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新釈・半七捕物帳 ~江戸の残影、明治の語り草~  作者: 方丈
3.勘平の死と偽りの刃
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第一章:悲劇の舞台


安政五年の暮れ、ようやくコロリがおさまりを見せ、安政の大獄が本格化していくそんなころ。


年の瀬とは思えぬほど、うららかな日和が四、五日も続いていた。

神田三河町の岡っ引き、半七の家では、朝餉を終えたばかりの半七が、さてこれから八丁堀の旦那方へ歳暮の挨拶にでも回ろうかと腰を上げかけたところだった。


「義姉さん、おはようございます!」


台所の方から、ぱたぱたと慌ただしい足音とともに、快活な声が響いた。妹のおくめだ。お粂は母のお民と明神下で二人暮らしをしながら、常磐津の師匠として自活している、しっかり者の妹だった。


「あら、おうめちゃん。どうしたの、こんなに朝早く」


女中と一緒に立ち働いていた女房のお仙が、にこやかに振り返る。


「義姉さん、ごめんなさい、朝早くから。ちょっと、兄さんに頼みたいことがあって……」

お粂はそう言うと、気遣わしげに自身の背後を振り返った。

「さあ、どうぞお入りなさいよ」


妹の背後には、まるで影のように一人の女がしょんぼりと佇んでいた。年は三十七、八といったところか。粋な大年増おおどしまという感じであった。


粋な着こなしだが、ひどく憔悴しきっている。おうめと同じく、常磐津の師匠であろうことは、お仙にもすぐに察しがついた。


「ささ、どうぞこちらへ」

お仙がたすきを解きながら会釈すると、女はおずおずと家に上がり、深々と頭を下げた。


「これは、おかみさんでございますか。わたくし、下谷におります文字清と申します。こちらの文字房もじふささん(お粂の芸名だ)には、いつもお世話になっております」


「いいえ、こちらこそ。義妹いもうとはまだ若輩者でございますから、さぞご厄介をおかけしていることでしょう」


そんな当たり障りのない挨拶が交わされる間にも、おうめはさっさと奥へ入り、すぐに戻ってきた。

「兄さん、お客様よ」


文字清もじきよと呼ばれた女は、おうめに促されるようにして、半七の前に通された。その顔は病人のように青白く、こめかみには頭痛膏が痛々しく貼られている。充血した目が、彼女がろくに眠れていないことを物語っていた。

(頭痛膏、あんま膏とも言い、最近では全く見なくなったが、もともとは梅干しを焼酎でのばしたものを張ったりしていた……らしい)



「兄さん。早速で申し訳ないんだけど、こちらの文字清さんが、兄さんにどうしても折り入ってお願いしたいことがある、というの」

おうめが、ことさら改まった口調で、蒼白な顔の女を紹介した。


「ほう、そうかい」

半七は居住まいを正し、女の方へと向き直った。

「もし、お師匠さん。どんなご用件か存じませんが、あっしに出来ることでござんすかね。まずは、お話を伺いましょうか」


「突然押しかけまして、まことに申し訳ございません。ですが、わたくしもどうしてよいやら途方に暮れてしまいまして……。かねてよりご懇意にしていただいております文字房さんにおすがりして、こちらまで参上した次第でございます」

文字清は畳に両手をつき、震える声で話し始めた。

「親分さんもお聞き及びでございましょう。この十九日の晩、具足町の和泉屋で、年忘れの素人芝居がございました」


「ああ、和泉屋の。……飛んだ災難があったそうですな」


半七も、その事件のことは噂で耳にしていた。

京橋具足町の和泉屋といえば、江戸でも五指に入る鉄物問屋だ。その和泉屋の主従は、揃いも揃っての芝居好きで知られており、年の暮れになると、近隣の者や出入りの職人たちを招いて盛大な素人芝居を催すのが、毎年の恒例となっていた。


今年も、十九日の夕刻からその幕は開けられた。奥座敷を三間ぶち抜いて作られた舞台は、間口三間という本格的なもの。贅沢な衣装や小道具も、江戸中の好事家たちの間で評判だった。役者は店の者や近所の素人たち。チョボ語りの太夫から下座の囃子方まで、すべて芝居好きの道楽者たちで固められている。


今年の演目は、かの有名な「仮名手本忠臣蔵」。三段目、四段目、五段目、六段目、九段目の五幕立てという、なかなかの長丁場だ。


中でも、大役である早野勘平を勤めるのは、和泉屋の跡取り息子、角太郎。年は十九。役者のように整った顔立ちと華奢な体つきで、界隈の娘たちの間で密かに人気を集めている若旦那だ。そんな角太郎が悲劇の侍、勘平を演じるというのだから、見物人たちの期待はいやがうえにも高まっていた。


舞台は、喧嘩場から山崎街道までの三幕を滞りなく終え、いよいよ勘平の見せ場である六段目「勘平腹切りの場」の幕が開いたのは、冬の夜の五ツ(午後八時)を過ぎた頃だった。


