第三章:悲恋の告白
第三章:悲恋の告白
土用が明けてまだ間もない夏の朝。太陽の光がきらきらと大溝の水面に反射している。大きな麦わらとんぼが、半七の鼻先を掠めて、低い練塀の向こうへと消えていった。その練塀に囲まれた寺が、妙信寺であった。
門をくぐると、左手に小さな花屋がある。盆を前にして参詣客が多いと見え、店先には足の踏み場もないほど樒の葉が青々と積まれていた。
「ごめんください」
声をかけると、樒の山に埋もれるようにしていた老婆が、ゆっくりと屈んだ腰を伸ばし、しょぼしょぼとした目をこちらに向けた。
「おや、いらっしゃいませ。お参りでございますか。今年は残暑が厳しゅうございますね」
「ああ。この樒を少しもらおうか。それと、踊りの師匠だった、歌女代さんのお墓はどちらかね」
半七は、特に必要もない花を買いながら、さりげなく尋ねた。
「歌女代様のお墓でございますか。……そうでございますねえ。亡くなられた当初は、お弟子さん方がちょいちょいお見えになりましたが、この頃ではとんとご無沙汰で……。毎月、ご命日に欠かさずお参りにいらっしゃるのは、あの経師屋の息子さんくらいなもんでございますよ」
「ほう、経師屋の息子が、毎月?」
「はい。お若いのに、ご奇特な方でございます。昨日も、ちょうどお見えになっておりました」
やはり、あの弥三郎という若者か。
半七は手桶に水と樒を入れ、教えられた通り墓地へ向かった。
墓は、先祖代々のものらしい小さな石塔だった。隣の古い墓との間には大きな楓の木が枝を広げ、その梢では秋の蝉が力なく鳴いている。墓前の花立てには、弥三郎が供えたものだろう、桔梗と女郎花がまだ瑞々しく生けられていた。
半七も花と水を供え、静かに手を合わせる。その時だった。背後で、何かがさがさと草を揺らす音がした。思わず振り返ると、小さな蛇が何かを追うように、秋草の間をちょろちょろと走り去っていくところだった。
(……こいつを、持っていったのか?)
半七は一瞬、蛇の行方を見つめて考え込んだが、「いや、そうではあるまい」と、すぐにその考えを打ち消した。
花屋へ戻った半七は、老婆に、亡くなった大師匠の歌女寿は生前、墓参りに来たことがあったかと尋ねた。老婆の話によれば、歌女寿がこの墓を訪れることは滅多になかったが、若き師匠の歌女代は信心深く、たびたび墓参りに来ていたという。そして、たまにはあの経師屋の息子と連れ立って来ることもあった、と。
いくつかの話を繋ぎ合わせてみると、悲しい最期を遂げた若い師匠と、その墓に毎月涙を流しに来る若い経師職との間には、ただの師弟関係以上の、深い繋がりがあったことが窺えた。
「どうも、長々と邪魔をした」
半七は銭を置くと、静かに寺を後にした。
寺を出て上野の方へ歩いていると、ひょろりと背の高い男と出くわした。手先の一人、松吉、通称「ひょろ松」である。
「おい、松。いい所で会った。ちょうど今からおめえの家へ寄ろうかと思っていたところだ」
「へい、親分。何か御用で?」
「おめえ、まだ知らねえのか。お化け師匠が死んだのを」
「ええっ!?」松吉は心底驚いた顔をした。「へえ、あの師匠が、死にやしたかい!」
「ぼんやりするな。目と鼻の先に巣食っていながら、この体たらくは何だ。もう少し身を入れて御用を勤めねえといけねえぞ」
半七に叱咤され、松吉は恐縮しきりだ。
「へえ、左様でございますかい。悪いこたあできねえもんだ。お化け師匠、とうとう取り殺されやしたか」
「まあ、そんなこたあどうでもいい。それより、おめえに頼みがある。今から手を尽くして、この近在で池鯉鮒様の御札売りが泊まっている宿を探し出してくれ。たぶん、万年町あたりの安宿だろうと思うがな。急いで見つけて、俺に知らせろ」
「へい、承知いたしました」
「ただ見つけるだけじゃねえぞ。御札売りが何人いて、どんな人相の奴らか、根掘り葉掘り、洗いざらい調べてくるんだ。いいな、如才なくやれよ」
「合点承知の助で!」
ひょろ高い松吉の後ろ姿が山下の方へ遠ざかるのを見送り、半七はひとまず神田の自宅へ戻った。
