第四章:愛憎の告白
とうとう半七は、店の土間で酔い潰れてしまった。大の男が、店のど真ん中で大の字になって寝ているのだから、商売の邪魔になることこの上ない。しかし、先ほどの剣幕を思うと、誰も迂闊に手を出すことができなかった。
「……まあ、仕方があるまい。しばらく、このままにしておくしかない」
十右衛門は、諦めたようにそう言うと、奥の座敷へ入り、主人夫婦と何やら話し込み始めた。店の者たちも、気を取り直して、それぞれの仕事に戻っていく。
それから、小半時ほど経っただろうか。
今まで死んだように眠っていたはずの半七が、むくりと起き上がった。
「ああ、酔った、酔った。……ちいと、台所で水を一杯、もらってくるか。なに、お構いなく。わっしが自分で行きやすんで」
半七は、そう言うと、ふらふらとした足取りで奥の方へと消えていった。
しかし、彼が向かったのは台所ではなかった。まっすぐに奥座敷へと回り込むと、中庭に面した縁側から、ひらりと身軽に飛び降りる。そして、大きな南天の木の茂みに、まるで蛙のように腹這いになって、息を殺した。
それから、わずかな時間が流れた後。
一人の男の姿が、同じ縁側に現れた。
和吉だ。
彼は、抜き足差し足、猫のように忍び寄り、お冬のいる四畳半の障子の前で足を止めた。中の様子を、窺っているようだ。
やがて、彼が意を決して、そっと障子に手をかけた、その瞬間。
南天の茂みの中から、半七が音もなく顔を出した。
障子の内側からは、くぐもった男の声が聞こえてくる。あまりに低い声なので、何を言っているのか、はっきりと聞き取ることはできない。
じりじりとした思いで待っていると、やがて男の声に、お冬のすすり泣く声が混じり始めた。
半七は、これ以上待てないと判断し、そろそろと隠れ場所から這い出した。そして、泥棒猫のように、静かに縁側へと這い上がった。
障子一枚を隔てた向こう側で、和吉の声が、涙に震えながら、途切れ途切れに聞こえてきた。
「……ねえ、お冬さん。今も言った通りなんだ。わしが、若旦那を殺した。……それもこれも、みんな、あんたが恋しかったからなんだ」
その声は、絶望と後悔に満ちていた。
「わしは、一度も口に出したことはなかったが、ずっと、ずっと前から、あんたに惚れていたんだ。どうしたって、あんたと夫婦になりたい。そう、思い詰めていたんだ。……それなのに、あんたは若旦那と……。そして、近いうちに、表向き、若旦那の嫁になる、と……。その時の、わしの気持ちが、あんたに分かるかい。お冬さん、どうか察しておくれ。それでも、わしはあんたを憎いとは思わなかった。今だって、憎いとは思っちゃいない。ただ、ただ、若旦那が憎くて、憎くて、仕方がなかったんだ」
和吉は、一度言葉を切り、鼻をすすった。
「いくらご主人様でも、もう我慢がならねえ、と……。わしは、気が狂っていたのかも知れねえ。……今度の、年忘れの芝居を、これ幸いと、日蔭町で出来合いの刀を一本買ってきて、幕が開く直前に、こっそりとすり替えておいたんだ。……そいつが、見事に、うまくいって……」
「それでも、若旦那が血まみれになって楽屋へ担ぎ込まれてきた時には、わしも、全身に冷水を浴びせられたように、ぞっとした。それから、若旦那が息を引き取るまでの二日二晩、わしが、どんなに怖い思いをしたか、あんたに分かるかい。若旦那の枕元へ行くたびに、身体がぶるぶると震えて、止まらなかった。……それでも、若旦那がいなくなれば、遅かれ早かれ、あんたはわしのものになる、と……。そう思うと、嬉しさが半分、苦しさが半分で、今日まで、こうして生きてきたが……」
「ああ、もう駄目だ。あの岡っ引きは、さすがだ。とうとう、わしに目をつけてしまった。あいつは、店へ来るなり、酔っ払ったふりをして、この店に主殺しがいる、と怒鳴り散らした。そして、当てつけがましく、磔の刑罰がどんなに恐ろしいものか、懇切丁寧に説明して聞かせやがった。……わしは、もう、そこにいることさえ、耐えられなくなった」
和吉の顔は、きっと死人のように青ざめていることだろう。障子の外からでも、彼が絶望の淵で身を震わせているのが、手に取るように分かった。
