第二章:二つの依頼
「へええ……。そんな込み入った事情がおありでしたか。あっしは、ついぞ知りませんでしたよ」
半七は、喫いかけていた煙管を灰皿にぽんと叩き、深く息を吐いた。文字清の話は、あまりにも衝撃的だった。和泉屋の悲劇の裏に、こんなにも哀しい親子の物語が隠されていたとは。
「それにしても、だ。若旦那の死は、不慮の事故。誰かを怨むというのは、ちいと筋違いじゃねえかと思うが……。お師匠さん、そこには何か、あっしたち凡人には分からねえ理屈でもあるんですかい?」
半七が慎重に言葉を選ぶと、文字清は泣き濡れた顔を上げた。その瞳には、涙に混じって、燃え盛るような憎悪の炎が宿っていた。まるで、問う者の無知を嘲笑うかのように、彼女は凄みのある笑みを浮かべた。
「理屈などではございません。真実でございます。……角太郎は、殺されたのです。和泉屋のおかみ、あの女に!」
「おかみさんが……? まあまあ、落ち着いてくだせえ。若旦那を殺すほど憎んでいたなら、そもそも初めから、自分の子として引き取ったりはしねえでしょう」
「親分さん、あなたにはお分かりになりますまい。女の心の奥底にある、鬼の貌が」
文字清の声は、ひどく冷え冷えとしていた。
「角太郎が和泉屋に引き取られてから、五年後のことでございます。今のおかみさんの腹に、女の子が産まれました。お照と申しまして、今年で十五になります。さあ、親分さん、おかみさんの身になってお考えくださいまし。旦那の隠し子である角太郎と、自分の腹を痛めて産んだ娘。どちらが可愛いでしょう? 家督を、角太郎に譲りたいと思うでしょうか。それとも、可愛いお照に継がせたいと思うでしょうか」
彼女の言葉は、鋭い刃のように半七の胸に突き刺さった。
「どんなに普段、良い母親のふりを繕っていても、人の心には鬼が棲んでおります。邪魔な角太郎を亡き者にしてしまいたい。……そう考えたとしても、何の不思議がございましょう。ましてや角太郎は、旦那が外で作った子。女の嫉妬という、どうしようもない業火も、腹の底では燃え盛っていたに違いありません」
文字清は、畳をぎりりと爪で掻いた。
「そう考えますと、辻褄が合うではございませんか。おかみさんが自分でやったか、誰ぞに命じたか……。楽屋がごった返している、あの喧騒に紛れて、舞台用の刀と本物の刀をすり替えることなど、造作もなかったはず。わたくしがこう疑うのは、我が子を失った母親の、ただの邪推でございましょうか? 親分さん、あなたはどうお思いになりますか!」
文字清の言葉には、有無を言わせぬほどの気迫が籠っていた。
なるほど、彼女の言うことにも一理ある。角太郎は、おかみにとっては継子であり、夫の不貞の証でもある。表面上は愛情を注いでいたとしても、その胸の内に、冷たいしこりが残っていたとしても不思議ではない。ましてや、自分の実の娘が産まれた後となっては、血の繋がらない角太郎に莫大な身代を譲り渡すことを、苦々しく思っていた可能性は十分にある。
それが嵩じて、今回の芝居という絶好の機会を利用し、角太郎を亡き者にする、という非常手段に打って出た……。あり得ない話ではない。半七はこれまでの岡っ引き稼業で、人間の心の闇、その恐ろしさを、嫌というほど見てきた。
文字清は、もはや和泉屋のおかみこそが我が子の仇だと、一途に信じ込んでいるようだった。
「親分、どうかお察しくださいまし。わたくしは、悔しくて、悔しくて……! いっそ、この手に出刃包丁を握りしめ、和泉屋へ乗り込んで、あの畜生を八つ裂きにしてやりたいくらいなのでございます……!」
彼女の神経は極度に昂ぶり、もはや正気の淵を彷徨っているかのようだった。ここで下手に彼女を煽るようなことを言えば、何をしでかすか分からない。半七は、彼女の激情を真正面から受け止めるのではなく、静かにいなすことにした。
彼は黙って煙草をふかし、やがてゆっくりと口を開いた。
「……お師匠さんのお気持ち、ようがす、痛いほど分かりやした。この半七が、出来る限り、真相を調べて差し上げましょう。ですが、当分の間は、誰にもこのことを口外しねえでくだせえ。内密に、事を進めねばなりやせん」
