エピローグ:前代未聞の道行き
章をいくつか抜かしてしまいましたので、つじつま合わせで、エピローグに入れてます。
長くて、読みづらくなってしまっており恐縮ですが、ご容赦いただきたく。
第四章:消えた女と箱
半七が愛宕下の湯屋に着くと、熊蔵が待ち兼ねたように飛び出してきた。
「親分! きのうの若けえ野郎(色の白い方)、さっきちょいと来て、何か預けていた包みを一つ、抱えて出て行きましたよ!」
「そうか。半七は途中でそいつに会った。会津屋で泥鮫を売った帰りだろう。……それより、もう一人の方(背の高い方)はどうした?」
「そっちの野郎は、今日はまだ来やせん」
(……なるほど。泥鮫を売って金を作ってから、湯屋に来て、例の箱を一つ、持って行った、か) いよいよ、あの箱の中身が重要になってきた。
「よし、熊。悪いが、もう一っ走り、例の伊勢屋(質屋)へ行ってきてくれ。昨夜、金のほかに、何を盗られたか。品物を根こそぎ訊き出してきてくれ。なるべく詳しくな」
「へい!」
熊蔵を走らせ、半七は二階へ上がった。
火鉢の前には、お吉が一人、ぼんやりと座っていた。
半七が二日続けて、しかもこんな早い時間に来たものだから、彼女も何かを察したんだろう。 不安そうな目をしていたが、それでも無理に笑顔を作って、愛想よく挨拶してきた。
「あら、親分。いらっしゃいまし。どうも、お寒うございますこと」
茶や菓子を出して、しきりに機嫌を取ろうとする。
半七はそれを適当にあしらいながら、煙草に火をつけた。
わざと世間話から入る。
「時にお吉ちゃん。おふくろさんも、兄貴も達者かえ」
お吉の兄貴が左官で、母親はもう五十を越している、という身の上は、熊蔵から聞いていた。
「はい。おかげさまで、みんな達者でございます」
「兄貴はまだ若けえからいいが、おふくろさんはもういい年だ。昔から言う通り、『孝行したい時分に親はなし』だ。今のうちに、しっかり親孝行をしておくんだぜ」
「……はい」
お吉は、なぜか顔を真っ赤にして、俯いてしまった。
その様子が、単なる恥じらいというより、何か「気が咎めている」ように見えた。
半七は、畳みかけることにした。
「……ところが、だ。この頃のお吉ちゃんは、ちいと浮気を始めたって噂だぜ。ほんとうかい」
「あら、親分……」お吉は、いよいよ顔を赤くした。
「でもよ。去年から遊びに来る、あの二人連れの侍さんの一人(色の白い方)と、おめえが大変に心安くしてるって、だいぶ評判が高けえようだぜ」
「まあ……」
「何が『まあ』だ。そこで、お前に訊きてえのは他ほかじゃねえ。あのお侍さんたちは、一体、どこのお屋敷の衆だえ。西国さいこくの衆らしいが」
「……さあ。そんな話でございますよ」
お吉は、曖昧な返事をごまかすように笑った。
(こいつ、しらを切る気だな)
半七は、すっと声の調子を変えた。
「……それから、お吉ちゃん。 気の毒だが、そのうちに番屋まで、ちょいと来てもらうことになるかもしれねえ。そのつもりでいてくんねえよ」
脅しは、てきめんに効いた。
お吉の顔から、さっと血の気が引いた。
「お、親分……。なんの御用でございますか」
「あの二人の侍のことだ。……それとも、番屋まで足を運ぶのが面倒なら、ここで何もかも、正直に話してくれるかえ?」
お吉は、体を固くして、黙り込んでしまった。
「ええ? あの二人の『商売』は、なんだえ。いくら勤番者だって、暮れも正月も、毎日毎日、湯屋の二階にばかり転がってる訳がねえ。何か、ほかに『商売』があるんだろう。
なに、知らねえとは言わせねえぞ。おめえは、あの二人の大事な『荷物』まで預かってるじゃねえか。 正直に言え。
あの戸棚に預けてある箱は、一体なんだ!」
お吉は、青白い顔で、おどおどと震え始めた。
こんな商売をしていながら、割合に人擦れしていない娘だった。
