第二章:二つの首
翌朝、七草粥で腹ごしらえを済ませた半七は、出がけに八丁堀の旦那の屋敷へ顔を出した。
上役からきつく釘を刺されることになった。
「半七、近頃、浪人者による押し込みや強盗が頻発している。お上の御威信にも関わる。火付盗賊改も一層、取り締まりを厳重にするそうだ。お前のところでも、些細な火種も見逃すな。いいな」
この一言が、半七の心に火をつけた。
(昨日の熊蔵の話、いよいよ怪しい。下手な押し込みをされて、火盗改に手柄を横取りされたんじゃ、神田三河町の半七の名が廃る)
半七は旦那の屋敷を飛び出すと、そのまま真っ直ぐ、愛宕下の湯屋へ急いだ。朝の四ッ半(午前十一時)頃だった。 往来には、遅い年始回りの侍や、賑やかな獅子舞の囃子はやしがまだ残っている。
半七は裏口からこっそり入った。熊蔵が待っていた。
「親分! ちょうどいいところです。一人の野郎(例の色の白い方)が来てます。今、湯にへえってるようです」
「そうか。そいつは好都合だ。じゃあ、俺もひとっ風呂、泳いでくるとしよう」
俺はわざわざ表へ回り、普通の客を装って湯銭を払った。
まっ昼間の銭湯は、ガラガラに空いていた。
武者絵が描かれた柘榴口(湯船への低い入り口)の奥から、陽気な都々逸の声が聞こえてくるが、客は四、五人しかいない。
俺は湯船にざぶりと浸かり、それとなく目当ての男を観察した。
確かに、熊蔵の言う通り、なかなかのいい男だ。
俺は湯気にかこつけて、男の全身をじろりと見た。
(……ん?)
俺はあることに気づいた。
男の左足。右足に比べて、心なしか足首からふくらはぎにかけて、太く、筋肉が発達している。
(こいつ……偽者じゃねえぞ)
武士というものは、常に重い大小を左腰に差している。そのせいで、自然と左足で体を支える癖がつき、左足が右よりも発達するものだ。
裸でいるところを見届けたんだから、こりゃあ間違いない。
俺は早々に湯から上がると、着物を肌に引っ掛けたまま、二階へ上がった。
熊蔵も、そっと後から付いてくる。
「どうでした、親分」
「熊、ありゃ偽者じゃねえ。本物の侍だ」
「へっ!? モノホンの侍で?」
「足を見ろ。左足が発達してやがる。ありゃあ、ガキの頃から大小を差し慣れてる足だ」
「じゃあ、御家人でしょうか」
「いや、髪の結い方が違う。どこかの藩中(藩士)だろうな」
「なるほど……」と、熊蔵は納得いかない顔で唸った。
だが、すぐに何か思い出したように、声を潜めた。
「そこで親分。きょうは、奴らが何だか風呂敷包みのようなものを、重そうに抱えて来やした。それをお吉に預けてるのを、ちらりと見たんですが……。ちょいと、検あらためてみやしょうか」
「そういや、お吉の姿が見えねえようだが」
「へい。今時分は客も来ねえもんで、子供みたいに表の獅子舞を見に行きやした。ちょうど誰もいねえ。一応、検めておきやしょう。何か手がかりが見つからねえとも限りやせん」
「……そりゃあ、そうだな」
半七も、本物の侍が何をそんなに大事にしているのか、興味が湧いてきた。 熊蔵は、客が着替えを預ける貸し切り棚の一つをこじ開け、一つの風呂敷包みを持ち出してきた。
濃い藍染めの風呂敷だ。
それを解くと、中には更に、萌黄色の風呂敷に包まれた、二つの箱のようなものが入っていた。
「ちょいと、あっしは下を見てきますから」
熊蔵は階子はしごを降りて、すぐにまた昇ってきた。
「あいつがもし湯から揚がったら、番台の奴が咳払いをして知らせる手はずになってますから、大丈夫です」
二重に包まれた風呂敷の中からは、溜め塗りのような、古びた箱が二つ現れた。
能楽の仮面めんでも入れるような箱だ。
底から薄黒い平打ちの紐ひもが回され、蓋ふたの上で十文字に固く結ばれている。
