第四章:二種類の「禍(わざわい)」/第五章:二つの仮説
だが、半七には、ほかにどうしても手放すことのできない大きな事件が残っていた。
「二、三日中」という家主との約束は、結局、四、五日に延びてしまった。
半七が、あの町内へ再び足を向けることができない、その四、五日の間に。
町内では、またしても、立て続けに事件が起きていた。
まず第一の被害者は、町内の煙草屋の娘、お咲。今年十七の、町内でも評判の小町娘だった。
お咲は本所の親類へ使いに行き、六ツ半(午後七時)頃に帰ってきた。
冬の日はとっくに暮れ、北風が軽い砂を転がして吹いていくのが、夜目にも白く見える。
このごろ不思議の多い自分の町内へ近づくにつれて、若い娘の胸は、どきどきと高鳴った。
(もっと早く帰ってくればよかった……)
後悔しながら、お北は俯き、両袖をしっかりと抱き合わせて、小刻みに足を早めて歩いてくる。
と。
カツ、カツ、カツ……。
背後から、自分と同じように小刻みな足音が、尾けてくる。
軽い響きが、微かに聞こえた。
(……え?)
お咲は、冷や水を浴びせられたように、ぞっとした。
だが、怖くてとても振り返って見る勇気はない。
すくみそうになる足を必死に急がせ、ようよう自分の町内の角を曲がったかと思うと。
ザッ!!
あたかも白い砂が渦を巻くように、お咲の足元から胸のあたりまで、砂埃が舞い上がった。
「きゃっ!」
彼女は両袖で、思わず顔を覆う。
その、途端だった。
うしろから尾けてきたらしい「怪しい何か」が、まるで旋風のように駆け寄ってきて、無防備なお咲の背中を、ドン!と突き飛ばした。
「いやぁぁぁっっ!!」
娘の悲鳴を聞きつけ、近所の者たちが駆けつけてみると、お咲は気を失って道に倒れていた。
彼女が自慢にしていた島田の髷は、まるで獣にでも引っかかれたように、無残にもかきむしられていた。
幸い、膝がしらを少し擦り剥いただけだったが、あまりの驚きに、お咲は蘇生してからもぼんやりとしていた。
その晩から高熱を出し、三日ばかり床に就いてしまった。
「妖怪か、人間か」
例の議論が、またしても沸き起こった。
ここで、ある事実が人々の口に上る。
「そういや、お咲ちゃんだったよな」
「ん? なにがだい」
「例の、権太郎が質屋の隣の垣根に登ってたのを目撃したの、あの子だったろ」
「……あ」
自身番でひどい目に遭わされたあの悪戯小僧が、その復讐のために、お咲のあとを尾けていたのではないか。
そんな疑いが、当然のように持ち上がった。
だが、それはすぐに打ち消された。
権太郎の親方が証明したのだ。
「権の野郎なら、その時刻、たしかに店の奥で夜なべ仕事をしてやした。間違いねえ」
ほかにも、権太郎が働いているのを見たという証言もあった。
いくら悪戯者でも、身体が二つあるわけではない。
今度の事件を、権太郎になすり付けることはできなかった。
その不思議も、結局、要領を得ずに終わってしまった。
「夜はもう、外へ出るんじゃないよ!」
日が暮れると、女や子供は、いよいよ厳しく外出を禁じられた。
すると、今度は。
意外な禍が、男の上にも襲いかかってきた。
第二の打撃を受けたのは、なんと、あの自身番の親方、佐兵衛だった。
佐兵衛は、まず「冬」という敵に襲われていた。
先月の末頃から、持病の疝気がひどくなり、腹の差し込みに悩まされていたのだ。
なにぶんにもこの頃は、町内が物騒がしい。 毎日のように町役人の寄り合いがあり、彼は親方として、なんとか我慢して起きていた。 だが、その日は、もうどうにも堪えられない。 昼間から温石などで腹を温めて凌いでいたが、日が暮れると、夜の寒さが腹の芯まで沁み透ってきた。
「う……うぅ……」
佐兵衛は、痙攣する下腹を両手で抱え、炉のそばで唸っていた。
「親方、大丈夫かい」
「医者様でも呼んでこようか」
手下の伝七と長作が、見かねて声をかけた。
「……いや、まあ、もうちっと我慢しよう」
自身番の親方や番太郎には、妙に金に細かい人間が多かった。
医者の薬礼を恐れる彼は、なるべく市販の買い薬で間に合わせたかったのだ。
だが、夜が更けるにつれて、疼痛はいよいよ強くなる。
彼はもう、意地でも我慢ができなくなった。
それでも医者を呼ぶのを嫌がり、「こっちから医者の家へ行く」と言い出した。
「それじゃあ、あっしが送っていこう」
