第六章:両国橋の今牛若(いまうしわか)
二人は両国橋を渡っていた。
この両国橋は、江戸一番の繁華な橋であり、広小路には見世物小屋や屋台が並ぶが、さすがに槍突きの噂で、夜の賑わいも薄かった。
うすい月の光が、墨田川の水面に揺れている。
その時、勘次が七兵衛の袂を引いた。
「親分……あれ」
橋の向こうから、例の頭巾をかぶった女が、うつむき加減に歩いてくる。
「……蔵前の化け猫だ」
「ようです。間違いねえ」
七兵衛は勘次を制し、先に進んだ。
橋番小屋の明かりのそばで、女の前に立ちはだかる。
「若先生。先夜はご無事で何より」
女はぴたりと足を止め、七兵衛の顔をじっと見た。
「……内田の若先生。あなたも槍突きの御詮議で?」
女は、ふっと息を漏らすと、頭巾を脱いだ。
まだ前髪の残る、凛々(りり)しい美少年であった。年は十五六。
「お主、何者だ。なぜ私を」
「下谷の内田道場の御子息、俊之助様。柳原でのあのお手並み、提灯を叩き落とした速さ、常人ではございません」
俊之助は、当時「今牛若」と呼ばれる剣術の天才であった。
父である内田伝十郎の弟子たちが槍突き退治に躍起になるのを見て、自分も功名を立てようと、女装して「囮」になったのだという。
「一度、広徳寺前で突きかけられたが、かわした。相手は逃げ足が速く、悔しくてな。それで、蔵前では悪戯を仕掛けたのだ」
「駕籠の猫でございますか」
「うむ。野良猫の死骸を懐に入れておき、槍が突き込まれると同時に駕籠から抜け出し、猫を置いてきた。父上には『肝心の相手を取り逃がし、悪戯とは何事だ』と大目玉を食らったが」
俊之助が悪びれずに笑う。
「とんだ御冗談のおかげで、こっちは化け猫騒ぎの始末で難儀いたしました。……しかし、若先生。もう御心配には及びません。その相手、大方知れやした」
「む、まことか」
七兵衛がそう言った、その時である。
二人の背後、橋の暗がりから、足音を盗んで近づく影。
大男が、短い刃物――槍の穂先を握りしめ、七兵衛めがけて突進してきた。
(!)
七兵衛が身をかわすより早く、俊之助が動いた。
少年の手が大男の利き腕を掴む。一瞬の体捌きで、大男はもんどり打って橋板に叩きつけられた。
起き上がろうとするその腕を、今度は七兵衛の十手がしっかりと押さえつけていた。
「……飛んで火に入る、とはこのことだ」
見れば、年の頃は三十七八。片方の耳が無く、熊にでも食いちぎられたような醜い顔の男であった。




