第一章:法螺熊の密告
「ありゃあ、文久三年の正月のことでしたな」
老人は、懐かしそうに目を細めて語り始めた。
松の内も明けた七日の夕暮れ時。半七の手先の一人、熊蔵という男が、神田三河町にある半七の家へ、息を切らして駆け込んできた。
熊蔵は愛宕下で湯屋を営んでいることから、仲間内では「湯屋熊」と呼ばれている。しかし、そそっかしく早合点しがちな性格で、時々とんでもないガセネタを掴んできては騒ぎ立てるため、「法螺熊」という、ありがたくないあだ名まで頂戴していた。
「親分、今晩は! 実は、ちいとばかし耳に入れておきてえ儀が!」
長火鉢にあたりながら、半七は「またいつもの法螺話か」と、顔には出さずに煙管をふかした。
「どうだい、熊。春になって、何か面白い話でもあったか?」
「いや、実はまさにそれで! 親分、こいつはとんでもねえ話でさあ!」
「なんだい、いつにも増して大袈裟だな。いつもの法螺熊じゃねえだろうな」
「とんでもねえ! こればっかりは、決して法螺なんかじゃございやせん!」
熊蔵は真顔になると、ぐいと膝を乗り出した。
「去年の霜月の半ば頃から、あっしの湯屋の二階に、毎日毎日通ってくる妙な二人組がおりやしてね。どう考えたっておかしいんでさ!」
当時の湯屋には、たいてい二階に休憩所のようなスペースがあった。湯上がりの客が将棋を指したり、昼寝をしたり、茶を飲んで世間話をしたりする、一種の社交場だ。熊蔵の湯屋にも二階があり、お吉という評判の小綺麗な娘が茶汲みとして働いていた。
「そいつらが、どうにも怪しいんでさ。何だと思います、親分? なんと、武士なんでさあ」
「武士が湯屋の二階にいるなんざ、当たり前だろうが」
半七は笑った。侍は、大小を預けるために、風呂に入る前には必ず二階へ上がる決まりになっていたからだ。刀掛けがそこにしかなかった。
「ですがね、親分! そいつら、毎日欠かさず来るんでさ! 大晦日も元日も、二日も、一日も休まずにね! いくら江戸詰めの勤番武士だって、正月から湯屋の二階でごろごろしてるなんて話、聞いたことありやすかい!?」
「……そりゃあ、ちいと妙だな」
「でしょう!? おまけに、いつも二人連れでやってきて、夕方になるとぴったり連れ立って帰っていく。これがもう五十日も続いてるんでさあ。どう考えたって、まともな侍じゃありやせん!」
熊蔵の剣幕に、半七も少し真面目な顔つきになった。
「どうです、親分。そいつら、偽物の侍だと思いやせんか? あっしは睨んでるんでさ。奴ら、侍のふりをしちゃいるが、正体はとんだ悪党に違いねえ! あっしの店を根城にして、夜な夜な悪事を働いてるんでさ!」
熊蔵は、自分が聞き耳を立てたという話を、興奮気味に付け加えた。
「一人の奴が、こう言ってやした。『むやみに斬り殺すんじゃねえぞ。素直に言うことを聞きゃあいいが、逆らうようなら脅してでも捕らえろ』ってね。どうです、ろくな相談じゃねえでしょう!」
当時、黒船が来て以来、世の中はにわかに騒がしくなっていた。「攘夷の軍資金」と称して裕福な商家に押し入る浪人者が横行していたが、その実態は、質の悪い御家人や町のならず者が徒党を組んだ、ただの強盗団であることが多かった。
(熊蔵の湯屋の二人組も、その類かもしれんな……)
半七の胸に、職業的な疑念がむくむくと湧き上がった。
「よし、分かった。明日、あっしが直に見届けてやろう」
「へい! お待ちしておりやす!」
熊蔵は、自分の手柄のように胸を張って帰っていった。




