第三章:酔いどれ探偵の芝居
十右衛門は、空腹だったと見え、すぐに箸を取ったが、半七は飯にはほとんど手をつけなかった。その代わりに、女中を呼び止め、熱燗をもう一本頼んだ。
武州にある釜屋という酒蔵の酒で、「力士」という酒だ。
なかなか「のみごたえのある」良い酒、だった。
「親分は、なかなかの酒豪でいらっしゃいますな」
十右衛門が、感心したように言った。
「いえいえ、あっしは下戸でして、からっきしでございますよ。ですが、今日はちいとばかし飲みましょうや。顔でも赤くしとかねえと、どうにも景気がつきやせん」
半七は、そう言って、にやりと笑った。
その不敵な笑みに、十右衛門は妙な顔をして黙り込んでしまった。
半七は、運ばれてきた徳利を、手酌で立て続けに煽った。真昼の暖かい座敷で飲む酒は、ことのほか身体に回る。見る間に、半七の顔は、年の市で売られている飾り海老のように、真っ赤に染まっていった。
「どうです、旦那。この渋紙、いい具合に染まりやしたかい?」
半七は、熱く火照った自身の頬を撫でながら、呂律の回らない口調で言った。
「は、はい。見事な色におなりでございます」
十右衛門は、引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
(とんだ男に、とんだ頼み事をしてしまったものだ)
彼の顔には、後悔の色がはっきりと浮かんでいた。
勘定を済ませ、表に出ると、半七の足元は千鳥足で、おぼつかなかった。向こうから威勢よく駆けてくる小僧に、危うくぶつかりそうになる。
「おっとっと。親分、大丈夫でございますか」
十右衛門に支えられながら、半七はよろよろと歩いた。
「旦那。頼みがあるんで。どうぞ、裏口から、こっそりと入れてくだせえまし」
半七が、小さな声で囁いた。
いくらなんでも、岡っ引きを裏口から入れるわけには……と十右衛門が躊躇していると、半七はするりと彼の腕を抜け、店の横手にある路地へと勝手に入っていく。その足取りは、先ほどまでとは打って変わって、しっかりとしていた。
十右衛門は、狐につままれたような顔で、慌ててその背中を追った。
「すぐに、お冬どんに会わせてくだせえ」
裏口から入った半七は、広い土間を抜け、女中部屋をちらりと覗いた。そこには三人の女中が、何やらひそひそと話し込んでいる。
「お冬はどうした」
十右衛門が声をかけると、女中の一人が、お冬はゆうべから気分がすぐれないため、おかみさんの言いつけで、離れの四畳半で休んでいると答えた。
その四畳半こそ、芝居の晩、角太郎が楽屋として使っていた部屋だった。
縁側を伝って奥へと進むと、こぢんまりとした中庭に植えられた南天の木が、燃えるような赤い実をたわわにつけていた。
二人が障子の前に立つと、十右衛門が咳払いをして声をかけた。すると、障子が内側から静かに開かれる。
障子を開けたのは、若い男だった。布団の中では、お冬が鬢が隠れるほど深く、夜着をかぶっている。
男は小柄で、色黒、額が狭く、眉が濃い。十右衛門に気づくと、ばつの悪そうな顔で挨拶し、そそくさと部屋を出て行った。
「あれが、先ほどお話し申した、和吉でございます」
十右衛門が、半七に囁いた。
夜着を押しやり、布団の上に起き上がったお冬の顔は、今朝方会った文字清よりも、さらに青白くやつれていた。まるで、この世の者とは思えぬほど、生気がない。
何を訊ねても、要領を得ない、か細い返事が返ってくるだけだった。あの恐ろしい夜の記憶を呼び覚ますことに、耐えられないのだろう。ただただ、さめざめと泣きじゃくるばかりだ。
どこかで、籠の鶯がのどかに鳴いている。その声が、かえってこの場の物悲しさを際立たせていた。
お冬の胸のうちにあった、角太郎への恋の炎は、すでに灰となって崩れ落ちてしまったのかもしれない。彼女は、楽しかったはずの過去の思い出について、何一つ語ろうとはしなかった。
ただ、旦那様やおかみ様は、自分にとても優しくしてくださると、ぽつりぽつりと語った。店の者の中では、和吉が一番親切で、今朝からも、店の仕事の合間を縫って、二度も見舞いに来てくれた、とも。
「ほう。じゃあ、今も見舞いに来ていたんだな。それで、どんな話をしていたんだい?」
半七が、何気ない口調で尋ねた。
「あの……若旦那様がああなってしまっては、このお店にこれ以上ご奉公しているのも辛いから、お暇をいただこうかと思う、と申しましたら……和吉さんは、そんなことを言わずに、ともかく来年の出代わりまでは辛抱なさい、と、しきりに止めてくださいました」
半七は、意味ありげにひとつ頷いた。
「そうかい。いや、すまなかったな、寝ているところを邪魔しちまって。まあ、身体を大事にしなせえよ。……さて、大和屋の旦那。ちいとばかし、お店の方へご案内願いやしょうか」
