エピローグ:大川に消えた命
半七の報告を聞いた親分の吉五郎は、目を丸くして驚いた。
「てめえ、まだ駆け出しだと思ってたら、とんでもねえ大物を釣り上げやがったな! よし、すぐに小柳を引っ捕らえろ!」
半七は二人の手先を連れ、再び両国へと向かった。
見世物小屋がちょうど終わる頃、楽屋で着替えをしていた小柳の前に、半七は姿を現した。
「神田の吉五郎親分からのお呼びだ。ちいと来てもらおうか」
その一言で、小柳の顔からすっと血の気が引いた。しかし、さすがは場数を踏んだ芸人だ。すぐに落ち着きを取り戻し、妖艶に微笑んだ。
「あら、親分が? いったい、何の御用かしら」
しらばっくれる小柳を、半七は有無を言わさず連れ出した。
小屋の外で待っていた手先たちに囲まれ、両国橋を渡る道中、小柳は堰を切ったように泣き出した。
「金さんが……金さんがそんなに恋しいか」
「……察してくださいまし」
すすり泣く小柳の姿は、哀れでさえあった。
橋の半ばまで来た時だった。川面には、家々の灯りがきらめき始めている。
「もし、あたしに何かあったら……金さんは、どうなるんでしょうね」
「そりゃあ、本人の言い分次第だ」
半七がそう答えた瞬間、小柳は絶叫した。
「金さん、堪忍しておくれよ!」
彼女は半七を突き飛ばすと、燕のように身を翻した。その動きは、さすが軽業師と言うべきか、目にも留まらぬ速さだった。彼女は欄干に手をかけると、一瞬のためらいもなく、その身を暗い大川の水底へと投じた。
「ちくしょう!」
半七の悪態が、夜の川風に虚しく響いた。
翌日、小柳の亡骸は、向こう岸の杭に引っかかっているところを発見された。
女軽業師は、自らの命綱を踏み外し、その生涯を終えた。
この一件は、江戸中の大きな評判となり、十九歳の若き岡っ引き、半七の名を、一躍高らしめることとなった。
人買いに売られていたお菊は、すぐに無事救出された。番頭の清次郎も疑いが晴れ、後にお菊を嫁にもらい、店を継いだという。金次は、半七の取りなしもあってか、獄門は免れ、遠島処分となった。
「……これがまあ、あっしの初手柄ってやつでさ」
半七老人は、そう言って話を締めくくった。
「あの時、どうして小柳に目をつけられたのかって? そりゃあ、石燈籠の足跡からでさ。どうしても女の足跡らしいが、普通の女にあの塀は越えられねえ。そこで軽業師を思いついた。あとは、評判の悪い女だってえ噂をたどっていったら、案外するすると、尻尾を掴めちまったんでさ」
老人は、懐かしそうに目を細めた。
「まあ、助からねえ命だったかもしれやせんがね、小柳を大川へ飛び込ませちまったのは、今でも悔いが残ってやすよ。あれは、あっしの油断でした」
その横顔には、手柄を立てた若者の得意気な表情ではなく、一つの命を救えなかったことへの、深い悔恨が刻まれているように、僕には見えた。
「さあ、先生。面白い話は、まだまだたくさんありやすよ。また、いつでも遊びに来てくだせえ」
「ええ、ぜひ。また聞かせてもらいに来ます」
僕は半七老人と固い約束を交わし、赤坂の隠居所を後にした。江戸一番の岡っ引きが語る物語は、まだ始まったばかりだ。