伝七が付き添うことになった。
強い差し込みで、満足には歩けそうもない佐兵衛を介抱しながら、ともかくも表へ出る。
町には、夜の霜が一面に降りていた。
伝七は病人の手を引き、隣町の医者の門をくぐった。
医者は薬をくれ、「とにかく腹をあたたかくして、ゆっくり寝ていろ」と注意した。
礼を言って医者の家を出たのは、もう四ツ(午後十時)に近い頃だった。
「御町内は、このごろ物騒だというからね。帰り途も、よく気をつけるんだよ」
帰り際、医者が親切にそう注意してくれた。
その親切な言葉が、二人の胸には、また一入の寒さを呼び起こした。
帰り道も、佐兵衛は伝七に手を引かれて歩いた。
「……木戸が締まらねえうちに、早く行こう。番太に開けてもらうのも面倒だ」
風もない、月もない。
霜の降りる「しん」という音でも聞こえてきそうな、静かな夜だった。
町内にも、もう灯の影は疎らだった。
佐兵衛は下腹を押さえながら、屈みがちに歩いている。
二人は、ようやく自分たちの町内に入った。
二、三軒も通り過ぎたかと思うと。
スッ……。
質屋の角にある天水桶の陰から、何か、真っ黒な影があらわれた。
「「……!」」」
それが何であるかを認める間もない。
その黒いモノは、地を這うように素早く走り寄ってきて、いきなり佐兵衛の足をすくった。
「うわっ!」
屈んでいた彼は、あっけなくバランスを崩し、派手にすっ転んだ。
「ひぃぃぃっ!! で、出たぁぁっ!!」
ふだんから恐怖に怯えていた伝七は、親方を助けるどころか、甲高い悲鳴を上げて、一目散に自身番へと逃げ帰ってしまった。
この臆病者の報告を聞き、長作が棒を持って、こわごわと現場へ出てきた。
伝七も、得物(六尺棒)を手に取り、再び引っ返してきたが、もうその時には、黒いモノの影はどこにも見えなかった。
佐兵衛は、転んだはずみに膝をひどく痛めていた。
まだそのほかに、相手に殴られたのか、あるいは自分で打ったのか、左の額に、石で打ったような擦り傷までこしらえていた。
調べてみると、その晩も、権太郎は外出していないという証拠が、はっきりと挙がった。
こうして、あの悪戯小僧にかかる疑いは、次第に薄れていった。
だが、それと同時に、この「不思議」に対する疑いと恐怖は、いよいよ濃くなっていった。
臆病者の伝七が言うには、「どうも、ありゃあ河童みてえだった」というのだが、いくらなんでも町なかに河童が出るはずはないと、誰もそれを信用しなかった。
「……どうも、人間らしい」
この頃、方々の家で、食べ物が盗まれるという事件も、こっそりと起きていた。
ことに、お咲を脅かしたやり口といい、佐兵衛を襲った手段といい。
「妖怪」が、だんだんと「人間味」を帯びてきたことは、誰の目にも明らかになってきた。
(権太郎以外の、別の悪戯者がこの町内に入り込んでいるに違いない)
そう結論づけられ、またしても町内総出で、毎晩の警戒を厳重にすることになったのだった。
第五章:二つの仮説
それ以来、不思議なことに、半鐘はちっとも鳴らなくなった。 まるで、町内の混乱など何も知らない、という顔をして、冬の空に高くかかっていた。
だが、地上の怪異は止まらない。
例のお北が出ていった空家。
その後に、新しい住人が越してきた。
だが、たった一晩で、早々に立ち退いてしまった。
曰く、「夜中に不意に行燈が消え、おかみさんが『何か』に頭髷を掴まれ、布団の外へぐいぐいと引き摺り出された」というのだ。
しかも、別に紛失物はなかった。
「何か、あの空家に潜んでいるのではないか」
家主立ち会いで、徹底的な家探しが行われた。
床下から天井裏まで調べたが、その正体は、遂に見とどけられなかった。
「……やっぱり、化け物かしら」
そんな噂が、またしてもぶり返す。
町内の人々も、化け物か人間か、得体の知れないこの禍を払う方法に、あぐね果てていた。
その次に人身御供にあがったのは、番太郎の女房、お倉だった。
「先生、番太郎ってのはご存じですかい?」と、老人はまた説明を挟む。
「まあ、早く言やあ、町内の雑用係でさ。毎日の役目は、拍子木を打って『火の用心』と、時を知らせて歩くことです。
番太郎の家は大抵、自身番のとなり。店先じゃ、草鞋だの蝋燭だの、炭団だの渋団扇だの、何でも売ってる。
まあ、一種の荒物屋ですな。
夏は金魚を売り、冬は焼芋を売る。
