第四章:稲荷町の富蔵
あくる二十八日の朝は、空っ風が江戸の町を吹き荒んだ。 「薬研堀の歳の市は、この風じゃあ寒かろうな」 などと噂をしながら、半七が格子の外に立って、町内の仕事師が威勢よく門松を立てるのを見ていると、亀吉が三十五、六の男を連れて来た。
「親分。この男を連れて来やしたよ。わっしの又聞きで何か間違うといけねえから、その本人を引っ張って来ました」
「そうか。やあ、おまえさん。節季の忙しいところを御苦労でした。まあ、どうぞ、こっちへはいってください」
男は、恐る恐る内へはいって来た。 赭ら顔の小ぶとりに肥った男で、左の眉のはずれに疱瘡の痕が二つばかり大きく残っているのが、妙に眼につく。 かれは下谷の稲荷町に住んでいる富蔵と名乗った。
「ただいま亀さんのお話をうかがいましたら、何かわたくしに御用がありますそうで……」
「なに、用というほどのむずかしいことじゃあねえので」 半七は、火鉢を間に置いて、穏やかに切り出した。
「亀吉がどんなことを云って嚇かしたか知らねえが、実はほんの詰まらねえことで、わざわざ来て貰うほどのことでもなかった。ほかじゃあねえが、おまえさん、この頃に猫の児を、どうかしなすったかえ」
「へえ?」 と、富蔵は案外らしい顔をした。 「それを、何か御詮議になるんでございますか」
「いや、別に詮議というほどの角張ったことじゃあねえ。ただ、わっしの心得のために、少し訊いて置きたいことがあるのだ」
「へえ」 と、富蔵はまだ呑み込めないように、じろりと半七の顔をながめていた。
「そんなことは、嘘かえ」
「なにかのお間違いで……。わたくしは、一向に存じません」
話がまるで違っているので、亀吉も黙ってはいられなくなった。 「おい、おい。なにを云うんだ、富蔵。おまえが大事の猫を逃がしたと云って、さんざん愚痴をこぼしていたということは、仲間の者から聞いて知っているんだ。隠しちゃあいけねえ。さもねえと、おれが親分に嘘をついたことになる。よく後先をかんがえて返事をしてくれ」
「でも、わたくしはなんにも知りませんのでございますから」 富蔵は、その小太りな体躯に似合わぬ皺枯れ声で、すらすらと弁じながら、飽くまでも知らないと強情を張った。 亀吉はとうとう腹を立て、「この野郎!」と喧嘩腰でしきりに問い落そうと試みたが、彼はどうしても口をあかなかった。 自分は商売物の猫の児をなくした覚えはないと、固く云い切った。 亀吉も、とうとう根負けがして、悔しそうに親分の顔色をうかがうと、半七はしずかにうなずいた。
「よし、判った、判った。こりゃあ何かの間違いに相違ねえ。おまえさん、朝っぱらから飛んだ迷惑をさせて、どうもお気の毒でした。まあ、堪忍して帰ってください」
「じゃあ、もう帰りましても宜しゅうございますか」 と、富蔵はほっとしたように云った。
「ほんとうに、堪忍しておくんなせえ。そのうちに何かで埋め合わせをするから」
「どう致しまして、恐れ入ります。じゃあ、これで御免を蒙ります」
怱々(そうそう)と出てゆく富蔵のうしろ姿を見送って、亀吉は忌々(いまいま)しそうに舌打ちをした。
「あの野郎、横着な奴だ。きょうは無事に帰してやっても、すぐに証拠をあげて、もう一度引き摺って来てやるから、覚えていやがれ」
「まあ、熱くなるな、豆腐屋」 と、半七は笑いながら云った。
「あの野郎、猫をなくしたに相違ねえ。さっきからの様子で、大抵わかっている。だが、それをむやみに隠すというのが判らねえ。ここでいつまでも云い合っていても、論は干ねえからな。今はおとなしく帰してやって、あいつの家の近所へ行って、そっと訊いて見る方がいい」
「へえ、内偵ですな」
「そうだ。御用仕舞いで、おれもきょうは暇だから、午飯でも食ってから、一緒にぶらぶら出かけて見よう」
「親分さんが一緒に来てくんなさりゃあ大丈夫です。あの野郎、おれに恥をかかしゃあがったから、何が非でも証拠をあげて、ぎゅうという目に逢わしてやらにゃあならねえ」 と、亀吉は激しい権幕で、時刻の来るのを待っていた。




