第六章:真犯人、二人/第七章:猿、捕物
往来へ転がる蜜柑の数も、だんだんと減ってきた。
あれほど群がっていた子供たちの影も、鍛冶屋の店先から散っていく。
「じゃあ、ちと呼んできやす」
家主が、権太郎を呼びに立った。
半七は、煙管を取り出し、煙草をぷかりとふかしながら、表を眺めていた。
壁土のような色の空は、さっきよりも低く垂れ込め、魔物のような黒い雲が、この町の上を忙しそうに通り過ぎていく。
海鼠売りの、寒々とした声が聞こえた。
「こら、権! 半七親分がお呼びだ。おとなしく御挨拶しろ!」
家主に首根っこを掴まれ、権太郎が渋々といった体で番屋に引きずられてきた。
今日は鞴祭りのせいか、権太郎はいつもの真っ黒な仕事着ではなく、小ざっぱりとした双子縞の着物に着替えている。
顔も、あまり煤けてはいなかった。
「おめえが、権太郎というのか」
半七は、静かに訊いた。
「……おう」
権太郎は、まだふてくされたように、横を向いている。
「親方は、今、何をしてる」 「これから、お祝いの酒が始まるんだ」 「それじゃあ、差当たり、お前に用事もあるめえな。今日は蜜柑まきで、お前も蜜柑を貰ったか」
そう訊くと、権太郎は、少しだけ得意そうに、袂を重そうにぶらぶらと振ってみせた。 「……十個ばかり貰った」
「そうか、そりゃあ良かったな」 半七は、すっくと立ち上がった。 「なにしろ、ここじゃあ話もできねえ。……家主さん、ちとこの餓鬼、借りていきやすぜ」
「へ? あ、へい」
「権太、ちと裏の空き地まで来てくれ」
「……なんだよ」
「いいから、来い」
半七は、権太郎を促して表へ出た。
その途端、空から、バラバラバラッ!と、白いものが降ってきた。
「あ、降ってきやがった」
霰だった。
「まあ、大したこともあるめえ。さあ、すぐに来い」
半七は、例の路地へと入っていく。
権太郎は、不思議に思いながらも、おとなしく付いてきた。
半七は、稲荷の社の前の空き地に立った。
霰が、二人の肩を白く叩く。
「おい、権太」
半七は、低い、有無を言わさぬ声で言った。
「お前、まったく、あの半鐘を撞いたことはねえか。正直に言え」
「……知らねえよ。おいらじゃねえ」
権太郎は、平気な顔で答えた。
「印判屋の干物(着物)に、悪戯をした覚えもねえか」
権太郎は、同じように頭をふった。
「この裏にいた妾(お北)を、脅かしたことがあるか」
権太郎は、やはり「知らない」と言った。
半七は、じっと権太郎の目を見た。
その目に、嘘の色は見えない。
(……ふむ。こいつは、シロだ)
半七は、不意に話題を変えた。
「権太。お前には、兄弟か、仲のよい友達があるか」
「……!」
権太郎の肩が、ピクリと震えた。
「……べ、別に、仲の好いってほどの友達は、いねえが……兄貴なら、いる」
「兄貴は幾つだ。どこにいる」
その時、霰が、ざっと音を立てて激しく降ってきた。
「うわっ!」
さすがの半七も堪らなくなった。
「こっちだ!」
彼は権太郎の手を引っ張って、すぐそばの空家――以前、お北が住んでいたという、あの家――の軒下へと飛び込んだ。
表の戸には、錠が卸ろされていなかった。
引くと、すぐに、さらりと明いた。
半七は、土間の沓脱へ入り、揚げ板になっている踏み段を、持っていた手拭でさっと拭き、そこにどっかりと腰を下ろした。
「お前も、ここへ掛けろよ。濡れちまう」
「……おう」
権太郎も、その隣にちょこんと腰掛けた。
「……そこで、だ。おめえの兄貴というのは、家にいるのか」
「……いねえ。年は十七で、下駄屋に奉公してるんだ」
その下駄屋は、ここから五、六町先にある、と権太郎は説明した。