半七の脅しに、もう息も出ないくらい怯えている。
しかし、それでも例の侍たちの身元については、頑として「知らない」の一点張りだった。
「なんでも麻布あたりにお屋敷がある、ということだけは聞いているが、それ以上は……」と、口を割らない。
半七が脅したり、賺すかしたりしているうちに、お吉はとうとう泣き出して、これだけを吐き出した。
「……なんでも、あの人たちは、仇討かたきうちに出ているんだそうでございます!」
「……かたき討?」
半七は、思わず噴き出しそうになった。
「冗談じゃねえ。芝居じゃあるめえし、今どき、この江戸のど真ん中で、二人揃って仇討もねえもんだ。……だが、まあいいや。仇討なら仇討として置いて、あの二人の居どころは、本当に知らねえんだな?」
「はい……。本当に知りません……」
これ以上責めても無駄か、と半七が考え込んでいると、階下の上がり口から熊蔵が首を出し、慌ただしく半七を呼んだ。
「親分! ちょいと顔を貸しておくれなせえ!」
「なんだ、騒々しい」
半七はわざと落ち着き払って、梯子を降りていった。熊蔵が、摺り寄ってきて耳打ちする。
「親分! 伊勢屋で盗られたもんですが、金のほかに、鮫の皮を五枚と、べんべら物(安い革)を三枚、やられたそうです!」
「……鮫の皮、だと!?」
半七は、胸が躍った。
繋がった! やはり、あの侍だ!
「そいつは、泥鮫か? それとも仕上げた皮か?」
「さあ、そりゃあ訊いて来ませんでしたが……。もう一遍、訊いてきましょうか?」 熊蔵は、また慌てて飛び出していった。
やがて、息を切らして熊蔵が引っ返してきた。
「親分……。盗られたのは、みんな磨きの白い皮(仕上げ済みの高級品)だそうです。露月町の柄巻師から、質に取ってた品物だとかで……」
「……磨き皮、か」
半七の期待は、一気にしぼんだ。
(盗んだのは、高級な『仕上げ皮』。売ったのは、安物の『泥鮫』。……やっぱり、おかしい。これじゃ、勘定が合わねえ)
半七は、ゆうべ伊勢屋へ押し込んだ強盗と、今朝、泥鮫を売りに来た侍とを、うまく結びつけることができなくなってしまった。
「どうも、判らねえ……」
時刻は、もう昼に近い。
半七は熊蔵を連れて、近所の飯屋へ入った。
「しかし、あのお吉の奴め。よっぽど、あの色の白い侍にござってる(惚れてる)らしいな」
半七がそばを啜りながら言うと、熊蔵も頷いた。
「へえ、そうです。そうです。それですから、どうも巧く行かねえんで。あいつ、今度会ったら、思うさま脅かしてやりましょうか」
「いや。おれがもう、好い加減に脅かしておいたから、たくさんだ。あんまり追いつめると、かえって碌なことはしねえ。ネズミも、袋小路に入ると猫に噛みつくからな。 ……まあ、もう少し、泳がせてみるか」
半七たちが銜くわえ楊枝で湯屋へ戻ってくると、ちょうど、湯屋の暖簾をくぐって出てくる若い侍の姿を、遠目に見つけた。
(……あいつだ!)
さっき日蔭町で泥鮫を売り、お吉を脅かしている間に箱を一つ持って行った、あの色の白い方の侍だ。
……ん? だが、あいつの手には、何も持っていない。
さっき持って行ったはずの、萌黄色の風呂敷包み(箱)は、どうした?
……いや、待て。 半七たちが飯を食いに行っている間に、もう一度、湯屋に戻ってきたのか?
半七と熊蔵が顔を見合わせていると、侍は半七たちに気づかず、角を曲がって消えていった。
「親分、今の……」
「ああ。……熊、急げ! 尾けろ! 今度こそ、絶対に離すな!」
「ようがす!」
熊蔵は、脱兎のごとく侍の後を追っていった。
半七は、胸騒ぎを覚えながら湯屋に飛び込んだ。 念のために、二階へ駆け上がる。
二階は、もぬけの殻だった。 お吉の姿が、いつの間にか消えている。
半七は、嫌な予感に襲われながら、例の着物戸棚を検めた。
(……ない!!)