「たとえ自分の子として育てていたからといって、角太郎を殺したあのおかみが、無事で済むはずはございませんよね? お上は、きっと、息子の仇を討ってくださいますよね?」
文字清は、なおも念を押すように食い下がった。
「ったりめえよ。公方様の政が、隅々まで照らしてるのが、この江戸だ。まあ、何から何まで、このあっしに任せてお置きなせえ」
半七が力強く請け負うと、文字清はようやく少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。彼女をなんとか宥めて帰した後、半七はすぐさま身支度を始めた。
「兄さん、ご苦労さま。……本当に、和泉屋のおかみさんが……?」
半七が出かけようとすると、いつの間にか後ろに立っていたおうめが、心配そうに囁いた。
「さあな。そいつはまだ分からねえ。だが、火のねえ所に煙は立たねえって言うからな。ともかく、何かしら手を付けてみようじゃねえか」
半七は、妹にそう言い残し、まっすぐ京橋へと向かった。
いくら御用聞きとはいえ、何の証拠もなしに、いきなり和泉屋へ乗り込んで事情聴取をするわけにはいかない。彼はまず、和泉屋の店先を何気なく通り過ぎ、町内の鳶頭の家を訪ねた。しかし、あいにく鳶頭は留守だという。女房に当たり障りのない挨拶を二言三言交わし、半七は再び往来へと出た。
(さて、どうしたものか)
思案に暮れながら、年の瀬でごった返す通りを歩いていると、不意に背後から声をかけられた。
「もし、恐れ入りますが、あなたは神田の半七親分ではございませんか?」
振り返ると、そこにいたのは五十がらみの、いかにも人の良さそうな町人風の男だった。身なりも良く、そこそこの店の主人といった風情だ。
「わたくし、芝の露月町にて鉄物問屋を営んでおります、大和屋十右衛門と申す者でございます。実は、先ほど鳶頭の家へ少々相談事がありまして伺いましたところ、おかみさんと話をしている最中に、親分さんがお見えになりまして……。おかみさんにお聞きしたところ、神田で高名な半七親分だと伺いました。これは良い機会と存じ、失礼ながらお後を追わせていただいた次第。ご迷惑でなければ、そこの料理屋で、少しお話をお聞きいただくわけにはまいりませんでしょうか?」
男の申し出は、あまりに唐突だった。しかし、その表情は真剣そのものだった。
「ようがす。お供いたしやしょう」
十右衛門と名乗る男に誘われるまま、半七は近くの鰻屋の暖簾をくぐった。
小ぢんまりとした二階座敷は、南向きの窓から冬の柔らかな日差しが差し込み、春のように暖かい。窓辺に置かれた鉢植えの梅の枝ぶりが、障子に墨絵のような影を落としていた。
注文の品が来るまでの間、二人は差し向かいで、静かに酒を酌み交わした。
「親分さんも、お役目柄、すでにご存知のこととは存じますが、和泉屋の息子の角太郎が、実に痛ましいことになりまして……。実は、わたくし、和泉屋の女房の兄にあたる者なのでございます」
十右衛もんは、意を決したように切り出した。
「今回の件につきまして、死んだ角太郎のことは今更どうしようもございません。ですが、その後の世間の評判が……。人の口に戸は立てられぬと申しますが、実に心ない噂が飛び交っておりまして、妹も心を痛めております」
やはり、そうか。
角太郎の出生の秘密を知る者たちの間では、文字清と同じように、おかみさんに疑いの目を向けている者も少なくないようだ。十右衛門は、それをひどく苦に病んでいるらしかった。今日、鳶頭の家を訪ねたのも、その相談のためだったのだろう。
「一体どうして、本身の刀とすり替わってしまったのか。それを、内密に調べていただきたいのでございます。万が一にも、あらぬ噂が広まりますと、妹があまりにも不憫で……。兄のわたくしが申すのもおかしな話ですが、あれは実に正直で、おとなしい女なのでございます。角太郎のことも、我が子同然に、それはそれは大切に育てておりましたのに……。それを、世間にありがちな継母根性などと勘繰られるのは、あまりにも心外で……」
十右衛門は、懐から鼻紙を取り出し、ぐすぐすと鼻をすすった。