「そういう訳だから、わしはもう、覚悟を決めた。この店から縄付きになって引き出され、牢屋に入れられ、市中を引き廻された挙句、磔にされる。そんな恐ろしい目には、遭いたくねえ。……わしは、一思いに、死んじまうつもりだ」
「くどいようだが、わしは決してあんたを怨んじゃいない。だが、あんたという女のために、わしが、こうなったんだということだけは、覚えておいてくれ。……もちろん、あんたからすりゃあ、若旦那を殺した仇だと思うだろう。だが、わしの気持ちも、少しは察して、どうか、可哀想だと思ってやってくれ。若旦那を殺したのは、わしが悪い。わしが、謝る。その代わりに、わしが死んだ後には、せめて、線香の一本でも、手向けておくれ。それが、わしの一生のお願いだ」
「……ここに、給金を貯めたものが、二両一分ある。こいつは、みんな、あんたに預けていくから……」
彼の声は、次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。後には、お冬の、悲痛なすすり泣きの声だけが、いつまでも響いていた。
その時、石町の時の鐘が、ぼーん、と八ツ(午後二時)を告げた。
その音に驚かされたように、障子の内側で、人が立ち上がる気配がした。半七は、再び身を翻し、南天の茂みへと隠れる。やがて、縁側を踏む力ない足音が聞こえ、和吉が、まるで抜け殻のような姿で、離れ座敷から出ていった。
半七は、足についた泥を払い、再び縁側へと上がった。
そして、何食わぬ顔で店先へと戻ってみる。
しかし、そこに和吉の姿はなかった。帳場の大番頭を相手に、しばらく世間話に興じてみたが、和吉は一向に現れる気配がない。
「そういえば、和吉さんという手代は、さっきから見えやせんね」
半七は、わざととぼけて尋ねた。
「さあ、どこへ行きましたものか」
大番頭も、不思議そうに首を傾げている。
「使いに出たというわけでもないのですが……。何か、ご用で?」
「いえ、別に。ですが、念のため、外へでも出た様子があるかどうか、ちいと見てきてはくださらんか」
小僧が奥へと見に行ったが、すぐに戻ってきて、和吉は奥にも台所にもいない、と報告した。
「それから、大和屋の旦那は、まだおいでですかい?」
半七は、さらに尋ねた。
「へえ。大和屋の旦那様は、まだ奥で、主人と話をしておいでになるようですが……」
「あっしが、ちいとばかりお目にかかりたい、と。そう伝えてくだせえ」
襖を閉め切った奥の居間では、主人夫婦と十右衛門が、長火鉢を囲んで、昼間だというのに薄暗い空気の中、ひそひそと相談を続けていた。おかみさんは、四十手前の、品の良い女だった。その眉の跡が薄い額には、深い憂いの影が落ちている。
半七は、その重苦しい雰囲気の座敷へと、案内された。
「もし、旦那。若旦那の仇は、分かりやしたぜ」
半七は、声を潜めて言った。
「えっ……!?」
三人の視線が、一度に半七へと突き刺さった。
「……お店の人間でございますよ」
「店の者……!」
十右衛門が、思わず膝を乗り出した。
「では、親分が、先ほど店先であのようなことをおっしゃったのは、まことでございましたか!」
「へえ。酔ったふりをして、さんざん失礼なことを申し上げやしたが、罪人は、お店の手代、和吉に相違ございやせん」
「和吉が……!?」
三人が、半信半疑の顔を見合わせている、ちょうどその時だった。
女中の一人が、血相を変えて部屋へ転がり込んできた。
何かの用事で裏の物置へ入ったところ、和吉が、梁から首を吊って死んでいた、というのだ。
「……首を吊るか、川へ身を投げるか。いずれ、そうなるだろうとは思っておりやした」
半七は、深く溜息をついた。
「さきほど、大和屋の旦那から、角太郎様とお冬さんのことを伺った時から、どうにも気になっておりやした。そして、芝居の晩、角太郎様と同じ楽屋にいたという、和吉のことが、どうにも引っかかった。若旦那、お冬、そして和吉。この三人を結びつけると、どうしても、色恋のもつれがあったとしか思えやせんでした」