さっき、半七が飯に行く前には、まだ一つ残っていたはずの、あの怪しい箱。
(人間の首が入っていた方の箱か、それとも動物の頭の方か……)
その、残りの箱が、二つとも、綺麗さっぱり消えていた。
「……やられた!!」
半七は階下へ駆け下りて、番台の男に訊いた。
「おい! お吉はどうした!」
「へ? お吉さんなら、たった今、梯子を降りて、奥へ行きましたようですが……」
半七は奥の釜場へ走った。 釜の下を焚いている三助(釜焚き)に怒鳴る。
「お吉が来なかったか!」
「へえ。今しがた、『ちょいとそこまで』とか言って、そそくさと裏口から出て行きましたぜ」
「馬鹿野郎! 何か抱えていやしなかったか!」
「さあ? 何も……。あっしは釜を見てやしたんで……」
山出しの三助は、ぼんやりしていて何も気がつかなかったらしい。
半七は、思わず舌打ちした。
(……そういうことか!)
半七たちが飯を食いに行っている間に、あの侍が戻ってきたんだ。
半七に脅されたお吉は、もうここには居られないと観念した。
そして、侍と示し合わせた。
(奴ら、二人で、箱を一つずつ分担して、ここから逃げやがった!)
侍は、残っていた箱の一つ(おそらく、さっき半七が二階にいた時に、お吉がこっそり戸棚から出して隠していたんだろう)を持って、堂々と表口から出た。
それが、さっき熊蔵が尾行していった姿だ。
そして、お吉は、もう一つの箱(二つとも、か?)を持って、裏口から脱け出した。
(いや、待て。さっき熊蔵は「箱を一つ抱えて出て行った」と言った。今、半七が見た侍は「手ぶら」だった。どっちだ?)
混乱する頭で、半七はお吉の家(明神前)まで走った。
だが、家には正直そうなおふくろさんが一人で、襤褸ぼろを繕っているだけ。
「お吉は、今朝いつもの通りに出て行ったきり、まだ帰りません」
母親の顔に、嘘は見えなかった。
半七は、がっくりと肩を落として湯屋へ戻った。
すると、やがて熊蔵も、犬のようにしょげ返った顔で戻ってきた。
「親分……。いけねえ……」
「……なんだ」
「途中で、昔のダチ(友達)にばったり出っくわしちまって……。
ちょいと、ほんの一言、話してるうちに……。奴め、どこかへ消えちまいやがった……」
「馬鹿野郎っ!!」
半七の怒声が、愛宕下の空に響いた。
「御用の途中で、友達と無駄話をしてる手先があるか!!」
今更、熊蔵を叱っても、消えた侍とお吉、そして怪しい二つの首が戻ってくるわけじゃない。
半七は、じりじりする悔しさを噛み殺した。
「……泣いても笑っても、今日はもう仕方がねえ。
熊。おめえは、お吉の奴が家へ帰るか、しっかり見張れ。
それから、例のもう一人の侍(背の高い方)!
あいつが湯屋へ来たら、今度こそ、今度こそ、しっかりと後をつけて、居どころを突き止めろ!