好奇心も手伝って、熊蔵は急いでその一つの箱の紐を解いた。
蓋を開けても、中身はすぐには判らなかった。
中に納められた「何か」は、魚の皮とも油紙ともつかない、薄黄色いものに固く包まれていた。
「こいつぁべらぼうに厳重だな……」
熊蔵がその包みを解いた。
その瞬間、熊蔵は「あっ」と、息を呑むような短い悲鳴を上げた。
俺たち二人の目の前に現れたもの。
それは、人間の首だった。
いや、生々しいものじゃない。
何百年、もしかしたら何千年も経っているんじゃないかと思えるほど、完全に枯れ切った、古い古い首だった。皮膚の色は、腐った木の葉のように黒ずみ、黄ばんでいる。俺や熊蔵の素人目には、それが男なのか女なのか、それすらも判別がつかなかった。
二人とも、息を呑んだまま、この奇怪な首をしばらく見つめていた。
「お、親分……。こりゃあ、何でしょう」熊蔵の声が震えている。
「……わからねえ。なにしろ、そっちの箱も明けてみろ」
熊蔵は、無気味そうにもう一つの箱を明けた。その中からも、同じように油紙のようなものに包まれた、一個の首が転がり出た。
しかし、それは人間の首ではなかった。
短い角つのと、大きく裂けた口、そして牙。
龍とも蛇とも、あるいは鬼ともつかない、一種奇怪な動物の頭だった。
これもまた、肉は黒く枯れ果てて、まるで木か石のように固くなっていた。
奇怪な発見がこうも続いて、俺と熊蔵は、少なからず怯おびやかされた。
「親分。こいつら、やっぱり偽者ですよ! 香具師やし(大道芸人や見世物師)のたぐいです! 得体の知れない首を持ち歩いて、見世物の種にでもするんですよ!」
熊蔵が早口で言った。
だが、俺は素直に頷けなかった。
(あの足は、間違いなく本物の侍だ。侍が、こんな見世物道具を? しかも、なぜそれを湯屋の二階番の小娘なんかに、軽々しく預けておく?)
この二つの奇怪な品は、一体なんだというんだ。
俺の知恵では、この謎を解くのは難しかった。
(まさか、魔法使いか……呪まじない師か。それとも……)
俺の脳裏に、もう一つの可能性が浮かんだ。
(……切支丹キリシタンか?)
黒船が来て以来、宗門改めも一層厳しくなっている。
もし奴らが禁制の切支丹宗門の輩で、これが何か、バテレンの仏舎利みてぇなもん(!)だとしたら、これはとんでもない大事件だ。
「こいつはいけねえ。ちょっと、簡単には判らねえぞ……」
その時だった。
階下でしたたかな咳払いの声が聞こえた。番台からの合図だ。
「やべえ、揚がってきやがった!」
二人は大慌てで、この疑問の二品を箱にしまい、風呂敷に包み、元の着物戸棚へ押し込んだ。
獅子舞の囃子も遠くへ去り、入れ違いにお吉が外から帰ってきた。
そして、例の侍も、濡れ手拭を下げて二階へ昇ってきた。
俺は素知らぬ顔をして、茶をすすった。
お吉は、俺の顔(神田の岡っ引きの親分)を識っていた。
侍にそっと何か耳打ちしたらしい。侍は、さっきまでの湯上りのくつろいだ様子から一変し、隅の方に固くなって坐ったまま、何も口を利かなくなった。
(……ちっ。感づかれたか)
半七は熊蔵の袖を引いて、一緒に階下へ降りた。
「お吉が変な目つきをしたんで、野郎、すっかり用心しちまった。今日はもう駄目だろう」
熊蔵が、忌々いまいましそうに呟く。
「なにしろ、あの二つの箱をどうするか、俺がしっかり見張っておきます」
「ああ。それから、もう一人の背の高い奴は、今日はまだ来てねえんだな」
「へい。どうしたか、遅いようです」
「なにしろ、目を離すな。頼んだぜ」
半七は湯屋を出た。 初春の賑やかな往来を歩きながらも、彼の頭の中は、あの二つの乾いた首のことでいっぱいだった。