その日の夕暮れ時、源次がこっそりと半七宅を訪れた。
お化け師匠の検視は今朝方済んだが、結局、人間が殺したのか、蛇が殺したのか、はっきりとは断定できなかったらしい、と彼は報告した。普段から評判の悪い師匠だっただけに、役人たちも深く詮議する気はなく、「蛇の祟り」という、いかにも江戸っ子好みの怪談じみた話で片付けられてしまいそうだ、とのことだった。半七は、ただ黙って笑いながらそれを聞いていた。
「師匠の葬儀はいつだ」
「明日の明け六つ半(午前七時)だそうで。これという親類もいねえようですから、大家さんと近所の者が集まって、ささやかに済ませるんでしょうよ」
松吉からは、その晩、何の知らせもなかった。
翌朝、半七は師匠の葬儀の様子を窺うべく、再び妙信寺へ出向いた。師匠の遺骸は粗末な駕籠で運ばれ、町内の者や元弟子たちが三、四十人ほど、その後ろについて歩いてくる。その中には、やけに目を光らせている源次、青白い顔をした弥三郎、そしてうつむき加減に歩く女中のお村の姿もあった。半七は知らぬ顔で隅の方に座り、式の様子をじっと見守っていた。
読経が終わり、遺骸が火葬場へと送られていく。会葬者たちが三々五々、寺を後にしていく中、半七はわざと一番最後まで残り、席を立った。そして帰り際、そっと墓地の方へ足を向けると、案の定、一人の男が昨日と同じ墓の前で手を合わせている。経師屋の息子、弥三郎だ。
半七は草履の音を忍ばせ、弥三郎の背後にある大きな石塔の陰まで進み、息を殺して様子を窺った。しかし、弥三郎は何も言わず、ただ一心に祈っているだけだった。
やがて彼が祈り終え、立ち去ろうとしたその時、石塔の陰からぬっと顔を出した半七と、ばったりと目があった。
弥三郎は明らかに狼狽し、そそくさとその場を離れようとする。その背中に、半七は低い声で呼びかけた。
「弥三郎さんとやら、ちいと待ちなせえ」
「へ、へい……。なんでございましょうか」
弥三郎は、おどおどしながら立ち止まった。
「おめえさんに、少し訊きてえことがある。まあ、ここへ座りなさい」
半七は彼を歌女代の墓の前へ連れ戻し、二人は草の上に腰を下ろした。今朝は薄曇りで、まだ乾ききらない草の露が、二人の草履の裏にひやりと沁みた。
「おめえさん、ご奇特にも、毎月この墓へお参りに来るそうだね」
半七はまず、何気ない口調で切り出した。
「へい……。若い師匠には、少しばかり稽古をつけていただいておりましたので」
弥三郎は、半七の正体を昨日から察しているのだろう、妙に丁寧な口ぶりで答えた。
「そこでだ。単刀直入に訊くが、おめえさん、亡くなった若い師匠と、ただならぬ仲だったんだろう」
弥三郎の顔色が一変した。彼は黙って俯き、ただ膝元の青い草を無心にむしっている。
「なあ、正直に話してもらおうじゃねえか。おめえさんは若い師匠と恋仲だった。ところが、師匠はあんな惨めな死に方をした。そして、ちょうどその一周忌に、今度は大師匠がこんなことになった。世間じゃあ、若い師匠の仇を取るために、おめえさんが大師匠を手ごめにかけたんじゃねえかと、もっぱらの噂だ。その話は、お上の耳にも届いてる」
「そ、そんな、とんでもねえ! 私がどうしてそんな大それたことを……」
弥三郎は唇を震わせ、必死に否定した。
「まあ、落ち着け。おめえさんがやったんじゃねえことは、俺が一番よく分かっている。俺は神田の半七という御用聞きだ。世間の噂なんぞを鵜呑みにして、罪もない人間をどうこうするつもりはねえ。だが、その代わり、洗いざらい正直に話してもらわにゃあ困る。……いいかい、この墓の中には、おめえさんが好いていた若い師匠が眠っているんだぜ。その師匠の前で、嘘偽りが言える義理でもあるめえ」
半七が墓を指差して言うと、弥三郎の肩が小さく震えた。花立ての桔梗も女郎花も、今日はもう力なく萎れている。それをじっと見つめているうちに、彼の長い睫毛が、じわりと潤んできた。
「親分……。何もかも、正直に申し上げます」