いいか! こいつは、てめえが持ち込んできた種じゃねえか! 少しは身を入れて働け!」
第五章:明かされた真相
その日は、それきりで解散した。
半七は家に帰ったものの、どうにも疳かんが高ぶって、一睡もできなかった。
あの二つの首。仇討。質屋強盗。泥鮫。
何もかもが、ぐちゃぐちゃだ。
明くる朝は、ひどい寒さだった。
半七はいつもの通り、凍るような冷水で顔を洗い、家を飛び出した。
朝日のあたらない横町は、鉄のようにカチカチに凍っている。
近所の子供が悪戯いたずらに放り出した、隣家の天水桶の氷が、二寸(約6cm)はあろうかという厚さに見えた。
半七は白い息を吐きながら、愛宕下の湯屋へ急いだ。
「どうだ、熊。あれきり、変ったことはねえか」
「親分……。どうも、お吉の奴、駈け落ちをしやがったようです」
熊蔵は、顔をしかめてささやいた。
「とうとう、あれっきり家へは帰らねえそうで。今朝がた、おふくろさんが、泣きそうな顔で訊きに来やしたよ」
「……そうか」
半七の額にも、太い皺が刻まれた。
(昨日の侍と、一緒に逃げたか……)
こうなると、もう手掛かりは一つしかない。
まだ姿を見せない、もう一人の仲間。
あの、背の高い方の侍だ。
「……まあ、仕方がねえ。もう一日、気長に網を張ってみよう。
もう一人の奴が、何も知らずに、のこのこやって来ねえとも限らねえからな」
「そう、ですなあ……」
熊蔵も、すっかり張り合いが抜けたように、ぼんやりしていた。
半七は、二階へ上がった。
今朝は、お吉がいない。
二階には火の気もなく、シンと冷え切っていた。 熊蔵の女房が、言い訳をしながら、冷たい火鉢や茶を運んできた。
朝の早い時間、二階へ上がってくる客など、誰もいない。
半七は、煙草をふかしながら、ただ一人、つくねんと座っていた。
春だというのに、凍てつくような寒さが、襟首からぞくぞくと沁みてくる。
(お吉の奴め。近頃は浮わついて、障子もろくに貼り替えやがらねえ)
熊蔵が、窓の破れた障子を見ながら舌打ちしている。
半七は、返事もせずに考え込んでいた。
人間の首。動物の頭。泥鮫の皮。質屋強盗。
(……切支丹か?妖術使いの山師のたぐいか? それとも、ただの強盗か?)
それにしても、昨日、あの侍の尾行をしくじったのが、つくづく残念だった。
法螺熊などというドジな手先を頼まずに、いっそ半七自身が、すぐに尾けて行けばよかった。
今更、後悔しても始まらない。
半七の機嫌が悪いので、熊蔵も手持無沙汰で黙っている。
やがて、芝の山内(増上寺)の鐘が、四ツ(午前十時)を打った。
その時。
階下の格子戸が開く音がした。
番台の男が、「いらっしゃい!」と挨拶する声に続いて、
(……コン、コン) 二階に合図をするような、咳払いの声が聞こえた。
半七と熊蔵は、ハッと顔を見合わせた。
「……野郎。来たか?」
熊蔵が慌てて立ち上がり、階下を覗き込もうとした、その途端。
タタタ、と足早に梯子を昇ってくる音がした。
背の高い、一人の若い侍が、刀を二本差したまま、上がってきた。
「おあがり下さいまし! 毎日、お寒いことでございます!」
熊蔵が、わざとらしい笑顔を作って、挨拶した。
「どうぞ、こちらへ。けさは女が休んだもんですから、二階も散らかっておりやすが」
「……女は、休んだか」
侍は、刀掛けに大小をかけながら、いぶかしげに首をひねった。そして、仔細ありげに訊いた。
「お吉は、病気かな」
(……こいつ、何も知らねえな)
半七は、熊蔵と目配せした。
「さあ、まだ何とも言ってまいりませんが。流行風邪はやりかぜでも引いたんでございましょう」
熊蔵が、うまく話を合わせる。
侍は、黙って頷くと、やがて着物を脱いで、階下の風呂場へ降りていった。
「……あれが、連れの奴か」
半七が小声で訊くと、熊蔵は目で頷いた。
「親分。どうしやしょう」
「まさか、いきなり引っ括るわけにも行くめえ。
……まあ、ここへ上がってきたら、てめえが何とか巧く言って、連れの侍(色の白い方)のことを訊き出してみろ。
その返事次第で、また工夫もあるだろう。
いいか、熊。
なにしろ相手は侍だ。無暗にやっとうを振り回されると危ねえ。
……その大小は、どこかへ隠してしまえ」
「へい! そうですね! 誰か、加勢に呼びやしょうか」
「それには及ぶめえ。たかが一人だ。何とかなるだろう」
半七は、懐の十手を探り当てた。
二人して、息を殺し、侍が戻ってくるのを待ち構えた。
やがて、侍が湯から上がってきた。
濡れ手拭を肩にかけ、二階にどっかりと腰を下ろす。
熊蔵が、わざとらしく茶を運んでいった。
「どうも。ところで、旦那。
いつものお連れさん(色の白い方)は、どうしなすったんで?