「ともかく、葬儀も昨日無事に済みました。これからは、何としてでも、あの間違いが起こった原因を突き止めたい。それがはっきりせぬまま、妹が疑われるようなことになれば……あの子は気の小さい女ですから、心労のあまり、どうにかなってしまうやも知れません。それが、不憫で、不憫で……」
実の母である文字清は、気も狂わんばかりに和泉屋のおかみを憎んでいる。
一方、おかみの兄である十右衛門は、妹が気違いになるのではないかと、心から心配している。
どちらの話が真実で、どちらが偽りなのか。さすがの半七にも、この時点では判断がつかなかった。
「芝居の晩は、旦那ももちろん、見物に行っておられたんでしょうな」
半七は、猪口を置き、静かに尋ねた。
「はい。わたくしも、末席を汚しておりました」
「楽屋には、大勢の人間が詰めていたんでしょう?」
「なにしろ、楽屋が狭いもので。八畳間に十人ばかり、それに離れの四畳半に二人。役者になる者はそれだけでしたが、他に手伝いの者が大勢おりましたし、衣装や鬘で足の踏み場もないほどの混雑でございました。しかし、皆、しがない町人ばかり。そこに大小などという物騒なものが置いてあろうはずはございません。それに、最初に小道具が配られた際に、角太郎自身も、刀を一つ一つ改めて確認したそうでございますから、その時点では、間違いなく竹光だったはずなのでございます」
十右衛門は、必死に記憶をたどりながら語った。
「と、なりますと、いよいよ舞台へ出る、その直前に、何者かがすり替えたか、あるいは取り違えたか……。一体、誰が、何のためにそんなことをしたのか、まるで見当がつかず、皆、困り果てております」
「なるほど……」
半七は、酒を飲むのも忘れ、腕を組んだ。座敷には、しばし沈黙が流れる。障子の上を、一匹の蝿がせわしなく歩き回る音だけが、やけに大きく聞こえた。
「若旦那は、八畳と四畳半、どちらの楽屋にいたんですかい?」
「四畳半の方でございます。店の者の、庄八、長次郎、そして和吉という若者と一緒におりました。庄八は衣装の手伝いを、長次郎は湯茶の世話を。そして和吉は、千崎弥五郎の役を勤めておりました」
「それから、ちいとばかりおかしなことをお伺いしますが、若旦那は、芝居の他に何か道楽はございましたか?」
十右衛門は、少し考え込んだ後、静かに首を振った。
「いえ、碁や将棋といった勝負事はからきしでございましたし、女遊びの噂も、とんと聞いたことがございません」
「お嫁さんの話も、まだこれといっては?」
その問いに、十右衛門は、なぜか少し言い淀んだ。
「……それは、内々には、決まっておりました」
その、どこか迷惑そうな口ぶりに、半七はぴくりと眉を動かした。
「こうなっては、もはや何もかも包み隠さずお話し申しましょう。実は、店の仲働きをしております、お冬という娘に、手をつけましてな……。もっとも、そのお冬という娘も、器量よしで気立ても悪くない。いっそ、世間に知れぬうちに、どこぞに仮の親でもこしらえさせ、正式に嫁として披露してはどうかと、親たちも内々で相談しておりました。……まさか、こんなことになろうとは。これも、二人の運が悪かった、としか言いようがございません」
この、唐突に現れた恋物語に、半七は俄然、興味を引かれた。
「その、お冬というのは、いくつで、どこの者ですかい?」
「年は十七。品川の出だと聞いております」
「どうでしょう、旦那。そのお冬という娘に、ちいとばかし会わせていただくわけには、まいりませんでしょうか」
「なにしろ、まだ年若でございますし、角太郎があのようなことになりましたので、すっかり気落ちして、今はただ、ぼんやりと過ごしております。とても、まともなお話などできぬかと存じますが……。親分さんが、それでもとお望みとあらば、いつでもお会わせいたします」
「事が事です。なるたけ早い方がようがす。もし、お差し支えなければ、この足で、すぐにでもご案内願えませんでしょうか」
「承知いたしました」
十右衛門は、こくりと頷いた。
二人は、食事を済ませ次第、すぐに和泉屋へ向かうことに決めた。ちょうどその時、待ちかねたように、香ばしい匂いを漂わせた鰻重が運ばれてきたのだった。




