第一章:幽霊屋敷のSOS
その頃、番町に松村彦太郎という三百石取りの旗本がいた。
江戸時代の番町(現在の東京都千代田区一番町~六番町周辺)は、怪談の舞台として知られる一方で、実際には江戸城の西側を守る、格式高い武家屋敷街。江戸城の西側に位置し、甲州街道(現在の新宿通り)にも近いこのエリアは、軍事的な要所であり、大事な防衛拠点でもあった。
この松村はなかなかのインテリで、特に蘭学、つまり西洋の学問に詳しかったから、外国奉行がらみの役職に就いていて、ちょっと羽振りが良かった。
俺、つまり若き日のK――まあ、京四郎とでも呼んでくれ。俺はその松村とは、家が近いこともあって顔見知りだった。
ある日のことだ。その松村の妹のお道さんが、三つになる娘のお春ちゃんを連れて、兄の屋敷に駆け込んできた。
「お兄様、もうあの家にはいられません! どうか、離縁のお許しをいただけるよう、お取り計らいくださいまし!」
突然のことに、松村は度肝を抜かれた。お道さんは四年前、小石川の西江戸川端にある小幡伊織という、これも旗本の屋敷に嫁いだばかり。夫婦仲も円満だと聞いていたし、可愛い娘までいる。一体何があったのか。
「わけを言え、お道! わけも聞かずにそんな願いが聞き届けられると思うのか!」
松村が問い詰めても、お道さんは青い顔で首を横に振るばかり。
「女が一度嫁いだ以上、みだりに家を出るなど許されることではない! 舅や小姑に意地悪されているわけでもなし、夫の伊織殿は真面目で温厚な人物。何の不満があるというのだ!」
兄がどれだけ叱っても、諭しても、お道さんは「一日もあの屋敷にはいられません」と、まるで子供のように同じ言葉を繰り返すばかり。
兄の松村も、だんだん別の心配が頭をよぎってきた。
(まさか……とは思うが……)
小幡の屋敷には若い侍もいる。近所の屋敷には、暇を持て余した旗本の次男三男坊もごろごろしている。もしや妹が、何か過ちを犯してしまい、自ら身を引かねばならないような状況に陥ったのではないか……。
そう思うと、松村の追及はますます厳しくなった。
「いいか、お道! どうしてもわけを明かさぬのなら、こちらにも考えがある! 今からお前を小幡殿の屋敷へ連れて行き、本人の目の前で洗いざらい吐かせてやる! さあ、行くぞ!」
襟髪を掴まんばかりの兄の剣幕に、お道さんもついに観念したのか、泣きながら全てを話し始めた。
そして、その話の内容は、松村を再び驚愕させるものだった。
事件が始まったのは、七日前の夜。三月三日の雛祭りの人形を片付けた、その晩のことだったという。
お道さんが枕元で寝ていると、ふと人の気配がした。見ると、そこに散らし髪の若い女が、真っ青な顔で座っていた。女は頭から着物まで、まるで水の中から上がってきたかのように、びしょ濡れだった。
その立ち居振る舞いは武家の奉公に慣れた者らしく、畳にきちんと手をついて、深々とお辞儀をしている。何かを言うわけでもなく、脅かすような素振りも見せない。ただ、静かにそこにうずくまっているだけ。だが、それが例えようもないほどに、物凄かった。
お道さんは恐怖に凍りつき、思わず布団の袖に顔をうずめた。――そこで、はっと夢から覚めた。
「ひぃぃっ!」
それと同時に、隣で寝ていた娘のお春ちゃんが、火がついたように泣き叫んだ。
「ふみが来た! ふみが来たよう!」
びしょ濡れの女は、幼い娘の夢にまで現れたらしい。そして、お春ちゃんが叫んだ「ふみ」というのが、どうやらその女の名前らしかった。
お道さんは震えながら一夜を明かした。武家の娘として、幽霊などという非科学的な話を口にするのは恥ずかしい。彼女はその夜の出来事を夫にも秘密にしていた。
だが、その次の夜も、またその次の夜も、びしょ濡れの女は枕元に現れた。そしてそのたびに、お春ちゃんも「ふみが来た!」と泣き叫ぶ。
さすがに耐えきれなくなったお道さんは、夫の伊織に全てを打ち明けた。だが、伊織は「馬鹿なことを言うな。疲れのせいで悪い夢でも見たのだろう」と、笑って取り合ってくれなかった。
しまいには、「武士の妻ともあろう者が、情けない!」と、機嫌を損ねる始末。
「いくら武士でも、妻がこれほど苦しんでいるのを見て見ぬふりをするなんて……!」
お道さんは、夫の冷淡な態度が恨めしくなってきた。このままでは、得体の知れない幽霊に殺されてしまうかもしれない。
(こうなったら、娘を連れて逃げ出すしかない!)
彼女はもう、夫のことも、自分の体面も、考える余裕がなくなっていたのだ。
「……というわけでございます。どうかお察しくださいまし」
思い出すだけでも恐ろしい、というように、お道さんは時折息を呑み、ぶるっと体を震わせた。その怯えた瞳は、とても嘘をついているようには見えなかった。
兄の松村は、腕を組んで唸った。
(そんな馬鹿なことが、本当にあるのだろうか……)
常識で考えればあり得ない。夫の小幡が取り合わないのも無理はない。だが、妹は本気で思い詰めている。これはただ事ではない。
「……わかった。お前の言い分だけでは判断できん。ともかく、俺が小幡殿に会って、直接話を聞いてみよう。万事、この兄に任せておけ」
松村は妹を屋敷に残すと、すぐさま草履取りを一人連れて、小石川の西江戸川端へと向かった。