あんまり幅の利いた商売じゃありやせんが、そんな風に何でもするもんで、中には結構な金を溜め込んでる奴も多うござんしたよ」
その番太郎の隣に、小さな筆屋があった。
その筆屋の女房が、暮れ六ツ(午後六時)過ぎ、急に産気づいた。
夫婦二人きりの家で、亭主はただオロオロするばかり。
「しょうがないね! あたしが呼んでくらぁ!」
こういう時、お倉はすぐに、取り上げ婆さん(助産婦)を呼びに走る。
そんな使いを頼まれて、いくらかの使い賃を貰うのが、番太郎の女房の役得でもあった。
お倉は、町内でも評判の気丈な女だった。
殊に、まだ宵の口であること、そしてこの頃は町内の警戒も厳重なので、彼女は平気な顔で下駄を突っかけて駆け出した。
取り上げ婆さんの所は、四、五町ほど離れている。
お倉は、妊婦を案じて、むやみに急いで行った。
今夜も霜が降りそうな寒い夜だったが、両側の店の灯が、うす明るい影を狭い町に投げていた。
「婆さん、筆屋の嫁さんが始まったよ! すぐ来てくんろ!」
「へいへい、今行くよ」
婆さんは承知して、すぐにお倉と一緒に出てくれた。
だが、婆さんはもう六十幾つという年だ。足が、とんでもなくのろい。
頭巾に顔を包み、とぼとぼと歩いてくる。
お倉は「(ちっ、じれったいね!)」と内心舌打ちするのを我慢して、その歩調に合わせて歩いた。
婆さんは、何か詰まらない世間話を、くどくどと話しかけてくる。
気の急いているお倉は、上の空で返事をしながら、婆さんを引っ張るようにして急いで帰った。
町内の灯が、もう目の前に見えてきた。
隣町との町境に、土蔵が二つ並んでいる場所がある。
それに続いて、材木屋の大きな材木置き場があった。
前後の店の灯の影は、ここまで届かない。
十間(約18m)あまりの間だけ、冬の夜の闇が、まるで漆のように横たわっていた。
(……ここだね)
自分の町内に入るには、どうしてもこの闇を突っ切らなければならない。
この間の晩、煙草屋のお咲が災難に遭ったのも、確かこの辺りだったな、と思い出す。
お倉は、婆さんを急き立てて、その闇の中へ足を踏み入れた。
その時。
カサッ。
積んである材木の陰から、犬のような、それでいて犬よりも大きな「何か」が這い出してきた。
「……おや、なんだろう」
よぼよぼしている婆さんを引っ張っている手前、お倉はすぐに逃げ出すわけにもいかない。
気丈な彼女は、闇の底をじっと透かし見て、その正体を見定めようとした。
だが、その間もなく、怪しいモノは、背を盗むように身を伏せたかと思うと、一気に距離を詰め、いきなりお倉の腰に取り付いてきた。
「何をしやがるんだい!」
ガシッ!
お倉は、一度は相手を手ひどく突き飛ばした。
だが、相手は怯まない。二度目には、お倉の帯に手をかけてきた。
ぐいぐいと帯を引っ張られる。
ゆるんだ帯が、ずるずると解けていく。
さすがのお倉も、少し慌てた。
「このっ……! 助けて! 誰か!」
彼女は、腹の底から大きな声で人を呼んだ。
婆さんも、隣で「ひぃぃ、助けてぇ」と、皺枯れた声を張り上げる。
その声を聞きつけ、町内の警戒に当たっていた若い衆が「どうした!」と駆けつけてくる足音がした。
怪しいモノの方でも、それに慌てたらしい。
「ちっ!」という舌打ちが聞こえた気がした。
かれは、お倉の右の頬を、爪で思い切り引っ掻くと、脱兎のごとく逃げ出した。
「待て!」
お倉は二、三間追いかけたが、足の早いそいつは、あっという間に闇の中へ姿を隠してしまった。
「……化け物だなんて、とんでもない。嘘っぱちですよ!」
自身番で、お倉は息巻いた。頬には、みみず腫れの引っ掻き傷ができている。
「暗くてよくは見えなかったけど、ありゃあ、たしかに人間です! それも、十六か十七ぐらいの、すばしっこい男でした!」
気丈なお倉の、このはっきりとした証言。
これにより、「化け物」の正体は、いよいよ「人間」と特定された。
だが、さて、それが「誰」であるかは、まったく判らなかった。
「人間と決まれば、捕まえる方法もあるはずだ」
町役人たちが自身番に集まり、その悪戯者(人間)をどうやって狩り出すか、改めて相談をしていると。
そこへ、またしても、新しい不思議な報告が飛び込んできた。
お倉が曲者に出会ってから、半時(約一時間)も経っていない頃のことだ。
今度は、以前、干物の赤い着物を攫われた、あの印判屋だった。