観念したように、弥三郎はぽつりぽつりと語り始めた。
彼と歌女代が心を通わせるようになったのは、おととしの夏。稽古の合間に言葉を交わすうち、自然と惹かれ合ったのだという。しかし、大師匠の目を盗んで、せいぜい打ち解けた話をするのが関の山で、男女の過ちは一度もなかった、と彼は断言した。
「たった一度だけでございます。去年の春、師匠と一緒にここへ墓参りに来た時、師匠が……『もう、あの家にはいられない。どこかへ連れて行ってほしい』と、そうおっしゃったんでさ。今思えば、あの時、思い切って二人でどこかへ駆け落ちでもすればよかった。ですが、私には年老いた両親も、幼い弟妹もおります。それを思うと、どうしても踏ん切りがつかず……。私は師匠をなだめ、家に帰してしまいました。それから間もなく、師匠は床に就き、そして……」
弥三郎は言葉を詰まらせた。
「師匠を見殺しにしてしまったのは、この私だ。そう思うと、明けても暮れても、気が咎めて……。それで、せめてもの詫びにと、毎月こうして墓参りに……。ただ、それだけでございます。今度の大師匠の件には、私は何一つ関わっておりません。大師匠が蛇に殺されたと聞いた時は、本当に、心の底からぞっとしました。それが、ちょうど若い師匠の一周忌の日のことだというんですから……」
若い男の目から、後悔の涙がとめどなく溢れ落ちる。その言葉に、嘘偽りはないと半七には思えた。
「若い師匠が亡くなってから、おめえさんは、師匠の家へは一度も出入りしなかったのか」
「……へい」
弥三郎は、何か口ごもるように答えた。
「隠し立てはいけねえ。大事なことだ。本当に出入りはなかったのか」
半七に鋭く問い詰められ、弥三郎は観念したように、さらに驚くべき事実を白状した。
歌女代が死んで一月ほど経った頃、大師匠の歌女寿が、突然、弥三郎の働く経師屋の店に現れた。そして、「娘の三十五日の配り物の相談があるから、今夜、家に来てほしい」と弥三郎を呼び出したのだという。
その夜、弥三郎が訪ねていくと、配り物の話などそこそこに、歌女寿はとんでもないことを言い出した。
「お前さん、うちの婿になってくれないか」
頼りの娘を亡くして寂しい。お前さんを見込んだ。どうか養子になって、この家を継いでおくれ――。
思いもよらない話の上、自分は長男で家を継ぐ身。弥三郎は丁重に断って帰った。しかし、歌女寿は諦めず、その後も何かと理由をつけては、彼に付きまとった。一度は湯島の茶屋に無理やり連れ込まれ、酒を強要された。酔った歌女寿は、婿になれというのか、夫になれというのか、訳の分からないことを口走りながら、媚びるような目つきで弥三郎に迫ってきたという。気の小さい弥三郎は、恐怖で震え上がり、必死でその場を逃げ出した。
「その茶屋へ連れて行かれたのは、いつ頃だ」
半七は、腹の中で笑いをこらえながら尋ねた。
「今年の正月でございます。その後も、三月には浅草でばったり出くわし、またどこかへ引っ張られそうになったのを、ようよう振り切って逃げました。そして……五月の末だったと思います。近所の湯屋からの帰りに、また師匠と鉢合わせしまして。今度こそ逃げられず、とうとう師匠の家まで連れて行かれたんでございます」
弥三郎が観念して格子戸を開けると、長火鉢の前に、一人の男が座っていた。
師匠より七、八歳は若いだろうか。四十がらみの、色の浅黒い男だった。その男の顔を見た途端、歌女寿はひどく狼狽したように、しばらく黙って立ち尽くしていたという。
「客人がいるのは、私にとって勿怪の幸いでございました。それを潮に、すぐに失礼して帰ってきました」
「ふうむ。その男が何者か、おめえさんは知らねえのか」
「存じません。ただ、後で女中のお村から聞いた話では、その男は師匠とひどく喧嘩をして帰って行ったそうでございます」
それ以上のことは、弥三郎も知らないようだった。半七はそこで話を切り上げ、彼と別れることにした。
「いいか、弥三郎さん。今日ここで話したことは、誰にも言うんじゃねえぞ」




