プロローグ:目安書と狐
明治も二十年を過ぎ、文明開化の華やかさが世を覆う一方で、江戸の残り香もまだ街のあちこちに燻っていた。赤坂の団子坂(注:現在の赤坂三丁目あたり、溜池山王駅に近い)にあった隠居宅で、火鉢の鉄瓶がちんちんと静かな音を立てている。
外は、冬の訪れを告げる冷たい雨がしとしとと降っていた。
僕の向かいには、いつものように半七老人が座っている。神田明神下で名を馳せた岡っ引きも、今や好々爺然とした老人だが、その眼光だけは往時の鋭さを失っていない。
「先生、近頃の新聞だか雑誌だかいうものを見ますとね、裁判のことがやかましく書かれておりますな。法律がどうだ、証拠がどうだ、と」
老人は、僕が淹れた少し濃いめの番茶を一口すすり、湯呑みを火鉢の縁に置いた。
「ええ。西洋から新しい法律の仕組みが入ってきて、裁判のやり方も大きく変わりましたからね。罪刑法定主義といって、法律に書かれていないことで人を罰することはできなくなったんです」
「ほう。そいつは結構なことです」
半七老人は深く頷いた。
「ですがね、先生。江戸の昔が、何から何まで旦那様(お奉行様)の胸三寸で決まったかというと、そいつはちと違うんでさ。大岡様のお裁きなんぞは、芝居や講釈が面白おかしく仕立てたもんで、実際はそうはいきません」
「と言いますと?」
「奉行所にはちゃあんと『目安書』というのがありやした。今でいう法律の本みたいなもんでさ。もちろん、今のものに比べりゃあ、そりゃあ大雑把なもんですがね。それでも、人を裁くからには、これに則ってやるのが決まりでやした。奉行様の考え一つで、死罪が助かるなんてことは、まずありゃしません」
老人は、火箸で灰をいじりながら続けた。
「ただ、この目安書が大雑把なもんですから。時折、どうにも当てはめようのない、妙ちきりんな事件が持ち込まれることがありやす。そうなると、役人衆も頭を抱えちまう。そこが、名奉行と呼ばれる方と、そうでない方の分かれ道だったんでしょうな」
「なるほど。大岡越前守や、根岸肥前守といった方々は、そういう難しい事件をうまく捌いたわけですね」
「へえ。江戸の町奉行所ですらそうですから、もっと困ったのが諸国の代官所でさ。天領……徳川様の直轄地ですな、そこを治めるのが代官所ですが、手にあまる事件が起きると、自分のところで下手に裁いて後で江戸からお叱りを受けるのを恐れやした。
そこで、『こういう事件ですが、お仕置きはどういたしやしょうか』と、お伺いを立ててくる。江戸の奉行所が『それでよし』とか『もうちっと調べろ』とか、返事を書く。これを『御指図書』と申しやした。重い裁きはもちろん、追放みてえな軽いもんでさえ、性質の悪い事件は、いちいち江戸へ伺いを立てたもんです。人ひとりを裁くってのは、昔も今も、そりゃあ大変なこって」
半七老人は、懐から古びた和綴じの冊子を取り出した。
「代官所から伺いが来るような事件は、どれもこれも毛色の変わったものばかりでさ。奉行所でも、後々の参考にするために『御仕置例書』という帳面に書き留めておきやした。もちろん、これはお役人様だけの秘密の帳面ですがね。
あっしを贔屓にしてくださった、ある吟味与力様がこっそり見せてくださったことがありまして。そん時に、こりゃあ面白いと思ったものだけ、いくつか書き写しておいたんでさ」
老人は、ぱらぱらと黄ばんだ紙を繰った。
「ああ、これだ。先生、こいつはちと、あっしの若い頃にも聞いた覚えのある、不思議な話でさ。『小女郎狐』……。寛延元年のことだそうで。忠臣蔵の芝居が初めてお目見えした年だそうで、ずいぶんと昔の話ですな。あっしが直接手掛けた事件じゃありやせんが、何とも奇妙な話で……」
老人の目が、遠い江戸の闇を見つめていた。