昨日も今日も、お顔を見せやせんが」
侍は、きょとんとした顔をした。
「……何? 高島(色の白い侍)は、昨日も今日も来ていないのか?」
「へえ。てっきり、ご一緒かと思ってやしたが」
「……おかしいな」
侍は、本気で心配そうな顔をしている。
(……こいつ、本当に何も知らねえ)
半七は、しびれを切らして、前に出た。
「お侍さん。ちと、訊きてえことがある」
「……何だ、貴公は」
侍が、訝いぶかしげに半七を見る。
「神田の十手持ちで、半七と申しやす。
あんたの連れ、高島とかいうお侍は、昨日、ここの女(お吉)と、駆け落ちしなすったぜ」
「な……何だと!?」
侍は、がばりと立ち上がった。
「馬鹿な! 高島が、お吉と!? それは真か!」
「ほんとうでさぁ。 ……それだけじゃねえ。あんたがたが、この湯屋の二階で、こそこそと強盗の相談をしていたことも、わかってんだ!」
「ご、強盗!?」
「とぼけるな!
一昨日、伊勢屋(質屋)に入ったのは、あんたたちだろう!
『軍用金』だの何だのと言って、八十両と鮫皮を奪った!
その証拠に、あんたの連れは、昨日、日蔭町で泥鮫を売っていた!
さあ、何もかも吐いてもらおうか!」
半七は、懐から十手を引き抜き、侍の目の前に突きつけた。
侍は、半七の十手と、半七の顔を、交互に見た。
それから、自分の刀が刀掛けから消えていることに気づき、絶望的な顔をした。
だが、次の瞬間。
侍は、なぜか、プッと噴き出した。
「……強盗? 伊勢屋? 鮫皮……?
はは、はははは!
こいつは、とんだ勘違いだ。
……岡っ引き殿。どうやら、話がとんでもない方へねじ曲がっているらしい」
「……何?」
「いや、失敬。
だが、我々は強盗などではない。
……駆け落ち、というのは、本当かもしれんが。
よろしい。すべて、お話ししよう」
侍は、観念したように、ゆっくりと座り直した。
エピローグ:
「いやあ、馬鹿なお話でしたよ」
半七老人は、茶をすすりながら、本当に楽しそうに笑った。
「今考えると、実に馬鹿馬鹿しい。
それから、その侍が上がってくるのを待っていて、こっちは完全に強盗一味だと思い込んでるでしょう。
熊蔵と二人で、もう息巻いちまって。
こっちが焦あせってるもんだから、とうとう十手まで出しちまって。
いや、大しくじりでしたよ。ははは。
何事も、焦っちゃいけませんねえ。
そうすると、その侍も切羽詰まったとみえて、ようよう本音を吐き出したんですがね。
……先生。やっぱり、お吉が言った通りでしたよ。
あの二人の侍、本当に仇討だったんです」
「ええっ! 本当に仇討?」僕は、思わず訊き返した。
「まったくの仇討でした。
それがまた、おかしくてね。まあ、お聴きなさい」
半七老人の話は、こうだった。
半七に十手を突き付けられた侍は、名を梶井源五郎といった。
西国すじの、とある藩の藩士。
去年の春から、江戸へ勤番に出て来て、麻布の藩屋敷に住んでいた。
この梶井という男、なかなかの道楽者で、朋輩の高島弥七(例の色の白い侍)と大の仲良し。
二人して、吉原や品川を遊び回っていたらしい。
去年の十一月。
この道楽二人組が、同じ藩の神崎郷助と、茂原市郎右衛門という二人を誘い出して、品川のある遊女屋へ繰り出した。
その席で、酒の上から、神崎と茂原が、とんでもない大喧嘩を始めた。
梶井と高島が、どうにかこうにか仲裁して、その場は納まった。
だが、神崎は、どうにも虫の居所が悪いとみえて、「もう帰る」と言い出した。
もう、とっくに屋敷の門限は過ぎている。
「今夜は泊まっていけ」と梶井たちが引き留めたが、神崎は「どうしても帰る」と強情を張った。