その印判屋の台所の天井裏で、なにか、ごとごと、という音が聞こえた。
「……おや、また猫か鼠かね」
そこの女房さんは、そう思った。
台所へ出て、「しっ、しっ」と天井に向かって箒の柄で音を立てる。
だが、屋根の上の物音は、まだ止まない。
(……まさか)
この間の一件(歩く着物)に、すっかり神経質になっている彼女は、ぞっとした。
だが、それも「怖いもの見たさ」の好奇心からか。
彼女は、台所の上にある引窓――明かり取りと換気のための、天井の小さな窓――の、引き綱を解き、そろ、そろ……と開けてみた。
その、途端。
「きゃぁぁぁぁぁぁっっ!!」
何を見たのか。
彼女は、絶叫すると、そのまま泡を食って奥の間へ転げ込んでしまった。
彼女が、夫に抱きかかえられ、震えながら話すところによると。
「……あの、屋根の上を、そっと覗こうとしたら……」
「お、おう、どうした」
「……引窓の、あの穴から……二つの、大きな、光る眼が……こっちを……!!」
彼女は、それ以上を見とどける勇気もなく、奥へ逃げ込んでしまったのだった。
この報告を受け取り、自身番に集まっていた人々は、またしても迷宮に突き落とされた。
「……おい」
「……お倉さんの、ありゃあ人間だ、って話は……」
「……あてにならねえ、んじゃねえか?」
「……二つの光る眼、だってよ……」
「……どうも、やっぱり、人間じゃあ、ねえようだ……」
その夜の評議も、結局、何の進展もないまま、恐ろしい結論だけが残り、人々は重い足取りで解散していった。
こうして、町内が不安と混雑と恐怖のどん底に突き落とされている、まさにその時。
半七は、抱えていた一方のヤマを、ようやく片付けた。
「よし、今日こそは、あの『半鐘の町』の詮議に取り掛かるとするか」
そう思っていたが、生憎、午前は来客があって、家を出ることができなかった。
彼が神田の家を出て、あの呪いの半鐘に見下ろされている薄暗い町へ、再び踏み込んだのは、八ツ(午後二時)を少し回った頃だった。
「……気のせいか、やけに陰気な町だな」
半七は、そう思った。
風はないが、底冷えのする日だった。
薄い日の光が、どんよりとした雲間から漏れたかと思うと、またすぐに吹き消すように消えてしまう。
昼間だというのに、あまりに暗い。
ねぐらを急ぐように、鴉が数羽、啼き連れて頭上を通り過ぎていった。
半七は、懐手をして、まず、町内の鍛冶屋の前に立った。
すると。
「わーっ!」「こっちだ!」「やった!」
店の奥から、大小の蜜柑が、往来に向かって、ばらばらと景気よく撒かれていた。
近所の子供たちが、それに群がって、歓声を上げながら拾っている。
(……ああ、そうか)
半七は、すぐに気がついた。
今日は、十一月八日。
鍛冶屋や鋳物師にとっての「鞴祭」だ。
子供たちの群れのうしろから、半七はそっと店の中を覗き見る。
親方は、上機嫌で蜜柑を往来へ威勢よく撒いている。
職人たちも、そして、あの権太郎も、笊に入った蜜柑を忙しそうに店先へ運んでいた。
半七は、自身番へ寄った。
家主が、今日も詰めていた。
「家主さん、どうも」
「おぉ、半七さん! 来てくれましたか!」
半七は、家主を相手に世間話をしながら、鍛冶屋の蜜柑撒きが済むのを、ゆっくりと待っていた。
「半鐘の一件が片付かねえ間は、こうして交代で番屋に詰めてるんでさ。早く埒が明いてくれねえと、こっちも商売上がったりで……」
家主は、手前勝手な愚痴をこぼしている。
「御心配には及びませんよ。近いうちに、何とか眼鼻をつけて、お目にかけやす」
半七は、慰めるように言った。
「だんだん寒空に向かいやすし、火事の早い江戸で半鐘騒ぎは、本当に気が気じゃありやせんやね」
「ええ、まったくですよ。お察し申しやす」
半七は、炉の火に手をかざしながら、不意に言った。
「なに、もうちっとの御辛抱でさ。……ところで家主さん。あの鍛冶屋の鞴祭りが済んだら、あの小僧(権太郎)を、ちょいと此処へ呼んでいただけやせんか」
「……へ? 権太郎を?」
家主は、意外そうな顔をした。
「やっぱり半七さん、あの小僧が……おかしゅうございますか?」
「いや、と、そういう訳でもありやせんがね」
半七は、意味ありげに笑った。
「少し、訊きてえことがあるんでさ。あんまり大袈裟に脅かさねえで、そっと連れてきてください」