半七は、三人の顔を順々に見回しながら、静かに続けた。
「まず、お冬さんに会って、それとなく探りを入れてみると、和吉が、やけに親切に、何度も見舞いに来てくれる、と。これはいよいよ怪しいと睨み、店先で、わざと聞こえよがしに怒鳴り散らしたわけでございます。大和屋の旦那には、さぞかし乱暴な奴だと思われたことでしょうが、あれは、店のことを思っての、芝居でございました」
「私が奴を縛っていくのは、造作もねえことでございます。ですが、そうなれば、奴は牢屋に入れられ、厳しい吟味を受ける。やがて、罪状が確定すれば、江戸中を引き廻されることになる。そうなれば、吟味の過程で、こちら様にも多大なご迷惑がかかるでしょうし、何より、この和泉屋様から、引き廻しの罪人が出たとなれば、お店の暖簾に、大きな傷がつく。そう考えますと、どうにかして、奴を縄付きにはしたくなかった。奴にとっても、引き廻しや磔にされるよりは、いっそ一思いに自ら命を絶った方が、まだましだろうと、そう思いましてね。わざと、ああやって脅しをかけたんでございます」
「それに、もう一つ。わたくしも、奴が犯人だと確信するほどの、決定的な証拠を握っていたわけではございやせん。まあ、手探りではございましたが、もし、本人に、まったく身に覚えのないことであれば、他の者たちと同じように、ただ聞き流していたでしょう。もし、後ろ暗いところがあるのであれば、とてもじっとしてはいられまい、と。そう踏んだのが、図に当たったわけでございます。詳しい経緯は、お冬さんから、ゆっくりとお聞きくだせえ」
三人は、ただ、唾を飲むばかりだった。
「三河町の親分さん……。いや、恐れ入りました」
最初に口を開いたのは、十右衛門だった。
「罪人を捕らえるのが、親分さんのお役目でありながら、ご自分の手柄を捨ててまで、この家の暖簾をお守りくださった。このご恩は、何と申し上げてよいか……。そのお心遣いに甘えて、もう一つ、お願いがございます。どうか、この一件を、表沙汰にすることなく、和吉は、あくまでも乱心による自害、ということにしてはいただけませんでしょうか……」
「ようがす。親御さんやご親類の身になれば、逆さ磔にしても飽き足らぬと、そうお思いになるのもごもっとも。ですが、どんなにむごい仕置きをしたところで、亡くなった若旦那が、生き返るわけでもございやせん。これも、何かの因縁と、そうお思いなすって、和吉の後始末は、どうぞ、よしなにしてやってくだせえまし」
「重ね重ね、ありがとうございます」
「ですが、旦那。このことは、もちろん内密にいたしますが、江戸中にたった一人、正直に、事の真相を話しておかねばならねえ者がおります。それだけは、最初にお断り申し上げておきます」
半七は、きっぱりと言った。
「江戸中に、たった一人……?」
十右衛門が、不思議そうな顔をした。
「このお席では、ちいと申し上げにくいことでございますが……下谷におります、文字清という、常磐津の師匠でございます」
その名を聞いて、和泉屋の主人夫婦は、はっと顔を見合わせた。
「あの女も、今回のことについては、いろいろと勘違いをしているようでございますからな。得心のいくように、このわたくしから、よくよく言い聞かせておかねばなりやせん」
半七は、最後に、おかみの方へと視線を移した。
「それから、余計なお世話でございますが、若旦那がお達者な間は、いろいろとご都合もおありだったでしょう。ですが、もう、こうなりました上は、あの女にも、どうぞ、出入りを許してやってくだせえまし。そして、ちいとばかり、面倒を見てやってはくださらんか。あの年になっても、亭主を持たず、これから先、頼る者もない。……可哀想な女でございますからな」
半七に、しみじみとそう言われ、おかみさんは、堰を切ったように、わっと泣き出した。
「……まったく、わたくしが、至りませんでした。明日にでも、早速、訪ねてまいります。そして、これからは、姉妹も同然に、付き合ってまいります」
その言葉を聞いて、半七は、静かに頷いた。