十右衛門に先導され、半七は店先へと向かった。さっき飲んだ酒が、またぶり返してきたと見え、彼の頬はますます赤く火照っている。
「旦那。店の者は、これでみんな揃ってやすかい?」
半七は、帳場から店の隅々までを、ぐるりと見渡した。
四十過ぎの大番頭が帳場に座り、その横では若い番頭が二人、忙しなく算盤を弾いている。その他、先ほどの和吉と、もう一人、中年の男が手代として働いていた。店の入り口では、四、五人の小僧たちが、鉄釘の荷を解いている。
「はい。ちょうど、皆、揃っているようでございます」
その言葉を聞くやいなや、半七は、店の土間の真ん中に、どっかりと胡坐をかいた。そして、番頭や小僧たちの顔を、一人一人、じろじろと舐め回すように見始めた。
「ねえ、大和屋の旦那。具足町で名高いものといえば、清正公様と和泉屋様、とまあ、江戸中にその名を知られた大店だ。だが、失礼ながら、随分と店の不取締りがなってねえようでございますな。……ええ、そうでしょうよ。主殺しをするような、とんでもねえ大悪党に、飯を食わせ、給金を払い、こうして大切に飼って置くんでございますからねぇ!」
半七の突然の罵声に、店の者たちは、何事かと顔を見合わせた。十右衛もんは、狼狽したように慌てふためいている。
「も、もし、親分。まあ、お静かに……。この通り、往来から丸見えでございますから」
「誰に聞かれたって、構うもんけえ! どうせ、近いうちに市中引き廻しの罪人が出る家だ!」
半七は、せせら笑った。
「やい、こいつら、よく聞きやがれ! てめえたちは、揃いも揃って不埒な奴らだ! 主殺しを同輩に持ちながら、知らん顔して奉公を続けているとは、どういう了見だ! ええ、嘘をつくんじゃねえ! この中に、主殺しの磔野郎がいるってことは、この俺様が、ちゃあんと見抜いてるんだ!」
店の空気は、凍りついた。番頭も小僧も、青ざめた顔で、ただ呆然と半七を見つめている。
「たかが、守っ子みてえな小娘一人との色恋沙汰で、大事な主人を殺しちまうような、そんな心得違いの大馬鹿野郎を、これまで飼い続けてきたのが、そもそもの間違いだ! ここの主人も、よっぽどの明き盲だぜ! 俺が、お歳暮に寒鴉でも五、六羽、絞めてきてやるから、黒焼きにして薬代わりに飲めと、そう伝えてやんな! ……おい、大和屋の旦那。あんたの眼も、ちいとばかり曇ってるようだぜ。物置にでも行って、灰汁で二、三度、洗ってきちゃあどうだねえ!」
あまりの言い様に、十右衛門は顔面蒼白だ。しかし、相手は酔っ払い。手のつけようがない。
皆が黙りこくっていると、半七はさらに調子に乗って、怒鳴り散らした。
「だが、おれに取っちゃあ、こいつは幸運だ。ここで主殺しの罪人を引っ括っていきゃあ、八丁堀の旦那方への、こりゃあ極上のお歳暮になるってもんだ! さあ、てめえら、そんな澄ました顔をしていたって、無駄だぜ。どの鼠が白いか黒いか、俺の眼はごまかせねえ。てめえたちの主人のような明き盲と一緒にするな。いつ、両腕が後ろに回っても、決して俺を怨むんじゃねえぞ。『縄掛くる人ぞ恨めし』なんぞと、詰まらねえ愚痴をこぼすんじゃねえぞ! こいつは、嘘や冗談じゃねえんだ。神妙に、覚悟を決めておきやがれ!」
十右衛門は、もう堪えきれなくなった。おずおずと半七の傍に寄り、宥めるように声をかける。
「も、もし、親分。大分お酔いのようですから、まあ奥へ行って、少しお休みになってはいかがでございますか。店先で、あまり大きな声をお出しになりますと、世間体というものも……。おい、和吉、親分を奥へご案内申し上げてくれ」
「は、はい……」
和吉が、震える手で半七を支えようとした、その瞬間だった。
バシン! と、乾いた音が響いた。
半七の平手が、和吉の横っ面を、思い切り張り飛ばしたのだ。
「ええい、うるせえ! 気安く触るんじゃねえ! てめえらみてえな磔野郎の世話になるか! やい、やい、何でえ、そんなに俺の顔を睨みつけて。てめえは主殺しだから、磔野郎だと、そう言ったのが、そんなに気に食わねえか!」
半七は、よろめく和吉を指さし、さらに言葉を続けた。
「いいか、よく覚えておけ。磔になる罪人はな、まず裸馬に乗せられて、江戸中を引き廻されるんだ。それから、鈴ヶ森か小塚ッ原で、高い木の上に縛り付けられる。すると、突手が両側から槍をしごいて、罪人の目の先へ突き付け、『ありゃ、ありゃ』と声をかける。これを『見せ槍』っていうんだ。そして、見せ槍が終わると、今度は本物だ。右と左の脇の下を、何度も、何度も、ずぶり、ずぶり、と……!」
その、あまりにも恐ろしい刑罰の説明に、その場にいた誰もが息を飲んだ。和吉の顔は、土気色に変わっている。
誰もが、まるで死の宣告を受けたかのように、瞬きもせず、ただ静まり返っていた。
冬の空は、残酷なほど青く澄み渡り、表通りには、明るい陽の光が満ち溢れていた。




