プロローグ:師走の再会
歴史小説の大家であるT先生のお屋敷を辞したのは、午後三時を少し回った頃だった。赤坂の柔らかな冬の日差しが、年の瀬で活気づく町並みを黄金色に染めている。赤坂の大通りでは、威勢のいい掛け声とともに、職人たちが家々の前に真新しい門松を立てていた。その光景を眺めているだけで、ああ、もういくつ寝るとお正月か、なんて呑気な気分になってくる。
砂糖屋の店先は、年末の大売出しの熱気に満ちていた。色とりどりの紙ビラや幟がはためき、紅い提灯が温かな光を投げかけている。ごった煮のような楽隊の音、甲高い蓄音機のメロディ、そして人々の喧騒。それらすべてが渾然一体となって、師走の都に特有の、どこか浮足立ったような、それでいて心地よい高揚感を生み出していた。
「数え日(もういくつ寝ると)、か」
僕のような、しがない物書き稼業の人間が、こんな忙しい時期に方々をお邪魔して歩くのは、少し気が引ける。T先生から江戸の貴重なお話をたくさん伺って満たされた心とは裏腹に、ふと、そんな思いがよぎった。
(さて、まっすぐ家に帰るか)
そう思い直し、電車の停留所に向かって歩き出した、その時だった。雑踏の中から、ひょっこりと見知った顔が現れた。
「おや、先生じゃありませんか。どうなすったんで?」
煤けた色の着物を粋に着こなし、年齢を感じさせないしゃんとした立ち姿。元気のいい声で笑いかけてきたのは、かの半七老人だった。
「半七さん! いやあ、奇遇ですね。実は今、T先生のお宅に伺っていまして。その足で、半七さんのところに寄ろうかどうしようか、思案していたところだったんですよ。でも、年の暮れにお邪魔するのもご迷惑かと思いまして」
僕がそう言うと、老人はからからと笑った。
「なあに、わたくしどもみてえな隠居の身に、盆も暮れもございませんですよ。先生の方こそ、お急ぎのご用がねえんでしたら、ちっと寄っていきなさいな。ちょうど良いお茶菓子もございますんで」
渡りに船とは、まさにこのことだ。僕は遠慮なくその申し出を受けることにした。
半七老人に続いて、懐かしい神田の家へと足を踏み入れる。格子戸の軋む音さえも、心地よい音楽のように耳に響いた。
「ばあや(お手伝いさん)、お客様だよ」
いつもの六畳間に通されると、香りの良いお茶と、見た目にも美しい上生菓子が運ばれてきた。慌ただしい外界の喧騒が嘘のように、ここには穏やかでゆったりとした時間が流れている。まるで、時計のない国に迷い込んだかのようだ。僕たちは日暮れまで、心ゆくまで語り合った。
「そういえば、先生。ちょうど今頃の季節でしたねぇ。京橋の和泉屋で、大掛かりな素人芝居が催されたのは……」
老人は、ふと思い出したように呟いた。
「素人芝居、ですか? それが何か?」
僕が聞き返すと、半七老人は悪戯っぽく片目をつむった。
「へえ。その芝居で、ちいとばかし物騒な騒動が持ち上がりやしてね。あの時ばかりは、このわたくしも随分と頭を悩ませたもんでございますよ。確か、安政五年の午年、十二月のことでした。年の瀬にしちゃあ、妙に生暖かい晩でしてねぇ」
その語り口は、まるで物語の始まりを告げるかのようだった。
「和泉屋というのは、具足町(いまの京橋3丁目付近)でも指折りの大きな鉄物問屋でしてね。そこの家中が、揃いも揃って芝居気違いだったんでさぁ。とうとう、それが高じて大変な騒ぎを引き起こしちまった。……え? その話が聞きてえ、と? しょうがねえ旦那だ。じゃあ、またいつもの手柄話になりますが、まあ、ゆるりとお聞きくだせえまし」
半七老人はそう言って、煙管に火を点けた。紫の煙が、ゆっくりと部屋に立ち上っていく。僕の知らない江戸の、ある年の瀬の物語が、今、始まろうとしていた。




