猫の爪にしては深すぎるし、犬が登れる高さでもねえ。
(こいつは、猿公の悪戯じゃねえか)
と、ふいと思い付いたんでさ。
そう思って話を聞き直しゃあ、何もかも腑に落ちる。
囲い者(お北)の傘の上に飛び付いて、傘を破り、重しになって、ついでに髷を掴む。
物干しの、ひらひらする赤い着物(印判屋)に興味を持って、攫って屋根の上を逃げ回る。
引窓から覗き込んで(印判屋の『光る眼』)、天井裏でごとごと騒ぐ。
どう考えても、こりゃあ猿公の仕業でさ。
そこで、その猿公がどこに隠れているか。
あっしは、最初、あの路地の奥の、稲荷の社だろうと見当を付けたんですが、そいつは、ちっと外れやした。
多分、最初のうちは、あの社の奥に隠れて、お供物なんぞを盗み食いしてたんでしょう。
それが、だんだん増長して、町内へ出てきて、いろいろの悪戯を始めた。
そのうちに、お北の家が空家になったもんだから、雨風しのぎやすい、そっちへ『巣替え』をして、またまた悪さを続けた……。
そういう寸法だったんでしょう」
「……なるほど。では、お北さんや、後に越してきた人が『頭を掴まれた』というのも……」
「ええ。それも、あの猿公でしょう。
あっしらが入った時、あの空家の障子は、内側からビリビリに破られてやした。
つまり、あの猿公は、天井裏かどこかに潜んでいて、人間が寝静まると、あの障子の破れ目から座敷へ忍び込んできた。
そして、寝ている人間の、ふさふさした髷を見つけて、仲間(猿)の毛繕でもするつもりだったのか、あるいは単なる悪戯か……。
とにかく、それを引っ掴んで、引き摺り出そうとしたんでしょう。
そりゃあ、寝てるところを猿に頭を掴まれた日にゃあ、生きた心地はしやせんわな」
「では……半鐘が鳴ったのは?」
「それも、もちろん猿公です。火の見梯子の爪跡が、何よりの証拠でさ。 それに、撞木がねえのに鳴った、ってえのが、かえって決め手になりやした。 人間なら、あのデカい撞木がなけりゃあ、そうそう鳴らせるもんじゃねえ。 だが、猿なら、身軽に半鐘の真下へぶら下がって、そこらに落ちてる石ころか何かで、カンカン叩くことだってできまさぁ。 (半鐘が鳴る)んじゃなく、(半鐘を叩く)音が響いたんでしょうよ」
僕は、そこで、もう一つの疑問を口にした。
「……ですが、半七さん。それじゃあ、煙草屋のお咲さんや、自身番の佐兵衛さん、番太郎のお倉さんを襲ったのは?」
半七老人は、声を潜めて、にやりと笑った。
「……先生は、お目が高い。
ええ。そいつは、猿公じゃねえんでさ」
「やっぱり……権太郎の?」
「そういうことでさ」と、老人は頷いた。
「可哀そうなのは権太郎で、ふだんの悪戯が祟りをなして、飛んだひどい目に遭いやした。
だが、そのことで、権太の兄貴が、弟の無実の仕返しに走った。
あっしが権太を問い詰めたら、洗いざらい白状しやしたよ。
もちろん、その話は、あっしの胸先三寸に納めて、誰にも言いやせん。
なにもかも、『みんな、あの猿公の悪戯だった』ってことにしてしまいましてね。
そっちの方が、町内のためにも、権太のためにもなりますから」
「……権太郎は、その後どうなったんですか?」
「へえ。あの『化け物(猿)』を退治した、ってんで、町内の人たちからもすっかり見直されましてね。
悪戯もぱったりと止めて、真面目に仕事に精を出すようになり、とうとう、一人前の立派な鍛冶職人になりやしたよ。
ま、一件落着、ってやつでさぁ」
「……して、その猿は、一体どこから来たんです?」
僕は、一番の好奇心にかられて、そう訊ねた。
すると、半七老人は、今夜一番の笑顔を見せた。
「それが、傑作なんでさ。
あの猿公はね、調べがついたら、なんと、両国の『猿芝居』一座の、役者だったんでさ」
「えっ、役者?」
「へえ。そいつがどういう訳か、小屋を逃げ出して、どこの屋根を伝ったか、縁の下をくぐったか、あの町内へまぐれ込んで来て、とうとう、あんな大騒ぎを仕出来しちまったんでさぁ。
で、だんだん調べてみると、こいつは『女形』で、十八番の出し物が、あの『八百屋お七』だったってんですから!」
「……八百屋お七!」 僕は、思わず声を上げた。 火の見櫓に登り、恋人に会いたい一心で放火の半鐘(実際は太鼓だが)を鳴らした、あの……。
「ねえ、面白いじゃありやせんか」
老人は、腹を抱えて笑っている。
「ふだんから、芝居で火の見櫓のセットに駆け上がって、『打てば打たるる櫓の太鼓』か何か、やってたもんだから。
同じ悪戯をするにしても、本物の火の見梯子へ、すいすいと駈けあがって、あの半鐘を、芝居のつもりでジャンジャン打ち付けたと見える。
いやはや、猿公に、芝居がかりで悪戯をされちゃあ、江戸の町人も、たまったもんじゃありやせんや。
あっはっはっは!」
老人の快活な笑い声が、冷たい時雨の降る、静かな座敷に響いた。
「あっしも長年の間、いろいろな捕物をしやしたがね、先生。 猿公にお縄をかけたのは、後にも先にも、この一件ばかり。 飛んだお笑い草でさぁ」
「……その猿は、結局どうなったんですか」と、僕は、その後の顛末を訊ねた。
「へえ。飼主は、監督不行き届きで一貫文の科料。
猿公は、『世間を騒がせた』という罪で、なんと、遠島になりやした」
「えっ、猿が、遠島!?」
「ええ。永代橋の袂から、ちゃんと遠島船に乗せられて、八丈島へ送られやしたよ。
まあ、奴にしてみりゃあ、芝居小屋なんぞで窮屈な思いをしてるより、いっそ島へ行って、野放しにされた方が、よっぽど仕合わせだったかも知れやせん。
畜生のことですもの。島の役人だって、厳重に縛って置いたりするもんですか。
きっと、どこかへおっぽなして、今頃は、島の猿の大将にでもなってるかも知れやせんね」
猿の、遠島――。
こんな珍妙な話を聴かされて、僕は、今日もわざわざこの老人の元をたずねて来た甲斐があったと、心から思ったのだった。




