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プロローグ:酉の市の日に/第一章:半鐘が鳴る夜


「先生、ようこそお越しくださいやした。いやぁ、冷えますねぇ」


十一月に入り、いつ雪に変わってもおかしくないような冷たい時雨がそぼ降る日。

僕は久しぶりに、四谷の隠居所を訪ねた。


出迎えてくれた半七老人は、手にした小さな、それこそかんざしほどの熊手を嬉しそうに掲げてみせる。


「ちょうど今、初酉はつとりから帰ってきたところでさ。先生も、もうひと足遅かったらすれ違いでした。ささ、どうぞ上がってくだせえ」


年の功か、不思議と足腰のしっかりした老人は、その小さな縁起物を恭しく神棚に飾ると、僕をいつもの六畳間へと通してくれた。(酉の市は、今でも関東を中心に盛んにおこなわれている。いわゆる熊手型の縁起物を買って、威勢よく三々七拍子で景気づけをしてくれる、例のアレである。さいたまの鷲宮わしのみや神社が発祥という話もあるが、浅草のおおとり神社が有名。何故か鳥にちなんだ神社で行われるイメージが強い。なお関西方面だと似たようなお祭りが「えびす」として行われている、こちらは「えべっさん」で「「商売繁盛笹もってこい」である)


熱い茶が冷えた身体に沁みわたる。

酉の市の今昔についてひとしきり話した後、季節柄、話題は自然と「火事」へと移っていった。


「火事と喧嘩は江戸の華、なんて言いやしたが、とんでもねえ。あれほど恐ろしいもんはありやせん」


ご隠居の身とはいえ、元は江戸の治安を守った岡っ引き。

職業柄だったのだろう、半七老人は江戸の火事について驚くほど詳しかった。


放火つけびが重罪なのはもちろん、火事場泥棒も昔は問答無用で死罪だったこと。 火消しの組同士の縄張り争いが、時として本当の火事より恐ろしかったこと。有名な火消しの親分に新門の辰五郎という人物がいたこと。 そんな話が続くうち、老人はふと、悪戯っぽく目尻の皺を深くした。


「いや、先生ね。世の中ってのは、本当に妙ちきりんな事が起きるもんでさぁ。これはちょいと、今となっては差し障りがあるんで、どこの町内とははっきり言えやせんが……」


半七老人は、悪戯が成功した子供のような顔で、こう切り出した。


「ええ、あれは確か……いつぞやお話し申した『お化け師匠』のうちから、そう遠くねえ下町でのことでした。

そこに、どうにも解せねえ怪事が持ち上がりやしてね。

一時は町内中が大騒ぎになったもんでさ」


第一章:鳴らずの半鐘が鳴る夜


神田明神の祭りがとっくに終わり、朝晩はあわせ一枚では肌寒さが身にこたえるようになった頃。

江戸の町にも、秋が深まっていた。


うす暗い焼き芋屋の店先に、「八里半」と筆太に書かれた行燈がぼんやりと灯る。甘い芋の焼けるにおいが漂ってくる。(店によっては「十三里」や「十三里半」という行燈もあった)享保の頃には江戸っ子に見向きもされなかった芋(甘藷)が、このころには、すっかりと江戸の風物詩になっていた。


湯屋から立ちのぼる白い煙が、やけに目につく。


火事の早い江戸の住人たちを怯えさせるように、秩父の山々から冷たい風が吹き下ろし始める。

そんな、九月の末から十月の初めにかけて。

その町内で、奇妙な事件が続発した。


夜更け、町内の火の見櫓に吊るされた半鐘が、突如として鳴り響くのだ。


ジャーン、ジャーン、ジャーン!!


「そら、火事だ!」


寝巻のまま飛び出した町内の人々が、慌てて空を見上げる。

だが、どこにも煙ひとつ見えない。

火の色も、どこにも映っていない。


「……なんだぁ? 空耳か?」

「いや、確かに鳴ったぞ!」


そんなことが、一晩のうちに一度や二度。

多い時には三度、四度と続く。


ある晩は「一つばん」(火事の発生を知らせる一打)。

またある晩は「二つばん」(鎮火を知らせる二打……だが火事自体がない)。


そして、ついには。


ジャン! ジャン! ジャン! ジャン!

摺りばんを滅多打ちにする、近火を知らせるけたたましい連打が、真夜中の静寂を切り裂いた。


町内はもちろん、その音に釣られて隣町までもが半鐘を打ち鳴らす。

寝ていた火消したちが、どこというあてもなく駆け集まってくる。

だが、やはり火の気はまったくない。


湯屋の煙すら絶えた真夜中だ。

見間違いようもない。


「……何かの間違いだろう」

「誰かの悪戯いたずらか」


人々は、狐につままれたような顔で、すごすごと引き揚げていく。



しまいには町内の人間も慣れてしまい、「どうせまた、どっかの馬鹿がイタズラしてやがる」と、半鐘が鳴っても表に飛び出さなくなってきた。


だが、事が事だ。

仔細もなく半鐘を打ち鳴らし、公方様のお膝元を騒がす――その罪は、とんでもなく重い。

悪戯で済まされるレベルではないのだ。


第一に迷惑を被り、そして責任を問われたのは、その町内の「自身番じしんばん」に詰めている者たちだった。


「先生、自身番ってのはご存じですかい?」と、半七老人は説明を挟んでくれた。


「今でいう派出所、交番をでっかくしたようなもんですかね。 町人地にあるのは町人持ちで『自身番』、お武家様の屋敷町にあるのは武家持ちで『辻番』って言いやした。俗に『番屋ばんや』とか『番所ばんしょ』とも呼びます。 昔は地主が『自身』で詰めたんで、そう呼ばれたそうで。 もっとも、あっしの若い頃にはもう、そういうのも一つの株になってやした。 自身番の親方ってのがそれを預かって、ほかに店番の男が二、三人、交代で詰めてるって寸法でさ」


大きな自身番には五、六人が控えていることもあったが、この騒ぎが起きたのは小さな自身番だった。

当時の火の見梯子は、この自身番の屋根の上に設置されているのが普通だ。

火事があれば、店番の男か、町内の番太郎ばんたろうがその梯子を駆け上がって半鐘を撞く。


だから、半鐘に何か間違いがあれば、真っ先に責任を追及されるのは自身番の者たちなのだ。


ここの親方は佐兵衛という、五十がらみの独り者。

冬になると持病の疝気せんき――腹の差し込み――に悩まされる、ちょっと気の弱い男だった。

ほかに手下の定番じょうばんが二人。

伝七と長作。

こちらも四十を越えた独り者だ。


「この野郎ども! てめえらの見張りが手薄だから、こんな騒ぎになるんだろうが!」


当然、三人は当の責任者として、町役人から厳しく叱りつけられた。

こうなれば仕方がない。

三人は毎晩交代で、火の見梯子の真下で徹夜の見張りをすることになった。


不思議なことに、彼らが夜通し、目を皿のようにして見張っている間は、半鐘は死んだように静まり返っている。 だが。 「……もう大丈夫だろう」 「ああ、さすがに三日も見張ってりゃ、イタズラ者も諦めたろう」 てな塩梅に、ほんの少し油断して、番屋の中で横着を決め込むと、まるでその怠惰を戒めるかのように、半鐘は再びけたたましく鳴り響いた。


「「「ひぃっ!!」」」


三人が飛び出すが、櫓の上には誰もいない。


町役人が立ち会って、櫓も半鐘も徹底的に調べた。

だが、何の異常もない。

撞木しゅもくに細工がされた形跡もない。


そして、この怪現象は、なぜか必ず夜に限られていた。

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