若旦那の勘平を一目見ようと、遅れて駆けつける見物人も後を絶たない。客席は、女たちの白粉と鬢付け油の甘い香りがむせ返るほどに立ち込め、男たちのふかす煙草の煙が渦を巻いていた。熱気と興奮、そして笑い声が表通りまで漏れ聞こえ、師走の夜道を行く人々の足を止めさせるほどだったという。


だが、その歓声は、やがて悲鳴に変わった。

物語のクライマックス、角太郎演じる勘平が腹を切る場面。彼の純白の衣装が、みるみるうちに真紅に染まっていく。それは、小道具として用意された糊紅ちのりなどではなかった。本物の、生々しい血潮だった。


苦痛に歪むその表情のあまりの真に迫った様に、観客は固唾を飲んだ。しかし、角太郎は台詞を言い切ることなく、舞台の上にごくりと崩れ落ちた。そこで初めて、人々は何が起こったのかを理解した。


勘平が差していた刀は、舞台で使う金紙を張っただけの竹光ではなかったのだ。鞘の中には、鋭く研ぎ澄まされた本身の刀が収められていた。何も知らずに力一杯己の脇腹を貫いた角太郎の切腹は、芝居ではなかった。紛れもない、現実の惨劇だった。


芝居は即刻中止。血塗れの角太郎は楽屋へ担ぎ込まれ、すぐに医者が呼ばれた。驚きと恐怖、そして混乱の中、和泉屋の年忘れの宴は、最悪の形で幕を閉じた。


舞台化粧も落とせぬまま、角太郎は手当てを受けた。白く塗られた顔は、血の気を失い、さらに青白くなっていく。おびただしい出血。傷口はすぐに縫合されたが、容体は悪化する一方だった。

二日二晩、角太郎は凄まじい苦痛に悶え続け、二十一日の夜半、ついに息絶えた。その若すぎる死は、あまりにも無惨だった。

葬儀は、二十三日の昼過ぎ、しめやかに執り行われた。


そして、今日はその翌日、二十四日である。

半七は、この目の前の女、文字清と、和泉屋の悲劇との間に、一体どんな繋がりがあるのか、皆目見当がつかなかった。


「そのことについて、文字清さんが、どうにもこうにも悔しがっているのよ」

おうめが、兄の心中を察したように口を添えた。

その言葉に堰を切られたように、文字清の蒼い顔を、大粒の涙が次から次へと流れ落ちた。


「親分……! どうぞ、息子の仇を討ってくださいまし!」


「仇……? 誰の仇を、と仰るんで?」


「わたくしの……わたくしの産んだ息子の仇を、でございます!」


まるで煙に巻かれたような心持ちで、半七が相手の顔をじっと見つめていると、文字清は潤んだ瞳を険しく光らせ、睨みつけるように半七を見上げた。その唇は、まるで癇癪を起こした子供のように歪み、わなわなと震えている。


「和泉屋の若旦那は、お師匠さん、あんたの子なのかい?」

半七は、信じられないといった面持ちで訊ねた。


「はい。角太郎は、わたくしが産んだ子でございます」


「ほう……。そりゃあ初耳だ。すると、あの若旦那は、今の和泉屋のおかみさんの子じゃあねえんだな」


「ええ……。角太郎は、わたくしのたった一人の息子でございます。こう申しただけでは、何のことやらお分かりになりますまい。今からちょうど二十年前のこと……わたくしがまだ中橋(中央区日本橋3丁目と京橋1丁目の境目付近)のあたりで、常磐津の師匠をしておりました頃、和泉屋の旦那が時折、お稽古に、と遊びにいらっしゃるようになりまして……。自然と、まあ、深い仲になり、その翌年、わたくしは男の子を身ごもりました。それが、この度、非業の死を遂げました角太郎なのでございます」


「なるほど。で、その子を和泉屋が引き取った、と。そういう訳だな」


「ご明察の通りでございます。和泉屋のおかみさんがそのことを聞きつけましてね。ちょうど自分たちには子供がいないから、ぜひ引き取って我が子として育てたい、と……。わたくしだって、手放すのは断腸の思いでございました。ですが、あちらに引き取られれば、あの子は大きな店の跡取りになれる。いずれは江戸でも指折りの大商人になれる。……あの子の将来を思えばこそ、と、自分に言い聞かせ、産まれて間もなく、和泉屋にお渡ししたのでございます」


文字清は、遠い昔を思い出すように、目を伏せた。


「そして、実の母親が近くにいると知れては、世間体も悪く、角太郎のためにもならない、と。わたくしは、分不相応なほどの手当て金をいただき、息子とは一生会わぬ、という血の滲むような約束をいたしました。それからすぐに下谷へと居を移し、今日までこうして細々と師匠を続けております。ですが……やはり、親子の情というものは断ち切れるものではございません。一日たりとも、我が子のことを忘れた日はございませんでした。あの子が立派な若旦那に成長したという噂を人づてに聞き、蔭ながらその幸せを祈っておりましたのに……。それなのに、こんな……こんなむごいことで……! わたくしは、もう、どうにかなってしまいそうで……!」


とうとう堪えきれなくなったのだろう。文字清は畳に突っ伏し、声を上げて泣きじゃくった。その背中が、哀れに震えていた。

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