「……おやじが死ぬと間もなく、阿母はどこかへ行っちまって……兄貴とおいらと、二人きりんなっちまったんだ」
そう言った時、あの札付きの悪戯小僧の声が、少しだけ沈んで聞こえた。
半七も、なんとなく哀れを誘われた。
「……そうか。じゃあ、兄弟二人きりか。兄貴は、おめえを可愛がってくれるか」
その言葉に、権太郎の顔が、ぱっと輝いた。
「 宿下がり(休み)の時になりゃあ、いつだって、お閻魔さま(法乗院)へ一緒に連れてってくれて、兄貴が色んなものを食わしてくれるんだ!」
権太郎は、心から誇るように言った。
「そりゃあ、好い兄貴だな。おめえは仕合わせもんだ」
と、半七は優しく言いかけたが、次の瞬間、その口調を氷のように冷たく変えた。
彼は、権太郎の顔を、射抜くようにじっと見据えた。
「――その、大事な兄貴を、おれが今から、ふん縛ったらどうする」
「!!」
権太郎の顔から、血の気が引いた。
大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まる。
「……お、おじさん……か、堪忍しておくれよう……!」
権太郎は、泣き出した。
「馬鹿野郎。悪いことをすりゃあ、縛られるのはあたりめえだ」
「……だ、だって……! おいらは、悪いことをしねえでも、縛られた! それであんまり口惜しいから……!」
「口惜しいから、どうした」
半七は、畳み掛ける。
「ええ、隠すな! 正直に言え! おらあ十手を持ってんだぞ!」
「……!!」
「てめえは、口惜しまぎれに、その大事な兄貴に、何か頼んだろう!『仕返ししてくれ』ってな!」
「さあ! 白状しろ!」
「た、頼みゃあしねえ!」
権太郎は、泣きじゃくりながら叫んだ。
「頼みやしねえけど……! 兄貴も、『そりゃあんまりひどい』って、口惜しがって……!
『なんにもしねえ弟を、無暗にそんな目に遭わせる法はねえ!』って、そう言ったんだ!」
「そりゃあ、てめえの普段の行状が悪いからだ。現に、てめえは柿を盗もうと、垣根に登ったじゃねえか」
半七は、厳しく叱った。
「そのくらい、他の子供だってやってらぁ! 逃げそこなって捕まっちまえば、ポカリと一、二発。うまく逃げちまえばそれきりでしまいじゃないか! それも、親方に撲られるのは我慢する! だけど、自身番の奴らが……佐兵衛や伝七の奴らが、寄ってたかっておいらを棒で撲ったり、縄で縛ったりしやあがった! 『ひとを縛るってことは、重いことだ。無暗に出来るもんじゃねえ』って、兄貴が言ったんだ!」
権太郎は、もう声を上げて泣いていた。
「……おいらは、もうこうなりゃあ、何もかも言っちまう!
兄貴が、あんまり口惜しいっていうんで、おいらの加勢で、意趣返し(いしゅがえし)をしてくれたんだ!
おいらが垣根を登ったなんて密告した、あの煙草屋のおちゃっぴい(お咲)!
おいらをぶん殴って縛った、あの自身番の耄碌おやじ(佐兵衛)!
それから、あの番太郎の気丈な女房(お倉)もだ! あいつも一緒になっておいらを詰った!
こいつらを、みんなひどい目に遭わせてやるって、兄貴はずっと狙ってたんだ!」
「……やはり、そうか」
半七は、静かに頷いた。
(半鐘、お北、着物、空家の怪。これは「何か」の仕業)(お咲、佐兵衛、お倉への復讐。これは「権太の兄貴」の仕業)
この町内を騒がせた怪異の正体は、「二種類」だったのだ。
「すると、煙草屋のむすめと、自身番の佐兵衛と、番太の嚊と。この三人に悪戯をした奴は、てめえの兄貴、ってことで相違ねえな」
「おじさん! 堪忍しておくれよう!」
権太郎は、声をあげてまた泣き出した。
「兄貴が悪いんじゃねえ! 兄貴は、おいらの加勢をしてくれただけだ!