仕方なく、四人連れ立って、夜道を屋敷へ帰ることになった。
高輪たかなわの海岸にさしかかったのは、夜の五ツ(午後八時)過ぎ。暗い海に、漁船の篝火かがりびが、ポツポツと浮かんでいる。
酔い覚ましの北風が、やけに寒い夜だった。
その時だ。
さっきから黙って歩いていた神崎が、だしぬけに刀を抜いた。
暗闇で、ギラリと何かが光ったかと思うと、茂原が「あっ」と言って、その場に倒れた。
神崎は、血の付いた刀をそのままに、一目散に芝の方角へ走り去ってしまった。梶井と高島は、あっけに取られて、突っ立っているしかなかった。茂原は、右の肩から袈裟懸けに斬り下げられ、ただ一刀で、もう息が絶えていた。
……さて、藩屋敷は大騒ぎになった。悪所(遊郭)で酔狂の喧嘩、おまけに朋輩を殺あやめるなんざ、重々不埒ふらち。すぐに神崎の行方を探索させたが、五日、十日経っても、何の手がかりもねえ。
殺された茂原には、市次郎という弟がいた。
この弟が、「兄の仇討をさせてほしい」と屋敷へ願い出た。
仇討は、許可された。
ただし、表向きに「仇討のための休暇」をやることはならん、と。
「兄の遺骨を郷里へ送る」という名目で江戸を出て、そのついでに、仏寺に参詣したり、親戚の元へ立ち寄ったりすることは許す、と。
つまり、「参詣」とか「訪問」とかいうことにして、仇(神崎)の行方を尋ね歩け、というわけだ。
そして、問題は、この梶井と高島。
遊里に立ち入って身持ちが悪い、というので、まずお叱りを受けた。おまけに、刃傷の現場にいながら、相手(神崎)を取り逃がしたのは、不用意の極みだ、と。
その「過怠」として、二人は、仇討の助太刀を命じられた。ただし、条件がある。
「他国へは行くな。江戸四里四方を毎日探し回れ。百日のうちに、仇の在所ありかを探し出せ」 ……と、こういう厳命だった。
「……それで、先生。もうお分かりでしょう」と、半七老人は笑った。
「その二人、仇の神崎が江戸に隠れてるかどうかも分からねえのに、厳命だから、毎日、暁六ツ(午前六時)に屋敷を出て、夕六ツ(午後六時)まで、江戸中を探し回らにゃならなくなった。
はじめの十日ほどは、真面目に歩き回っていたそうですよ。
ですが、この難行苦行に、道楽者の二人は、だんだん疲れてきましてね。
しまいには、相談して、仇討のフリをすることにしやがった。
毎朝、いつもの時刻に屋敷の門を出る。
だが、そのまま、そこらの水茶屋や、講釈所や……そして、あの熊蔵の湯屋の二階へ入り込んで、一日中、そこでゴロゴロと遊び暮らす。
『今日は浅草を回りました』
『明日は本郷の屋敷町を調べます』
屋敷には、そんな好い加減な報告だけをして、毎日、どこかでサボっていた、と。
仇のありかなんて、知れるわけがありやせん。
毎日、銭の要らない場所を選んで、とうとう、熊蔵の湯屋の二階を根城ねじろにしちまったんです。 時々、外へ出て歩いていたのは、半七や熊蔵が聞いた『脅して取っ捕まえる』っていうのは、仇討の相談のフリをしてたんでしょう」
「なるほど……。それで、毎日来ていたわけですか」
「そうなんです。そのうちに、一方の高島(色の白い方)は、二階番のお吉と、仲良くなりすぎちまった。
お吉の方でも、『仇討なんぞ、あぶないからおよしなさい』なんて、しきりに心配して、引き留めるようになった。
そうこうしているうちに、百日の期限が、だんだん近づいてくる。
このままじゃ、不首尾(失敗)は目に見えてる。
江戸にいるかどうかも分からねえ奴を探せってのが無理な話なんですが、それも屋敷の命令ですからね。
国許へ追い返されるのは、確実だ。
そこで、高島の方が、決心しちまった。
