第三章:軽業師の影
苔に残された爪先の跡は、驚くほど小さかった。女、それも小柄な女の足跡に違いない。
(やはり、お菊なのか……?)
だが、半七の疑問は消えない。たとえ石燈籠を足場にしたところで、町育ちの娘が、あの高い塀をやすやすと乗り越えられるものだろうか。
(いや、待てよ……並の女じゃ無理だ。だが、もし、並外れて身の軽い女だとしたら……?)
その瞬間、半七の頭に、ある考えが閃いた。
(軽業師だ!)
半七は菊村の店を飛び出すと、一直線に両国広小路へと向かった。
芝居小屋や見世物小屋がひしめく、江戸一番の歓楽街。その一角に、軽業師一座の小屋があった。半七が目指したのは、その一座の看板娘、「春風小柳」という女だった。
この小柳、腕は確かだが、素行の悪さでも有名だった。自分よりずっと年下の、金次という若い男に貢ぐために、あくどい稼ぎ方をしているという噂を、半七も耳にしたことがあった。
(もしや……)
半七はまず、列び茶屋で小柳の情報を集めた。金次の住処が、向こう両国の駒止橋の近くにあることを突き止めると、すぐさまその家へと向かった。
格子の内をそっと覗くと、家の中には誰もいないようだ。金次は銭湯にでも行っているらしい。
半七は上がり框に腰を下ろし、煙草をふかしていたが、ふと壁に掛けられた着物に目が留まった。
(あれは……黄八丈!)
彼はそっと家に上がり込み、襖の隙間からそれを確かめた。紛れもない、お菊が着ていたのと同じ黄八丈だ。袖口のあたりが、まだ湿っている。血の痕を洗い流した跡に違いなかった。
半七が元の場所に戻った、まさにその時、金次が湯から帰ってきた。
「やあ、神田の兄いじゃありませんか。どうしたい、こんな所まで」
金次は、遊び人風の小粋な男だったが、相手が岡っ引きだと分かると、愛想笑いを浮かべながらも、その目には隠せない動揺が浮かんでいた。
「よう、金次。ちいとばかし、聞きてえことがある」
半七は単刀直入に切り出した。火鉢をいじる金次の手は、火箸が鳴るほどに震えている。半七が黄八丈の着物を指さし、静かに問い詰めると、金次は観念したのか、顔面を蒼白にして畳に手をついた。
「兄い……なにもかも、お話ししやす」
金次の告白は、衝撃的なものだった。
事件の始まりは、おとといの昼過ぎ。金次と小柳が浅草をうろついていると、茶屋から出てくるお菊と清次郎の姿を見かけた。
「小柳の奴がね、『あれは日本橋菊村の娘だ。あの娘を一杯食わせてやろう』って言い出したんでさ……」
小柳は、化粧品を買いに時々菊村の店を訪れていたため、お菊の顔を知っていたのだ。
金に困っていた二人は、お菊を誘拐し、人買いに売り飛ばすことを計画した。小柳がお菊を言葉巧みに誘い出し、駕籠に乗せて両国の隠れ家へと連れ去った。
「あんまり可哀想だとは思ったんですが、小柳に逆らえなくて……娘さんを戸棚に押し込んで……」
その日のうちに、娘は潮来の人買いに四十両で売られ、翌朝には駕籠で送られていったという。
「娘さんを売る時に、着ていた黄八丈をひっぺがして、小柳の着物と着替えさせたんで、娘さんの着物はそっくりこっちに残って……」
「……その黄八丈を着て、小柳がお菊に化け、菊村の店に忍び込んだ。そういうわけだな」
半七の言葉に、金次はこくりと頷いた。
「へえ……。店の金を手箱にしまってあるってことは、娘さんを脅して聞き出したんでさ。おとといの晩は、うまくいかねえで帰ってきやしたが、ゆうべ、『今度こそは』って、また出かけていきやした。そしたら……」
金次は言葉を詰まらせた。
「……『今夜もしくじった。おまけに、かかあ(お寅)が大声出しやがったから、自棄になって土手っ腹をえぐってきてやった』と……。袖に血が付いてるのを見たら、嘘じゃねえ。とんでもねえことをしてくれたと、あっしはもう、生きた心地がしやせんでした……」
だが、当の小柳はケロリとしたもので、「なあに、大丈夫さ。この着物が証拠だ。世間じゃ娘が殺したと思ってるに違いねえ」と、うそぶいていたという。
「……正直に話してくれたな、金次。てめえも、とんだ悪女に惚れたのが運の尽きだ。小柳はどうせ獄門だが、てめえは情状酌量で、首だけは繋がるかもしれねえ。さあ、神田の親分の所まで、一緒に来てもらおうか」
半七の言葉に、金次はただ、「ありがとうございます」と涙を浮かべるばかりだった。