兄貴を縛るなら、おいらを縛ってくんねえ!
兄貴は、今まで、たった一人で、おいらを可愛がってくれたんだ!
だから、おいらが兄貴の代わりに縛られたって構わねえ!
よう、おじさん!
兄貴を堪忍してやって、おいらを縛ってくんねえよ!」
彼は、その小さい身体を半七の膝にすりつけ、泣いて、すがった。
「……」
すがられた半七も、さすがに、ほろりとした。
町内で札付きの悪戯小僧。
だが、その小さい心の底には、こんなにも美しく、いじらしい人情が隠されていたのだ。
「……よし、よし」
半七は、その煤けた頭を、ぽん、と叩いた。
「判った。そんなら、兄貴のことは堪忍してやる」
「……え?」
「今の話は、このおれ一人が聴いただけにして置いて、誰にも言わねえ。
その代わり。おれが今から言うことを、何でも肯くか」
「……き、肯く!」
権太郎は、涙だらけの顔を上げ、力強く頷いた。
「よし。それじゃあ、まず『その一』だ」
半七は、権太郎の耳に口を寄せ、何事かをささやいた。
権太郎は、こくんと頷くと、すぐに空家から飛び出していった。
第七章:猿、捕物
霰は、またひとしきり激しく降って、止んだ。
だが、空の雲はいよいよ低く垂れ込め、一種の寒い影が、地面に覆いかぶさってくる。
昼間だというのに、町内は静まり返っていた。
掃溜を漁りに来る犬の姿すら、今日は見えない。
空家を忍んで出た権太郎は、抜き足差し足で、例の稲荷の社の前へ行った。
彼は、懐に隠していた鞴祭りの蜜柑を、五つ、六つ、取り出した。
そして、木連格子の隙間から、それを音のしないように、そっと社の中へと転がし込む。
それから、自分は土の上に、平蜘蛛のように、ぴたりと俯伏せになった。
彼は、一生懸命に息を殺し、社の内部の物音に耳を澄ませている。
(半七親分の言う通り、この中に、本当に「何か」がいるんだろうか……)
半七は、空家の土間に腰掛けたまま、しばらく待っていた。
だが、権太郎からは、何の報告もない。
「……ちっ。当てが外れたか」
彼は待ちきれなくなり、そっと空家を出て、社の裏手へ回った。
「おい、権太。どうだ、なんにも当りはねえか」
半七が小声で訊くと、俯伏していた権太郎は、首を上げて、それを力なく左右に振った。
半七は、がっかりした。
(稲荷の社じゃなかったか……)
バラバラバラッ!
霰が、また音を立てて降ってきた。
半七は、慌てて手拭をかぶる。
霰に打たれながらも、じっとおとなしく俯伏している権太郎の姿が、どうにも忍びない。
彼は、こっちへ来い、と頤で招いた。
権太郎は、そっと這い起き、元の空家へと戻ってきた。
「稲荷さまの中で、なんにも音がしねえか。がたりとも、ごそりともいわねえか」
半七は、もう一度訊いた。
「むむ……がたりとも、ごそりともいわねえよ。どうも、なんにも居ねえらしい」
権太郎も、失望したようにささやいた。
(……いや、待てよ)
半七は、自分が座っているこの「空家」を、改めて見回した。
お北が襲われ、新しい住人が一晩で逃げ出した、因縁の家。
(……この中か?)