『いっそ、浪人する』と。 国へ返されたら、もうお吉に逢えませんからね。
それで、高島は、屋敷を出る(浪人する)準備を始めた。
毎朝、屋敷を出る時に、自分の大事な手道具(身の回り品)を、少しずつこっそり抱え出して、お吉の元へ運び込んでいたんです。
そのうちに、湯屋の亭主(熊蔵)が、だんだん自分たちに目をつけ始めた。
『ここの亭主は、岡っ引きの手先だ』ってことを、お吉も高島にささやいた。 高島も、慌てたんでしょう。
そして、昨日、あっし(半七)がお吉を脅かしちまった。それで、二人はもう観念して、昨日、一緒に駆け落ちしちまった、と。 相棒の梶井は、その計画を何も知らされずに、今日、いつものように『サボり』に来たところで、あっしに十手を突き付けられた……。
これが、真相でした」
「……では、あの二つの首は?」僕は訊ねた。
「ああ、あれですか。 あれは、高島が家重代の宝物だそうで」
梶井の説明によると、豊臣秀吉の朝鮮征伐の時、高島の十代前の先祖が、藩主に従って朝鮮へ渡った。その時に、分捕り品として持ち帰ったのが、あの二つの首。
干からびた人間の首と、得体の知れない動物の頭。
それは、朝鮮の怪しい巫女が、まじないや祈祷の種に使う、神様みてえな代物だったそうです。
余りにも珍しいんで持ち帰ったが、正体は誰にも分からない。
ともかく、一種の宝物として高島の家に代々伝えられていて、藩中でも知らぬ者はいないほどの品だった。
高島は、屋敷を立退くに際して、まず、この奇怪な宝物を、お吉に預けていた。そして、駆け落ちする時に、二人で一つずつ、大事に抱えて逃げていった、と。
「……人間の首と、龍(?)の頭を抱えて、若い男と女が道行みちゆきですよ。思えばおかしくもあり、哀れでもあり……。実に、前代未聞の駆け落ちですな」
「では、あの泥鮫は?」
「泥鮫の方は、梶井も知らねえ、と。
ただ、高島の爺さんというのが、昔、長崎に詰めていたことがあるそうで。
おそらく、その当時に異国人からでも手に入れたんだろう、と。
駆け落ちの資金にするために、日蔭町の店へ売っ払ったんでしょうな」
「……」
「今でこそ、こうして笑い話にしてますがね、先生」
半七老人は、再び額を撫でながら、言った。
「その時には、あっしも引っ込みが付きませんでしたよ。
なまじ、十手を振り回したり、強盗だなんだと決めつけたりした手前、今更『そうですか、サボりでしたか』とは言えやせん。
実に、始末に困りやした。
でも、幸いなことに、その梶井という侍も、案外、捌さばけた人でしてね。こっちが強盗と間違えたと知って、一緒に腹を抱えて笑ってくれましたから、まあ、どうにか納まりは付きましたよ。
片方の高島という侍は、それっきり屋敷へは帰らなかったそうです。お吉も、音沙汰なし。
二人は、あの奇怪な宝物を抱えたまま、なんでも神奈川あたりに隠れているとかいう噂も聞きやしたが、その後、どうなったことやら。
肝心の仇討の方は、これも、どうなったか聞きやせん。梶井という人は、別に国へも追い返されず、その後ものうのうと、時々、熊蔵の湯屋の二階へ遊びに来てやしたよ。
ああ、それから。
肝心の、伊勢屋へ入った質屋強盗ですがね。
あれは、まったくの別物でした。
その一月ひとつきほど後に、吉原で御用になりましたよ。
明治になってから、ある物識りの人に、あの首の話をしましたらね。
『そりゃあ、多分、木乃伊ミイラのたぐいだろう』という話でしたが……。
どうです、先生。
法螺熊の出鱈目な報告を真に受けて、とんだ大山鳴動ねずみ一匹、いや、ねずみすら出なかった、という、あっしの大失敗談でさ」




