第一章:蔵前の化け猫
文政八年(一八二五年)、八月も末。ひとしきり江戸を震え上がらせた「槍突き」は、盛夏の間は鳴りを潜めていた。だが、朝夕に涼風が立ち始めると、再びその凶行が始まった。
九月も末になると、三日に一人の割合で被害者が出た。主に下町で、所持品には一切手がつけられていない。
「持ち槍の穂先の冴えを試すか、己の腕を試すか……」
八丁堀の旦那方(同心)も、江戸中の槍術指南の道場やその門弟、腕に覚えのありそうな浪人どもに網を張ったが、手がかりは掴めない。
このころ、神田葺屋町に住む岡っ引きの七兵衛は、五十八歳になっていた。盛りは過ぎたとはいえ、その眼光は鋭く、物事の筋道を見通す力は随一とされていた。易者のように事件の行く末を当てることから、「辻占の七兵衛」と人は呼んだ。
十月六日の朝。空はどんよりと曇り、今にも時雨そうな気配である。
七兵衛は妻に先立たれ、雇い婆のお兼と二人暮らしだ。
「婆や、妙な天気だな。冷える」
「へえ。今晩からお十夜でございますからねえ」
お兼が、冷たい板の間を雑巾で拭きながら空を見上げる。
「そうか、浅草のお十夜か。十手とお縄を預かる身だが、この年になると後生が気になる。宗旨は違っても、今夜あたりお説法でも聴いてくるか」
この「お十夜」というのは、浅草寺ではなく、その近くの浄土宗の寺で行われる十日十夜の念仏法要で、江戸庶民にとっては秋の風物詩でもあった。
七兵衛が熱い白湯をすすっていると、子分の一人が居間に顔を出した。
「親分。禿岩が参りやした。何やら慌てた様子ですが」
「通せ」
ほどなく、小鬢に禿げのある岩蔵が、鼻の先を赤くして入ってきた。
「親分、お早うございます。早速ですが、例の槍突きで……妙な話が」
「なんだ」
「ゆうべの五ツ(午後八時)過ぎ、蔵前で、また」
「……またか。殺られたのは」
「それが、どうも」
岩蔵が長火鉢に手をかざしながら、興奮した様子で語り出した。
浅草の勘次と富松という駕籠屋が、空駕籠を担いで柳原の堤を通っていた。この柳原の土手というところは、神田川に沿った道だが、夜は人通りが途絶え、追いはぎや幽霊が出ると噂される寂しい場所であった。
その枯れ柳の陰から、十七八の小綺麗な娘がふらりと現れ、「雷門まで」と駕籠を雇った。頭巾をかぶっていたという。
二人は戻り駕籠で幸いと、娘を乗せて蔵前通りを急いだ。
御厩河岸の渡し場に差しかかった頃だ。暗闇から何者かが飛び出し、いきなり駕籠の垂簾めがけて槍を突き入れた。
「ぎゃっ」
二人の駕籠屋は駕籠を放り出し、半町(五十メートル)ほども逃げた。だが、客を放ってもおけず、恐る恐る戻ってみると、駕籠は往来にそのままある。
「お客さん、お客さん」
声をかけるが、返事がない。
「……やられた」
勘次が震える手で垂簾を上げると、中にいたはずの娘の姿が、ない。
「ねえ、おかしいじゃありませんか。提灯の火でよくよく照らすと、駕籠の中には……大きな黒猫が一匹、胴を突き抜かれて死んでいたそうで」
「黒猫、だと?」
「へえ。どうもその娘、人間じゃなく、化け猫だったんじゃねえかと。夜鷹でもねえ若い娘が、あんな寂しい土手をうろつくなんざ、どう考えても妙です。化け猫が娘に化けて駕籠屋をからかおうとしたところを、槍突きにやられて正体を現しちまった……」
七兵衛は、煙管をぽん、と叩いた。
「……馬鹿馬鹿しい。悪戯にしちゃあ、手が込みすぎている。その娘、十七八で、頭巾をかぶっていたな」
「へえ、そういう話で」
「ご苦労。少し考えてみよう」
岩蔵が下がると、七兵衛はじっと火鉢の灰を眺めていた。
「わるい遊びをしやあがる」