「権太。お前、まだ蜜柑を持っているか」
権太郎は、袂をごそごそと探り、三つばかりの蜜柑を出した。
半七は、それを受け取ると、自分のうしろ、土間から座敷へ上がる場所の障子を、音のしないように、するり、と開けた。
入口は二畳。その傍に、三畳ぐらいの女中部屋が続いているようだ。
半七は、その二畳間に這い上がると、突き当たりの襖を、ほんの少しだけ開けた。
そこは、造作の小綺麗な、横六畳の座敷だった。
そして、半七の目に、異様なものが飛び込んできた。
縁側に面した障子が、骨も紙も、ひどく傷んでいる。
薄暗い中でも、それがはっきりと分かった。
骨はところどころ折れ、紙は、まるで内側から引きめくったように、ビリビリに裂けていた。
(……ここだ)
半七は、ニヤリと笑うと、その六畳間の真ん中へ、蜜柑を二つばかり、音もなく転がし込んだ。
それから、女中部屋の襖も開け、そこへも一つ、投げ込む。
入口の障子を、元のように音もなく閉め切って、彼は再び、沓脱の土間へと降りた。
「……権太。静かにしてろよ」
彼は、権太郎に厳しく注意した。
二人は、息を飲み込んで、暗い土間でじっと控えている。
外の霰の音は、また止んだ。
家の中は、水を打ったように静かだ。
何の物音も聞こえない。
権太郎は、少し待ちくたびれてきたらしかった。
「……なあ、おじさん。ここにも、居ねえんじゃ……」
「静かにしろと言ったろうが!」
半七が、そう叱りつけた、まさにその途端だった。
……がさり。
奥の部屋で、微かな、しかし確かな物音が聞こえた。
二人は、顔を見合わせた。
……がさがさ。
何者かが、あのビリビリに破れた障子の破れ目をくぐって、六畳の間へ這い込んできたらしい。
それは、猫のような、軽い足音。
だが、畳に、ざらざら、と触れる爪の音は、猫よりもずっと重い。
足音は、だんだんと近づいてくる。
じっと耳を澄ませていると。
((……食ってる!))
その「何か」は、半七の投げ込んだ蜜柑を、夢中になって、むしゃむしゃと食っているらしかった。
「……畜生め」
半七は、笑いながら権太郎に目くばせした。
二人は、手に持っていた草履を、それぞれ逆手に握りしめる。
「行くぞ!」
「おう!」
二人は、一度に障子を開けた!
つづいて、次の襖を、蹴ひらく!
「そこだぁっ!!」
六畳の座敷へ、二人が同時に飛び込むと、うす暗い部屋の真ん中に、一匹の獣が潜んでいた。
「「ギィヤァァァーーッ!!」」
獣は、人間が二人も飛び込んできたことに驚き、奇怪な叫び声を上げながら、あの破れた障子を突き破り、縁側へ逃げ出そうとした。
そこを、半七が背後から追い付き、その頭を、草履の裏でぶん殴った。
「権太! 押さえろ!」
「おう!」
権太郎も、つづいて殴りつける。
獣は、完全に度を失ったらしい。
白い牙をむき出し、身を翻して、権太郎に飛びかかってきた。
こういう修羅場では、平生の悪戯が役に立つ。
権太郎は、物ともせず、その奇怪な獣と、真正面から取っ組んだ。
「この野郎!」
「グギィィィッ!」
怪物は、おそろしい声を上げて唸り、権太郎の腕に噛みつこうとする。
「権太、しっかりしろ!」
声をかけて励ましながら、半七は、頭にかぶっていた手拭を取ると、うしろから回り込み、その獣の喉に巻き付けた。
「ぐっ……!」
喉をしめられ、怪物もさすがに弱ったらしい。
いたずらに手足をもがきながら、権太郎に、とうとう組み敷かれてしまった。
気の利く権太郎は、自分の締めていた帯を素早く解くと、手足に慣れた手つきでぐるぐる巻きに縛り上げる。
その間に、半七は、縁側の雨戸をこじ開けた。
陰っていた日の、薄い光が、埃っぽい空家の中へと流れ込む。
縛り上げられた怪物の正体が、ようやく明らかになった。
「……はっ。畜生め、案の通りだ」
権太郎に生け捕りにされた怪物。
それは、大きな、一匹の「猿」だった。
この怪物と格闘した形見として、権太郎は、頬や手足に、二、三カ所、鋭い爪のあとを残された。
だが、彼は、血を滲ませながらも、得意満面だった。
「なに、このくれえ、痛かあねえや!」
彼は、自分の獲物を、誇らしげに眺めている。
猿は、死にもしないで、おそろしい眼を、真っ赤に瞋らせていた。




